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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
46/231

C.043 曲目決定

 




 里緒は翌日になっても学校を休み続けた。それは花音の口から管弦楽部にも伝えられ、木曜日の部活は里緒が不在のまま開かれることになった。

 とは言え、幸いにも里緒は指導を受ける立場でもなければ、指導を施す立場でもない。

 管楽器奏者は口を直接マウスピースにつけるので、感染症には人一倍の注意が必要だ。冒頭、はじめは『気を抜かないように』と言って部員たちを(いまし)めたが、その声色はわりかし切迫感や危機感を欠いていたように感じられた。初心者ならば基礎をしっかり積み上げればいけない時期である。倒れたのが基礎の仕上がっている里緒でよかったと誰もが胸を撫で下ろしたのも、仕方のないことだっただろう。

 しかし菊乃だけはそうではなかった。


「──困ったなぁ」


 午後六時の解散後、丸い形に集まった仲間の顔を見回しながら、彼女は露骨に眉間へしわを寄せた。


「高松ちゃんには参加してほしかったのにな」

「まあまあ、だってまだ参加が確定してるわけでもないんだし」

「あたしの中ではもう確定してるつもりだったんだよー。一番大事なメンバーの一人のはずだった」


 はち切れそうに楽譜の束の入ったファイルを指先でいじくりながら、菊乃はすっかりいじけている。とりなしに失敗した恵が(すが)るように美琴を一瞥(いちべつ)した。美琴はつい、目をそらしてしまった。

 活動方針決めミーティングから二日が経っていた。『全国学校合奏コンクール』への応募許可を取り付けたのはいいものの、曲が決められないのでは練習のしようもない。そこで菊乃が声をかけ、趣意に賛同した二年生たちや経験者の一年生を、部活終わりの音楽室に残したのだった。

 話し合いの目的はひとつ。

 演奏曲を確定させることである。




 今回、参加の意思を示しているのは七人。経験者の一年生を加えたとしても、楽器はたったの十しか揃えることができない。おまけにその面子はクラリネット2、フルート1、ファゴット2、ホルン1、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1。何ともバランスが悪い。致命的に人数が少ない上、金管(ブラス)はホルンが一人いるだけ、打楽器に至っては一人もいない。

 クラシック音楽には大きく分けて四つのジャンルがある。管弦楽曲、室内楽曲、器楽曲、声楽曲で、管弦楽曲の中にはさらに交響曲や協奏曲といった小分類が存在する。クラシックとは“古典”の意であり、近年になって発達してきた吹奏楽曲はクラシック音楽には分類されないことが多いが、曲や演奏形態の性質を考えれば交響曲のジャンルに近いものといえるだろうか。

 この中から、まずは今度のコンクールで演奏する曲のジャンルを決めなければならない。

 普段ならば好きな曲を選んでから、持っている楽器に合わせて編曲するのだけれど、今回の挑戦相手はコンクール。人数の少ない中で下手に編曲すると、原曲への影響が大きくなりすぎる。可能な限り編曲せず、原曲通りの雰囲気で行きたいというのが、菊乃たちの意向だった。


「しっかし、どう考えても交響曲はやれないメンツだね」


 直央がルーズリーフを投げ出すと、ファゴットの八代智秋も頬杖をついた。


「室内楽にしても中途半端なんだよなー、これ。かなりの人数が余るし、楽器にも(かたよ)りがありすぎるしさ」


 室内楽、またの名を重奏。各楽器のパートを一人の演奏者が受け持つ、ごく少人数で編成された合奏(アンサンブル)の一種である。弦楽器から木管、金管、ピアノ、さらには同属の楽器だけで構成された室内楽も存在するが、今度ばかりは適した編成を見つけるのも至難の業になりそうであった。

 智秋の隣に腰かけていたボブカットの一年生が、楽器を握りしめて苦笑いした。一年生学年代表の藤枝緋菜である。


「それ、ぜったい私たちのパートのせいですよね……」


 緋菜や智秋の楽器はファゴット。吹奏楽や管弦楽では低音の領域を担当する、大型の木管楽器だ。ファゴットは出番の少ない楽器で、残念ながら室内楽に組み込まれるケースはほとんどないのが実情だった。

「バレたか!」と智秋はおどけた笑いを浮かべた。智秋に引きずられて薄っぺらい笑いが場を支配したが、すぐに虚しくなって、一同は嘆息した。

 人数も楽器の種類も足りないから、交響曲はダメ。人数も種類も多すぎるから室内楽曲もダメ。弦楽器がいるから吹奏楽の曲も採用できないし、一人か二人で演奏されるのが一般的な器楽曲も不可。当然、歌い手がいないので声楽曲も適さない。

