C.046 合奏練習へ
管弦楽部では初心者部員への基礎指導が続いていた。
設定上の活動日は毎日となっているが、本当に毎日来ているのは菊乃やはじめのような一部のメンバーだけである。大半の部員は週に一度は活動を休んでいたし、生徒会代表委員の仕事を兼ねる二年の下関佳子など、全体の半分ほどにしか姿を現さない。
当の里緒は毎日のように花音に強制連行されるので、結果的に部内でも珍しく皆勤を成し遂げていた。忙しなかったが、部活を休んでまでやりたいことがあるわけでもなかった。
音楽室に集まると、まずは全体でその日の動きを確認してからセクション別に分かれて体操をやり、それからパート練やセクション練に移行する。場合によっては体操のあとに呼吸法の訓練や体力作りが挟まり、適宜パート練を切り上げて全体練習に移ることもある。最後にまた全員で集まってミーティングを済ませ、解散──という流れだった。
もっとも、体操は周りの子たちとしゃべりながら。
パー練やセク練の半分近くは雑談大会。たまに上級生の誰かがお菓子を持ち込んで、ちょっとしたパーティーも開催。
打楽器や弦楽器には必要ないものなので、全体でのブレストレーニングにはたまに着手するだけ。
そこにあるのは、経験者の里緒にとってはゆとり以外の何物でもない、ごく緩慢な活動の日々だった。
楽しいと思えているのかは分からない。しかし貴重な時間を浪費しながら怠ける時間が、里緒は不思議と嫌いではなかった。ひとりでも楽器は吹けるけれど、雑談やお菓子パーティーはひとりではできないから。
嫌でも会話の機会を重ねてゆくうちに、同じ美化係で仕事を共にしているフルートの白石舞香とも、ぎこちないながら会話ができるようになってきた。
相変わらず、練習終わりの掃除の時間は、三年の香織を交えた三人だけの会話にあらかた費やされた。セクション内にいると里緒の話し相手は決まって花音に固定されてしまうので、掃除中の会話は里緒にとっても、それから舞香にとっても新鮮な機会のようだった。
──『独りぼっちで練習してて寂しくないの?』
──『そんなことないよ。もう、慣れた』
──『え、でも中学の吹部では別に独りぼっちとかじゃなかったんでしょ? 慣れるの早くない?』
──『……う、うん。早いかもしれない』
──『わたしだったら独りぼっちなんて絶対イヤだけどなぁ。早く合奏やらせろって思っちゃうよ、やっぱ。高松さんも思ってることあるならきちんと言った方がいいよ?』
──『私、むしろ合奏の経験がほとんどないから、ちょっと不安だな……』
こんな話をするといつも、変なの、と言わんばかりに目を丸くされた。“普通の経験者ならばできる”ことが里緒にはできなかったりするのは、やっぱり吹奏楽部への所属期間が短かったせいもあるのだろう。さも意外そうな反応をされるのにも、段々と慣れてきた。
舞香はやたらと自分の話をしたがった。中学での初恋のこと、修学旅行のこと、合唱部の活躍のこと。嬉しそうに自分の履歴を開示しては、その都度、里緒にも過去の体験を語るように求めてきた。
──『色々あったよ』
里緒はいつも苦し紛れに言い逃れた。だって、初恋なんてしたこともなかったし、修学旅行にも参加できなかったし、中学時代の吹奏楽部にはろくな思い出がないから。そんな荒んだ過去を素直に話せるわけがなかったし、進んで話したいとも思えなかったのだ。
あまりにも舞香がしつこく迫るので『聞いても楽しくないよ』と答えてしまったこともある。舞香はばつの悪そうな顔をして、そっか、と言葉少なに応答した。里緒の良心はしっかり痛んだが、暗い過去を素直に白状してしまうのと、頑なに秘密を守るのと、どちらがマシなのか里緒にはよく分からなかった。
そんなこんなで舞香や花音とは話せるようになったものの、彼女たち以外の一年生──たとえばテナーサックスの新富忍などとは、相変わらず里緒はいっこうに親交を持てずにいた。
彼女はスマホのリズムゲームが好きなようで、休み時間になると無言でゲームに没頭してしまう。花音たちが話しかければ普通に顔を上げて会話に興じるのだけれど、話しかける度胸のない里緒にはそれもどだい無理な話だった。周囲に無関心そうな態度で堂々と振る舞うことのできる忍が、里緒にはほんの少し──ほんの少しだけ、羨ましくもあった。
木管セクションには男子は一人しか在籍していない。同じ一年部員のアルトサックス奏者、大館光貴である。女子が多勢を占める吹奏楽部や管弦楽部では、彼ら男子を異性として意識することは少ないのが普通だ。そうは言っても里緒だけは例外で、男子部員を目の前にしているとやっぱり怯えを覚えてしまう。
とはいえ、寡黙な光貴は同じサックスの忍か、あるいは指導担当の松戸佐和くらいとしか言葉を交わさない。サックスパートは全体的に物静かで、里緒が彼ら彼女らと接点を持つ機会も皆無に等しかった。アルトサックスを取り回す彼の手付きが少しずつ様になっていくのをぼんやりと眺めていると、ああ、人って練習を積むとこんなに変わるんだと、素直な感動が胸に花開いた。
