C.042 “友達”の在り方【Ⅱ】
紅良は教科書を読んでいた。
勇気を出して声をかけにいくと、不倶戴天の敵は教科書を閉じて、それから花音の顔付きをまじまじと眺めた。
「私を殺しに来たみたいな顔ね」
芹香と同じようなことを言う。
腕を組んだ花音は、わざと険しい表情を作って問い質しにかかった。これは尋問である。誰が何と言おうと、尋問なのだ。
「西元さん、里緒ちゃんの住所知ってるでしょ」
「知らないけど」
「え……。じゃ、じゃあ電話番号は? 家電! あとメアド!」
「それも知らない」
「なら何を知ってるっていうの!?」
「めちゃくちゃなこと聞かないで」
終始すげなく切り返され、花音の“尋問”は十秒足らずで終焉を迎えた。
むろん、成果はゼロ。なんの情報も得られていない。
(なーんだ……)
期待して損をした。がっかりして面を崩した花音に、紅良はため息混じりの言葉を投げつけてきた。
「青柳さんの知ってる以上のことは私は知らない。てか、青柳さんの方がよっぽど色んなことを見聞きしてるでしょ。同じ部活なんだから」
「……それは、そうだけど」
「何を企んでるわけ?」
「今日の分のノート、取ったから貸してあげようって思って」
でも何だか、あれほど満ちていた意欲が端から少しずつ萎えてきてしまっている。
もう一度、重ねるように嘆息して、紅良は諭すように口を開いた。
「風邪で休んでる子にノート貸しに行ってどうするのよ。書き写せるような容態ならそもそも休まないでしょ」
「なら、ノート、あげるもん」
「青柳さん本人の勉強はどうするわけ」
「……あげたノート、コピーする」
「そんなバカバカしいことするくらいなら、普通に休み明けに自分のノート見せてあげればいいんじゃないの?」
「…………」
「……でも、その行動力は相変わらずっていうか、さすがよね」
褒めたいのか貶したいのか、どちらかにしてほしいと思う。
「高松さんは幸せ者だな」
つぶやいた紅良は教科書に目を戻してしまった。すさまじい皮肉の臭いを感じて、花音も負けじと言い返した。
「少なくとも里緒ちゃんくらいしか知り合いのいないどっかのイチャ──西元さんよりは幸せだと思うな」
危ない、勢い余って禁じられた名前を口にしてしまうところだった。
しかし喧嘩を売った自覚はある。さすがに聞き捨てならなかったのか、紅良はすぐさま顔を上げ、反駁に転じた。
「私、これでもそこそこ色んな人と知り合いではあるんだけど」
「ふーん。でも“友達”とは呼ばないんだね。私は里緒ちゃんのこと、胸を張って友達だって呼べるもん」
「悪いけど、あなたと高松さんって看守と囚人みたいな関係性にしか見えないから。だいたいあなたは高松さんを束縛しすぎだと思う」
「そっ、束縛なんかしてないし!」
叫んでから、周囲の視線を感じた花音は慌てて咳払いをした。──しまった。これでは以前のようにケンカになってしまう。間に挟まって仲裁役を果たしてくれるはずの里緒が、今日は風邪で不在なのである。
言い過ぎた覚えはあったのか、紅良も押し黙った。二人を取り巻くように膨らんだ、得も言われぬ気まずさの満ちた沈黙が、弁当や飲み物の香りの漂う華やかな教室の空気にゆっくりと溶け込んでいく。
考えてみると、風邪や欠席云々以前に、そもそも里緒が花音にメッセージを送ってきたためしは一度もない。どこの世界にもメッセージアプリやSNSに苦手意識を持つ子は一定数いるものだけれど、あるいは里緒もその部類に入るのかもしれない。
不便じゃないのかな──。
花音には、不思議だった。友達と連絡を取ろうと思ったら、嫌でも何でも使わざるを得ないだろうに。
それとも、日頃から継続的に連絡を取りたいと思えるほど、里緒は花音に親近感を覚えてはいないということか。
果たして花音は、里緒の友達になれているのだろうか。
いや、それ以前に、里緒は“友達”という存在に何を求めているのだろう。
知り合って仲良くなって一ヶ月が経つ。だが、どうやら思っていたよりもまだ遥かに、花音は里緒の人柄の本質を深く知ってはいないのかもしれなかった。
「家の場所──ね」
不意に紅良が独り言ちた。教科書に腕を組んで乗せ、彼女は机に目線を落としていた。
「あの子、そういう情報は積極的に教えたがらなそうに見えるけどな」
「なんで?」
「根拠があるわけじゃない。ただ、何となく」
「ふぅん……」
花音はつぶやいた。それが否定の言葉にならなかったのは、花音の側にもどことなく思い当たる節があったからかもしれない。
