C.044 青天の霹靂
内科の医師は、ふらふらとおぼつかない足取りで診察室を訪れた里緒の顔色を見るなり、聴診器も当てずに風邪の原因を断定した。
──『疲れ。それと食事。もっと健康的な生活を送ってください。早死にするよ』
いわく、日頃から量の少ない食生活を送っていたことで免疫活動が弱まり、そこに疲労の蓄積が追い討ちをかけたのではないかという。家事をほとんど自力でやっていることを話すと、医師は付き添いで来ていた大祐にまで説教を始めた。いったい何のために親がいるんだ、もっと生活を支えてやりなさい──。黙って聴いているといたたまれなくて、大祐のみならず里緒まで肩を縮めてしまった。
結局、解熱剤を飲み続けてもなかなか体温が平熱レベルまで下がらず、里緒の欠席はゴールデンウィーク明けまで長引く羽目になった。部活に顔を出すのもダメ。屋外で楽器を吹くのもダメ。遊園地など以てのほか。片っ端からドクターストップをかけられた。
【ごめんなさい。遊園地、行けなくなっちゃいました】
恐る恐る、夜になって断りのメッセージを花音に送った。
画面越しの会話だと敬語が外せない。自分から誰かにメッセージを送ること自体があまりに久しぶりで、無事に返信を寄越してもらえるのか不安で仕方なかったが、じきにたいそう元気なメッセージが戻ってきた。
【大丈夫! おみやげ買ってくるから! また今度行こ!"(ノ*>∀<)ノ】
それが花音なりの配慮なのだろうと分かってはいても、『里緒ちゃんがいなくても楽しめる』と暗に告げられているように感じてしまう。里緒はそっとスマホを伏せ、着信に気づかないようにした。メッセージを見ようと見まいと、どのみち惨めであることに変わりはなかった。
静かな数日が無為のうちに過ぎていった。
眠っている間に、流れるように。
「はい! これ、約束してたおみやげ! と、休んでた間のノート!」
休み明けの朝一番、席に駆け寄ってきた花音が差し出したのは、三日間の授業の分の板書の溜まった一冊のノートと、長方形の平べったい箱に入ったお菓子だった。
包装を見る限り、内容物はバニラ味の焼き菓子らしい。遊園地のキャラクターとおぼしい何かが、ホイップ状のホワイトチョコレートで大きく描かれている。
「わ、かわいい」
浮かんだ感想をつぶやいてから、慌てて里緒は眉を下げた。
「ごめんなさい、わざわざ買ってきてもらっちゃうことになって……」
おまけにこうしてノートを用意する手間までかけてしまった。「ほんとだよー」と花音は大袈裟なため息を床に転がした。
「みんな寂しがってたもん。里緒ちゃんとも一緒に行きたかった!」
それが本当なら、どんなにか嬉しいだろう。あまり期待の思いを抱くことのないように、里緒はいそいそとお菓子の箱をカバンにしまい込んだ。
西国分寺駅から武蔵野線に乗り換え、さらに南武線に乗り換えて四駅ほど。多摩川南岸の町・稲城に『にっさんランド』という遊園地がある。むかし東京に住んでいた頃から、里緒も何となく名前だけは聞き及んでいた。関東有数の走行速度を誇るジェットコースターが有名なのだというが、里緒がそんなものに乗ったら失神どころでは済まされないと思った。遊園地に同行していたら、花音に連れられて強制的に乗らされたに違いない。案外、風邪のおかげで命拾いをしたのかもしれない。
「あ、これも買ったんだった」
なおもカバンをごそごそと漁っていた花音は、細長い小さな包装の箱を引っ張り出した。
ミント味のガムのようだった。
かと思うと、花音はそれを引っ掴んだまま、大股で紅良の席の方へ歩いてゆく。
「西元ー」
呼び捨てにされた紅良が胡散臭そうに顔を上げた。
「なに、そのガム」
「おみやげ。管弦楽部のみんなで行ってきたんだよねー」
「へぇ……。ありがとう。花音ってそんな心配りもできたのね」
「もー、そうやっていっつも一言多いんだからぁ」
ぶつくさ言いながらも、花音は紅良の机にそっとガムを置いている。紅良もそれを抵抗なく受け取っている。二人の顔には笑みさえ伺えた。
里緒の頭は灰色の違和感で埋め尽くされた。
(あの二人、あんなに仲、よかったっけ……?)
