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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
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C.045 学校の顔

 




 引き受けるべきか、断るべきか──。


「…………」


 管弦楽部の名の書かれたA4サイズの紙を、須磨京士郎は机の上にそっと放った。

 ふわり、紙は風圧に乗って軽やかに業務用机の上を舞う。さすがに粗雑に扱いすぎたかと焦ったが、職員室にはほんの数人ほどの人影しか見当たらなかった。今は五限目の授業中。見咎められる心配は要らなさそうだ。

 ──コンクール、か。

 背もたれに寄りかかって天井を見上げると、自然と声が喉を漏れ出した。


「うちの部がコンクールか……」


 書面は部員の有志が持ってきたものだった。コンクールに出るので指導をしてほしい、すでに曲目も日程も決まっている、無理なら外部の指導者を招聘(しょうへい)しようと思う。……おおむね内容としてはそんなものだったか。口頭で概要を説明され、お願いしますと頭も下げられた。すぐに応じることができず、『あとで返答する』とだけ告げて、ひとまずその場を収めたのだった。

 机上のカレンダーには講義の予定が書き込まれていた。毎週木曜日の一~四限、高校三年の選択音楽の授業。毎週金曜日の一~四限、高校一年の音楽の授業。授業をやっているのはそれだけで、残りの曜日は担任を受け持つクラスの管理のほか、行事運営などの学務の補佐に当たったり、外部の学校や音楽団体を指導して回っている。一応、雇用形態としては『常勤講師』なのだけれど、そもそも音楽の授業が少なすぎるという事情もあって、弦国では他校との掛け持ちが特別に許されているのだった。

 可能か不可能かで言えば、不可能ではない。

 時間もある。指導の余地も十分にあるし、自分の技量では不足ということもないだろうと思う。

 それでもこうして悩んでいるのは、もっと重大な懸念が横たわっているからで──。

 空中に意識を飛ばしていると、不意に背後のコーヒーメーカーが稼働する音がした。京士郎は慌てて姿勢を改めた。


「なんです、それは」


 立っていたのは副校長だった。天童(てんどう)俊也(としや)、社会科の教鞭をとっている背の低い男である。


「部の方で、ちょっと」


 京士郎は言葉を(にご)した。立ち上がると天童の身長をやすやすと越えてしまうので、彼の隣にいると何となく立ち上がるのが(はばか)られた。

 天童の顔がわずかに(かげ)った。


「管弦楽部ですか」

「ええ。……あ、いえ、お気になさらないでください。大したことではないですから」

「いやいや。別に疑う気持ちがあるわけじゃない」


 マグカップを撫で回しながら天童は相好を崩した。天然パーマのかかった髪が、蛍光灯の輝きを乱雑に反射した。


「須磨先生が珍しく悩んでらっしゃるようで気にかかりまして。部の子たちとは、上手くやっておられるんですか」


 かくいう天童自身、合唱部の顧問を務めている身でもある。人伝(ひとづて)に聞く限り、生徒たちからは『もじゃもじゃ先生』などと名付けられて人気者になっているらしい。

 ほどほどに、とだけつぶやいて、机の隅に追いやっていたペットボトルを引き寄せた。ほどほどにですか、と天童は口のなかで京士郎の選んだ言葉を反芻(はんすう)した。他人の口から聞くと、気持ちのよい響きに感じられなかった。

 京士郎はかれこれ一ヶ月以上、管弦楽部に顔を出していない。そもそも一年部員たちの前で自己紹介したことすらなかった。書面上、誰が入部したのかを把握しているくらいである。他校での勤務があっても基本的に午後は必ず弦国に戻ってきているので、部の活動に加われないわけではなかった。それでも足が遠のいてしまう。部員たちの側からも、何となく避けられ続けている印象がある。だいたい京士郎の補佐がなくとも、彼らは部の運営を自分たちの手で円滑に行うことができている。