 話し合いの余地がどんどん狭められてゆく。


「残るは協奏曲くらいなんだけど」


 菊乃の声にはためらいがあった。


「どう思う?」

「誰か一人が必ず独奏(ソロ)をやるってことだよね、それ」

「そういうこと」


 彼女は応じた。一瞬、気まずい沈黙が、集まった八人の間に垂れ込めた。

 一つもしくは複数の独奏を、規模のさまざまな管弦楽と組み合わせることで演奏される楽曲を、協奏曲(コンチェルト)と呼ぶ。管弦楽では管楽器にも弦楽器にも居場所があるし、室内楽と違って編成を比較的自由に調整することが可能である。だが、それに当たっては必然的に、独奏者(ソリスト)を最低一人は出さないといけないことになる。

 この独奏者(ソリスト)の負担が極度に重いのだ。


「誰に任せるかで揉めるのも嫌だしな。やりたいってやつが出てくるならいいけどさ」


 一抱えもあるチェロのケースを無意味に指先で弾きながら、それまで黙っていた戸田(とだ)宗輔(そうすけ)がつぶやいた。

 チェロ奏者が独奏者(ソリスト)を引き受けることは、まず考えにくい。この場で気楽な立場でいられるのは宗輔くらいのものである。


「一応、聞いてみる?」

「曲も決まってないのに?」

「もし任されたら引き受けてもいいよ、っていう意思確認だよ。聞かないよりマシでしょ」


 恵の懸念をはねのけて菊乃が手を挙げるそぶりを見せたが、誰も追随しない。菊乃はがっかりしたように手を引っ込めた。聞いても聞かなくても同じだった。

 これでは議論が先に進まない。




 手を挙げなかったのは美琴も同じだった。ほっ、と意味のない深呼吸をひとつして、美琴は乾燥の目立つ右手の指をぼんやりと眺めた。

 面倒だからだとか、目立ちたくないからだとか、そんな下らない理由で手を挙げなかったのではない。

 クラリネットパートには自分より上位の腕前を持つ子がいる。里緒がいる限り、自分に独奏者(ソリスト)の役が回ってくることはない。そうと分かっていたから挙げなかっただけのことだった。


(本当は、高松(あいつ)がコンクールへの参加を拒否してくれれば何の問題もないんだけど)


 そんな楽観がまともに通用するようにも思えなかった。あの意思薄弱な里緒のことである。菊乃が『やって!』と強い口調で願えば、彼女は断ることができないに違いない。

 交響曲(シンフォニー)は無理。室内楽も無理。その他のジャンルもおおむね無理。協奏曲(コンチェルト)をやろうとすれば、演奏の主役の座は里緒に奪われる。そんなことは、今さら時間を費やすまでもなく分かりきっていた。

 その上で美琴の手元には、昨日の深夜まで悩み続けて発案した、一つのアイデアがあったのだ。


 誰も、何も口にしない。居心地の悪い時間がすでにしばらく続いていた。頃合いを見計らって、美琴はスマホの画面を差し出した。


「提案なんだけど」

「提案?」

「これならやれる。協奏曲で、今ここにいるメンバー全員が参加できる曲があるとしたら、これだけだと思う」


 菊乃は(いぶか)しげにスマホを受け取った。粒の大きな瞳が、画面の白い光をぼうと映す。

 彼女はつぶやいた。


「……モーツァルト」

「そう。〈クラリネット協奏曲・イ長調 K.622〉」


 美琴が見せたのはオンライン百科事典の該当ページである。数人が菊乃にならってスマホを覗き込んだ。すばやく手元の端末をまさぐった恵が「すごい」と目を開いた。


「クラ独奏、フルート、ファゴット、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、バス。……完璧だね」


 それこそが提案の理由でもあった。〈クラリネット協奏曲〉の楽器編成は、菊乃たちコンクール参加組の持つ楽器の編成とほとんど全く一致しているのだ。おまけにネット上にはチェロパートの楽譜も出回っているようで、コントラバスの低音は必ずしも要求されるものではない。

 菊乃の声が(くも)った。


「でもこれ、クラ一本しか必要ないじゃん。しかもイ長調ってことは……」

「当然、Aクラが必要になるでしょ」


 美琴は即答した。

 日本語の音名表記である“イ長調”をドイツ語に直すと、“(アー)”。すなわち、ここではAの曲調(キー)に適した楽器が求められているわけで、クラリネットの場合はA管が該当する。しかもこの協奏曲では、クラリネットは独奏楽器。A管クラリネット奏者が一人いれば、クラリネットのパートは必要数を満たしてしまうことになる。

 そして、A管クラリネットの独奏(ソロ)と聞いた仲間たちが誰を奏者に選ぶのかなど、火を見るよりも明らかだった。


「美琴は何がやりたいのさ?」


 美琴の意図を早々に察したのか、直央が尋ねてきた。美琴はクラリネットのケースを無意識に後ろへ追いやった。


「必要数の割に弦楽器が少ないと思うんだよね。ピアノパートの楽譜があるらしいから、それ使ってそのあたりのカバーをできたらいいなって思ってる。私はピアノも弾けるし」

「そりゃそうだけど、でも……」

「合奏は適材適所でしょ」


 直央は反論を諦めたようだった。実際、反論の余地のないほどに優れたアイデアなのである。演奏曲の決定という大きな『実』を取るなら、美琴が何の楽器をやるのかなんて些末(さまつ)なこと。いま頭を悩ませるべきテーマではない。