褒められてもまともに喜ばない。誘いをかけても必ずためらいが入る。『個人情報を語らなさそう』という印象は、そんな里緒の控えめな習性に不思議と重なる。早い話が、里緒は常に分厚い心の壁を築き、その内側に閉じこもっているのだ。褒め言葉も、じゃれる仕草も、ぜんぶまとめて壁で跳ね返している。
紅良の隣の机は空いていた。席の主は他所のクラスにでも遊びに行っているらしい。ひょい、と机に腰を下ろして、
「それって私でもダメなのかなぁ」
花音はため息をついた。
「私、これでも里緒ちゃんとすっごく仲良くしてるつもりなのに」
それを“束縛”と呼ばれてしまうのはやっぱり悲しい。親しくなりたい相手にアプローチを仕掛けることは、そんなに悪く言われなければならない態度なのだろうか。
紅良がとりなすように口を挟んだ。
「家庭の事情とかもあるんじゃないの。あの子、入学式にもひとりで来てたでしょ」
「うん……。あ、それに、気分悪そうに急いで帰っていってたよね」
「病気ってわけではなさそうだったのが余計に気になるところよね。……こういう言い方が正しいのかは分からないけど、なんだか高松さんって、人前で隠してるものの量がずいぶん多い気がする。自己主張が控えめとか謙虚とか、そういう目先の性格を把握することはできても、その奥にある人格の全貌が上手く見えてこないっていうか」
こればかりは、花音も同意せざるを得なかった。それこそ思い当たる節は山のようにあったから。
里緒は自分の内面や過去を黙して語らない。中学の吹奏楽部を一年で辞めた理由も、仙台から遠方の東京に出てきた理由も、決して話してくれようとはしない。そしてそれはおそらく語ることを面倒に思っているからではなくて、心の壁の内側に隠していたモノが流れ出してしまうのを恐れているからなのではないか。人付き合いを面倒に思うようなタイプなら、もっと花音や紅良のことも邪険にあしらっているはずだから。
だとすれば、里緒がなかなか心を開いてくれないのは花音のせいではない。それに花音がどんなに努力を重ねたって、里緒にその気がなければ徒労に終わってしまう可能性すらある。
それでもいいから、里緒と仲良くしたい。クラスメートとして、部活仲間として、これからも安定した関係を持ち続けていたい。分厚い心の壁があるというなら、乗り越えた先の景色を見てみたいと思う。……だからこそ、花音は慣れないシャーペンを握ってノートを執ったのだ。
初めて紅良と物の見方が一致した気がした。
紅良が、ふっと短い息を漏らした。
「なんか意外。青柳さん、私とも普通に話せるんだ」
心外なことを言う。花音は両足を振り上げて憤慨した。
「誰とだって普通に話せるもん! いっつも西元さんが嫌そうな顔するだけだしっ」
「イチャモンロングなんて呼び方されたら嫌にもなる」
「う……。じゃ、じゃあ何て呼んだらいいわけ?」
「前にも言ったけど、呼び捨てにでもしてくれたらいいから。それなら慣れてる」
そういえば以前にも聞いたような、聞いていないような。呼び捨てか──。一瞬、ためらいの感情が膨らみかけたが、それもいいかと思い直した。呼び捨ては相手を軽く扱っているように感じて気に入らないのだけれど、本人が望むのだから仕方ないのである。
「私は“青柳さん”のままでいいの?」
紅良が尋ねた。ううん、と首を振って、花音は誰かの机から腰を下ろした。苗字の呼び捨ては嫌いだが、苗字に敬称をつけるのはもっと苦手だった。
「花音って呼んで」
「高松さんとは扱いが別なのね」
「当たり前じゃん! 里緒ちゃんはちゃんと言葉に心がこもってるから“青柳さん”でもいいの」
「何それ」
紅良は変な顔をする。「そういうもんなんだもん」と花音は断じた。花音の中で、里緒だけは特別。だからどんな呼び方をしてくれてもいいし、どんな扱い方をしてくれてもいい。
だから──。風邪なんか一瞬のうちに治して、早く学校や部活に顔を出してほしい。そのためなら何だってできるとさえ思う。
ついでなので英語の授業の分からなかった部分を聞いてみることにした。待ってて、とだけ告げて、紅良がうなずいたのを確認してからノートの放置された自席に駆け足で戻った。
青汁を口に含んだような苦味は、もう、身体のどこにも残っていない。今までよりもちょっぴり壁の薄くなった花音と紅良を、いつもと少しも変わりのないD組の牧歌的な空気が取り囲んでいた。
「この部での主役の座を、私のもとに取り返してやる。何がなんでも取り戻してやるんだ」
▶▶▶次回 『C.043 曲目決定』