全体練習やトレーニングはセクション横断で行われる。体力作りのランニングでは、毎度のように花音が男子部員勢とデッドヒートを繰り広げていた。その相手はもっぱら、打楽器を司る三年部員の芽室徳利と一年の川西元晴である。一年生の大半が所属する楽器運搬係のリーダーを務め、下級生全員から『徳利先輩』と呼ばれて慕われる徳利と、その第一の弟子を自負して子分のようについて回る元晴。中学では二人とも水泳部に所属していたそうで、基礎体力の量では他の部員たちを決して寄せ付けない。がたいのいい大柄の二人が小柄の花音を相手に、汗と火照りで顔を乱しながら高速で競り合う様子は、端から眺めている分にはなかなかの見ものであった。
──『私にだって元テニス部員の意地があるんだもん!』
毎度、鼻息も荒く宣言してから二人に勝負を挑みにゆく花音の背中を、里緒はいつも一年生たちの後ろからこっそりと見送るばかりだった。周回遅れ常習犯の里緒などにはとうてい到達できない境地が、そこにはあるのだ。
花音の強靭さはそれにとどまらない。汗だくになりながら教室に戻ってきても、“バトンちゃん”を手にした途端に嘘のように活力を取り戻して、そのまま美琴の隣で楽しそうにロングトーンを始めてしまう。
花音はやっぱり、すごい。つくづく感心させられる。音程こそ安定していないが、しっかりと連続して音を出せる段階には追い付いてきた。
(もう少ししたら、一緒に吹ける水準まで上ってきてくれる)
ちょっぴり膨らんだ淡い期待をいつも持て余しながら、黙々と基礎練習に励み続けること、一週間と少し。
ついに、その日はやってきた。
大島ミチル作曲、〈『天地人』オープニングテーマ〉。その曲名を知らなくとも、高らかに吹き鳴らされる冒頭のファンファーレを一度も聞いた覚えのない人はきっと少ないことだろう。
同名のNHK大河ドラマの主題歌、オープニング曲として起用されたこの音楽は、主として前・中・後の三つのパートに分けられる。規則正しいティンパニの鼓動がたのもしい、勇猛果敢な武将の進撃を思わせるリズミカルな序盤。一転して弦楽器を主人公に据えた、母性や郷里の優しさを感じさせる穏やかで繊細な曲調の中盤。そして、深い谷の上を渡ってゆくような緊張感を孕みながらも、やがて再び序盤と同じ金管楽器の勇ましい主題へと回帰してゆく締めの終盤。それらが一体となって、作品世界への導入を美しく促している。映画音楽を中心に数々の劇半を担当し、重厚な響きの交響曲を作ることに高い評価のある、作曲家・大島ミチルならではの名曲である。その人気ゆえに吹奏楽アレンジの楽譜も制作、公開され、管弦楽を嗜まない者にも手の届く曲になっている。
曲の長さはおよそ三分前後。そう長くはないし、なんといっても格好のいい曲なので、はじめての人にも確実に演奏のやりがいを感じてもらえること請け合いである。
そんな理由で、今年の弦国管弦楽部の『立川音楽まつり』参加曲は、この〈『天地人』オープニングテーマ〉に決定された。
五月十三日、月曜日。菊乃の手によって楽譜が配られた。試聴用に準備されていたCDを流すや、一年生たちは一斉に互いの顔を見つめ合った。
「すげぇ! 惚れ惚れする!」
「これ私たちが演奏するんでしょ? うわー、憧れるなぁ……!」
「うんと綺麗に決めたいね! 最後の“ジャン”ってとことか!」
隣の花音も興奮を隠しきれない様子だった。ようやくまともに演奏のできるようになりつつある彼女のクラリネットを見、喉元まで出かかっていた言葉を里緒はとっさに噛み砕いた。
〈『天地人』〉の演奏では金管楽器や弦楽器が主役を務める。多分、ラストの盛大な締めの部分では、クラリネットの細やかな音色など跡形もなく掻き消されてしまうことだろう。
それでも、
(ここに来てから、初めての本番だもんね)
うつむいて漆黒の管体を握りしめる手は、いつもよりも少しだけ汗ばんで、ほのかな熱を持っていた。
今度の楽譜は吹奏楽アレンジ版に準拠している。手元にあるのはいつもの自前のA管ではなく、準備室から借りてきた部所有のB♭管である。
「立川音楽まつりには基本的に三年部員は出演しません。二年と一年、それに打楽器のメンバー不足を補ってもらう芽室と、指揮を執る私を含めた二十二人だけで、この格好いい曲を作り上げていきます」
丸い形に並んだ部員たちを見渡し、はじめは声を張り上げた。
「一年のみんなには初めての晴れ舞台になります。今日から一ヶ月間、集中して頑張っていこう」
「はい!」
曇りのない声が音楽室に響き渡った。
みんなの顔には希望の色が染み渡っている。花音も、ファゴットの緋菜も、フルートの舞香も、揺るぎのない光を瞳に乗せて背筋を伸ばしている。失敗なんて有り得ないかのような前向きな空気の中で、里緒は黙ったままうつむいて、浅い息をした。
人よりも欠けてしまっている一ヶ月後への希望を、そうすれば多少なりとも補えるのではないかと思った。
里緒の肩に乗る荷は『立川音楽まつり』だけではない。コンクールでの演奏曲が何に決まったのかを里緒はまだ聞かされていないが、いずれにせよ、与えられた任務は独奏。きっと生半可な練習量では足りないはずだ。
先行きを楽観視することはできそうもなかった。
(人一倍は頑張らなくちゃ)
無言で握りしめたクラリネットの冷たい管体に、里緒は焦燥感にも似た覚悟をそっと押し付けた。
「高松さんのレベルでも足りないような演奏を要求されてるってことだよね、つまり」
▶▶▶次回 『C.047 猛練習』