 放課後の音楽室には、京士郎の出る幕はこれっぽっちもない。だから行かない。それだけのことだった。

 コーヒーメーカーが甲高い電子音で調理完了を告げた。中身を()いだ天童が、京士郎の椅子のすぐ横に立った。


「今年の野球部も好調らしいですね」

「三年の宇都宮くんのおかげでしょう」

「ええ。彼の影響は大きいですからな……。今年のメディア露出は例年にもまして盛んになりそうだ」


 天童はうなずいた。

 弦国野球部のエース・宇都宮(うつのみや)誠太郎(せいたろう)は、昨年と一昨年の全国高校野球選手権大会で大量のホームランを客席に打ち込む活躍を挙げ、今や都内の高校野球選手としては最も世間の耳目を集める存在にのし上がっている。大学に進むかプロ野球の道を選ぶか、本人は迷っている最中なのだそうだが、すでに仙台ラックスをはじめとした複数のプロ球団がドラフト会議で彼を指名しようと計略を練っていることが各紙で報じられている。

 以前より夏の甲子園で優良な成績を収め続けてきた弦国野球部は、ここ二年、宇都宮の活躍もあってさらなる快進撃を見せている。テレビや新聞の取材の標的にされる機会もずいぶん多くなった。


「先日、応援部が生徒会代表委員会のほうに要望書を出してきたそうでしてね」


 どっこいしょと隣の席に腰かけ、天童は京士郎の顔を覗き込んだ。


「吹奏楽部の設立を改めて要望したい、とのことだったんですがね。認可してもいいものかと生徒会の子たちから相談を受けまして」

「…………」


 京士郎は返事をしなかった。急に野球の話を振ってきたのはそういうわけかと思った。

「いや」と焦ったように天童が言葉を()いだ。


「以前も同じようなことをお聞きしましたが、別に須磨先生に顧問をお引き受けいただきたいというわけではない。顧問をやりたいと申し出ている先生も、すでに何人かいらっしゃる」

「……そうですか」

「ただ、私としては、改めて吹奏楽部を設立したいとは思わんのです。要するに応援要員としての吹奏楽団がほしいということでしょう。それなら私は既存の管弦楽部で十分だと思う。とはいえ……、いまの管弦楽部では規模や実力の面で足りない部分があるという意見も、理解できない話ではないんですよ」

「…………」

「須磨先生」


 天童は一拍を置いた。


「今や野球部は我が校の顔だ。ということは必然的に、夏の甲子園で応援席に立つ応援部や管弦楽部の子らも我が校の顔となるわけです。顧問(あなた)にはもっと積極的に彼らに関与していただき、管弦楽部を()り立ててもらわねばならない。それができるのは須磨先生だけなんです」


 吹奏楽部の設立要望が出されたのはこれで三年連続のことになる。他校には当たり前に存在している大規模な吹奏楽団が、我が校にだけ存在しないのは不自然だ──。そんな主張が教師たちの間からも公然と出てくる。天童はそれらをなだめ、落ち着かせ、管弦楽部があるからと説き伏せて回ってきた。二つの楽団を維持するのは金銭面でも練習場所確保の面でも困難が多いし、何より無駄である。それが、自ら音楽系団体を率いる天童の見立てだった。

 天童の言い分はわきまえている。

 それでもやはり、


「……分かっています」


 京士郎にはそれ以上の返答を見出すことはできないのだった。

 言いたかったことを吐き出し終えたのか、天童はマグカップを掲げて微笑むと自席のある方へ戻ってゆく。それを確認して、ふたたび(くだん)の紙に目を落とした。たちまち憂鬱な気持ちが頭をもたげてきて、京士郎はそっとまぶたを下ろした。

 ──外部の指導者を探す手伝いくらいはしてやろう。

 そう、決めた。乾いた角膜に汗が染みて、ぴりりと小さな痛みを刻んだ。








「これ私たちが演奏するんでしょ? うわー、憧れるなぁ……!」


▶▶▶次回 『C.046 合奏練習へ』

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