そういえば互いの呼び名も以前と変わっている。里緒の不在の間に、二人に何か心境の変化でもあったのか。
こうして遠目に眺める限り、紅良と花音はごく普通の友達同士のように振る舞っている。上澄みの違和感が拭い去られてしまうと、底に沈殿していた安堵の感情があらわになる。よかった、と思った。あの二人が積極的に仲違いの溝を埋めてくれるのであれば、板挟みにされるばかりの里緒にとってもありがたい話に違いない。もう、二人の間で過呼吸に陥る心配をせずとも済むのである。
なのに、どうしてだろう。
置いてけぼりにされてしまったような感慨が胸を包むのは。
ひとしきり紅良と話を終えた花音が、里緒ちゃーん、と高らかに名前を呼びながら戻ってきた。花音のノートの隣に自分のそれを並べながら、里緒は花音に視線を戻した。普段と少しも違わぬ屈託のない彼女の笑顔が、一瞬、網膜の内側でわずかな歪みを見せた。
ほんの少し目をそらしている隙に、世界はあっけなく姿を変えてしまう。
(私の知らないところで、みんな、けっこう繋がってるんだね)
嬉しそうに前の席の机に腰かけて遊園地の思い出話を始めた花音に、時おり上の空で相槌を打ちつつ、里緒は指先に滲んだ切ない感情をノートに押し付けた。
クラスメートが、仲間たちが、怖い。
安全圏に逃れたはずの今もなお、ふと我に返った瞬間、衝動的に距離を取ってうずくまりたくなってしまう。
胸を張って花音や紅良を『友達』と呼べるのは、果たしていったいどれほど先のことになるのだろう。里緒自身がまだ、その答えを欠片も持ち合わせていなかった。
◆
いきなり連れ込まれたのは音楽準備室だった。
準備室には音楽室ほどの防音加工はなされていない。耳をすませば、そこには校庭で練習を繰り広げる運動部員たちの元気な声が届いている──はずだった。壁際のラックに追い詰められ、真っ白になった里緒の頭に、そんな雑音の入り込む余地は少しもなかった。
「……せ、先輩、」
「頼みがあるの」
ずいと顔を近付けた菊乃が、迫った。
「あたしたちと一緒にコンクールに出てほしい!」
ずらり、菊乃の背後に居並ぶ二年の先輩たちが、一様に懇願するような表情を描いた。美琴だけが普段通りの仏頂面だったが、それが余計に里緒の不安を掻き立てる。
“コンクール”?
“あたしたちと一緒に”?
先輩たちが何を言っているのか理解できない。里緒はどこか別の、知らない時間軸に来てしまったのだろうか。いつものように放課後、音楽室に来て、集合のかかる前に少しでも個人練を進めておこうとしただけだったのに。
「す、吹コン、出られないんじゃなかったんですか……?」
尋ね返す声が恐怖でひび割れていた。菊乃はうなずくや、すぐさま一枚の紙を里緒の前に突き出した。見覚えのないコンクールの開催要項が事細かに列記されていた。
「『全国学校合奏コンクール』。あたしたち、これに学校として挑むことになったの。それに当たって是非、高松ちゃんの力を借りたい! あのクラをコンクールでも吹いてほしい!」
「そんな……、私」
「お願い! ちょっとソロやるだけだから!」
さらに恵が畳み掛けてきた。私が、独奏──? 里緒はますます断りたい衝動に駆られた。とんでもない、そんな技量も度胸も里緒にはない!