「第三楽章までフルでやると演奏時間が三十分近くになっちゃうね」


 動画サイトに投稿された音源を見回し、菊乃が(うな)った。


「でも第二楽章だけとかなら問題ないな。演奏時間も八分で済む」

「コンクールの持ち時間、何分だっけ?」

「九分」


 美琴の補足に、疑問を呈した智秋は「なるほど」と膝を打った。『吹奏楽コンクール』をはじめとする多くの合奏系コンクールには、各校ごとに持ち時間が設定されていて、それを演奏時間が越えると失格処分を食らってしまう。『全国学校合奏コンクール』の場合は課題曲がないので、自由曲の演奏を九分以内に収めればいいのである。

 もはや、これに代わる案は出てきそうになかった。「みんな異論はありませんか」──菊乃が呼びかけたが、誰も応じる様子を見せない。

 私の提案が通る。

 強い確信が、美琴の身体の節々で熱にも似た衝動に置き換わってゆく。


「あたし的には、美琴にもクラ吹いてほしいんだけどな……」


 どことなく寂しげな言葉をこぼした菊乃は、しかしきっぱりと、迷いを断ち切るように声を張り上げた。


「異論ないね! じゃあ、これで行きたいと思います!」

「決まったー!」


 つられて恵が万歳した。集まった八人の目元に、口元に、頬に、あっという間に安堵の色が広がった。曲が決まるというのはそれだけ大きな進展なのであった。

 菊乃が身を乗り出して、美琴の両肩を叩きにかかった。


「やるじゃん美琴! よくこんなの見つけたね!」

「ま、まぁ」


 直視されるのはどうにも苦手で、美琴はやっぱり目をそらしてしまった。


「有名な曲だし。よく聴くプレイリストの中に偶然、入ってた」

「それにしたって探り当てるの大変だったでしょ! いやー本当によかった、これで色々と準備も始められるよ!」


 感激の勢いにブレーキをかけたつもりだったのに、菊乃はさらに喜び勇んで(つか)んだ肩をぐらぐらと揺する始末。美琴のスマホは〈クラリネット協奏曲〉のページを開いたまま回し読みされている。郁斗が、智秋が、直央が、熱心な眼差しで画面を下にスクロールしている。

 すべて上手くいった。(ほう)けてしまうほどに。


「のっちー、ちょっとこっち見てみなよ!」

「楽譜も市販されてるみたいだよ!」


 菊乃を“のっち”と呼んでいるのは恵である。「はーい」と菊乃が手を外し、ようやく緊縛から解き放たれた美琴は反動でよろめきかけた。反射的に踏ん張った足が、微かな震えを帯びていた。


 いくら実力者であろうとも、独奏者(ソリスト)は簡単な役回りではない。音を外せばすぐにバレる。しかも目立つ。失敗して恥をかくリスクと、常に隣り合わせであり続ける。

 気の弱そうな里緒に、そんな大役が務まるとは思えない。

 じきに、吐き出した弱音の重さに耐えきれずに交代を申し出る時がくるだろう。それまでの間に、自分が独奏者(ソリスト)を務めるに十分な実力をつけてみせる。追い付いてみせる。あえて身を引いて里緒を独奏者(ソリスト)()えるのは、今はまだ演奏技術で太刀打ちできない里緒のクラリネットに、美琴が追い付くための時間稼ぎにすぎない。

 初めからそのつもりで、美琴は〈クラリネット協奏曲〉を提案したのだった。仮にそうはならなくたって、美琴にはピアノがある。同じく独奏の楽器で、周りに自分の実力を見せつけてやることだってできる。

 こんなことは菊乃には明かせない。部内の誰にも、いや、校内の誰にも話せる見込みがなかった。


(自分の汚さなんか、自分がいちばん分かってる)


 さっそく楽譜の購入に取りかかっている菊乃たちの姿を、美琴は目を細めて見つめた。その瞳が(まぶ)しくて、遠くて、つんと鼻にくる劣等感が走ったが、かえって頭の中は普段通りの明晰さを取り戻していった。


(それでもいい。高松(あいつ)にいい思いばっかりさせるもんか。この部での主役の座を、私のもとに取り返してやる。何がなんでも取り戻してやるんだ)


 吐息が漏れた。低く、どろりと粘りけを帯びた灰色の吐息は、瞬く間に美琴の知覚範囲を越えて外の世界に流れ去っていった。









「私の知らないところで、みんな、けっこう繋がってるんだね」


▶▶▶次回 『C.044 青天の霹靂』

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