しかし悲しい哉、きっぱりと断りを入れられるだけの度胸もまた、ない。
「で、でも私、まだ一年ですし、私だけ先輩たちの中に混じるなんてっ」
震える声で反論を試みた途端、二年生たちの影から緋菜が顔を覗かせ、里緒は自分の心が清々しい音を立てて折れたのを自覚した。
あまつさえ、緋菜の後ろにはヴァイオリンの出水小萌の姿も見当たる。遅かった。すでに菊乃たちは学年代表たちにまで手を回してしまっていたのだ。里緒の抵抗を先読みして、巧妙に外堀を埋めにかかっていたのである。
「藤枝さん……出水さん……」
「ごめんね、私たちも断りきれなくて」
緋菜と小萌は半笑いの表情になった。
強い眩暈で里緒は今にも倒れそうだった。入部する前、はじめは確かに『コンクールへの参加は検討していない』と明言していたではないか。まさかこんなに早く反故にされるだなんて思わなかったし、そこによりにもよって自分が巻き込まれるだなんて夢にも見ていなかった。
ラックに寄りかかったまま震える里緒の手を、菊乃は両手でそっと包み込んだ。
純粋な、濁りのない、真剣そのものの眼差し。
それが誰かを騙そうとしている人の瞳に見えなかったのは、里緒がお人好しすぎるせいなのかもしれない。
「心配しないで。高松ちゃんにはあんな素敵な演奏のできる実力があるんだから。あたしもみんなも、そのことは誰より分かってる。いつもと同じ感覚で、いつもと同じ実力で、ただ舞台の上でクラリネットを吹いていてくれればいいんだ」
「……でも、私」
「大丈夫!」
決死の抵抗はきっぱり遮られた。菊乃には反駁の暇を与えるつもりはないらしい。包む手に力を込め、彼女は正面からまっすぐに里緒を見つめる。
「あたしたちだけじゃ、足りない。高松ちゃんの音が必要なの。あの音は高松ちゃんにしか出せないの。たった一曲だけでいい、あたしたちに力を貸してほしい!」
滝川先輩はずるい──。
苦し紛れに逸らした視線の先に、ほこりをかぶって転がる楽器の山を見つけて、里緒は唇を噛んだ。
この先輩は里緒がどんな言葉に反応するのか分かっている。“ここにあなたの居場所がある”、“ここはあなたを歓迎する”。それが里緒の卑屈な自尊心を満たす言葉であることを、ちゃんと菊乃は知っているのだ。
窓から差し込む夕方の光が、かげろうのようにほのかに揺れている。
野球部員たちの叫びも揺れて聴こえる。
傍目に見た里緒の姿も、今は、きっと。
「お願い!」
ついに菊乃は深々と頭を下げた。ほかの二年生も一斉に下げた。勢揃いした九人の部員たちに里緒ひとりが頭を下げさせている構図が、憎たらしいほど完璧にできあがってしまった。
断る勇気など、出せるはずもなかった。
「……分かりました」
里緒は蚊の鳴くような声で返事をした。届いていないかと焦った矢先、菊乃たちが顔を上げた。はち切れそうなほどの満面の笑みが、たちまち里緒の意識を跡形もなく飲み込み、疑う思考力を根こそぎ奪い取った。
「よかったぁ────!」
「これで百人力だ!」
「最低でも金賞はもらったな!」
あの低姿勢っぷりが嘘のように、菊乃の後ろで二年生たちが一斉に湧いた。里緒は呆気に取られたまま、その姿を見つめた。思っていたよりも淡泊な反応に感じられた。
一拍遅れた菊乃は、握り続けていた手をそっと離して、微笑んだ。
「ありがとう。うなずいてくれて」
指の間がじっとりと湿っている。惚けたように白む頭を振り、里緒は「いえ……」と掠れた声で答えた。
「勢いで色々と言っちゃったけど、すっごく期待してるのは本当だから。あたし、絶対、高松ちゃんを最高の舞台に立たせるからね」
里緒は目を伏せた。
分かっている。参加を促すための方便だと思ったわけではない。たとえ事実がどうであれ、里緒にはそんなに誰かの裏を勘繰ることはできないのだ。
行こう行こう、と二年生たちが退出を始め、菊乃も準備室を出ていった。その場に残された里緒は、ぼんやりと焦点の定まらない視線を反対側の壁に向けたまま、しばらく冷たい金属ラックに寄り掛かっていた。摩擦抵抗という概念がなければ、今にも床へ崩れ落ちてしまいそうだった。
断れなかった。
断る余地なんてなかった。
(仕方……なかったよね)
胸に手を当てて、問うてみた。
今にも過呼吸を起こしそうな勢いで鳴り響いている左胸の鼓動が、その問いに対する答えのすべてだった。
「外部の指導者を探す手伝いくらいはしてやろう」
▶▶▶次回 『C.045 学校の顔』