C.041 “友達”の在り方【Ⅰ】
出席を取ろうと名簿を開いた京士郎は、その一角に目を留め、思い出したように咳払いをひとつ挟んだ。
「ああ。今日、高松くんは欠席だそうだ。風邪を引いたと連絡があった」
若干のざわめきが漏れたが、さほどの騒ぎに発展することはなかった。年度始めで各自忙しいだろうが、生活を乱さないように──。忠告も忘れずに付け加え、京士郎は名前を呼び始める。
真っ先に呼ばれるのは自分の名前である。
(里緒ちゃん、風邪かぁ)
青柳花音は斜め後ろの席を窺った。空白のままの座席が、窓の向こうの光をてかてかと明るく反射している。道理で今朝は登校が遅いと思ったわけだ。
はい、と返事をしながらも、意識は里緒の方にくっついて離れようとしない。
(連絡先も交換してあるのに)
こっそりスマホを覗き見て、電話やメッセージの着信の有無を確認した。校則の緩い弦国では、電子機器の持ち込みは特に制限されていない。まだ授業時間も始まっていないので怒られることもないのだけれど、ついついクセで隠してしまう。
果たして、着信は一件もなし。本人は連絡できる状態にないということだろうか。
大丈夫かな──。
その時、一抹の不安と同時に淡い期待が胸をよぎった。これはつまり、里緒は欠席した授業のノートを取れなくなるということ。休んだ分のノートを花音が提供してやれば、花音はみごと里緒の役に立つことができる。
はなはだ不謹慎な話だというのは承知の上で、花音の心はにわかにときめいた。これはもしかしなくても、“里緒の一番の友達”としての地位を確かなものにするチャンスなのではないか。
やるしかない。里緒のためにもノートを熱心に執ろう!
「うしし」
どう考えても不自然なタイミングで顔に出てしまった笑みに、周囲の席の子たちが一瞬、表情を引きつらせた。
花音は勉強が苦手だった。
とは言っても、学ぶことが嫌いなのではない。成果の見えない努力にこつこつ継続的に勤しむのが、どうにも苦痛でならないだけなのだ。
苦痛なのは勉強のみならず基礎練習も同じで、中学の頃はテニス部内でも遊んでばかりだった。とうとう受験勉強にも最後まで精が入らなかったので、実は弦国には補欠合格で入学している。こんな恥ずかしい裏事情など、“一番の友達”の里緒には永遠に暴露できる気がしない。
──狭い机の前に閉じ込められたまま、大事な青春を終えてしまうなんてイヤだ!
それが花音のモットーでもある。だから、真面目に授業に耳を傾けて懸命にノートを執るという作業は、本来の花音にしてみれば苦行以外の何物でもないのだった。
今日は水曜日。週に二度ある四時限目までの日で、科目は数学Ⅰ、化学基礎、国語総合、英語表現Ⅰである。花音なりに懸命に授業に食らいつき、板書を丁寧に写し執り、先生の口にした言葉も忘れずにメモに残した。今日が四時間で終わる日だったことに花音はしみじみと感謝した。こんな大変な作業、あと二時間も続けていたら気が狂ってしまいそうだ。
里緒や紅良やクラスメートたちは、いったいどうしてあんなに黙々と授業を聞いていられるのだろう。
花音にはいまだに不思議でならない。
英語表現の先生が教室を立ち去り、昼休みに入っても、花音はまだ黒板いっぱいの板書を書き取り続けていた。「熱心だね」と、通りがかりの友達からは次々に笑われた。
「ふふんっ、今日は自分のためじゃないもんね」
「高松さんに見せるため?」
隣席の少女からも、偉いなぁ、と褒められた。
「花音がそんなことする人だなんて思わなかった」
「友達思いでしょー。だって花音様だから!」
ここぞと思って得意満面の表情を浮かべてやった。すぐに「普段からそのくらいやったらいいのに」などと指摘されたが、右耳から左耳へ聞き流した。自分の勉強は試験前に帳尻を合わせられればいいのである。
「そういう変なところは律儀だよね、ほんと。……でも高松さん、花音みたいな友達がいて助かってるだろうな」
一足早く弁当箱を広げながら、隣席の子は失笑に顔を染めた。クラス委員長、北本芹香。席が近いので里緒よりも早く仲良しになった、クラスで最初の友達でもある。
「へへー」と花音は唇を融かした。それが本当なら、どんなにか嬉しいことなのだけれど。
ノートを渡した時、里緒はいったい花音の前でどんな反応を見せてくれるだろう。喜ぶだろうか、それともびっくりしてひっくり返るかな──。さっそく期待に膨らみはじめた花音の胸に、芹香の投げた疑問符がぽんとぶつかって跳ねる。
「いつ渡しに行くの?」
「今日! 部活が終わったら暇になるからー」
「へぇ……。じゃ、高松さんの家も知ってるんだね」
今度の疑問符は跳ねずに胸に乗っかった。ノートを整える手も止まって、花音は中空を見上げた。
そういえば住所は聞いたことがない。
立川の方、くらいの認識しかない。
「……どうしよう、分かんないや」
「そこは準備が雑なんだ……」
「誰に聞いたら知ってるかなぁ」
箸先に挟んだ玉子焼きもろとも、芹香は賑やかな教室の中を見回した。クラス委員長を務める彼女は、誰よりもこのクラスのことを見ているはずである。居並ぶ生徒の頬を順にスキャンしていたその目が、やがて、花音の四列ほど向こうを捉えて止まった。
「西元さんなら知ってそうじゃない?」
げ、と花音は苦々しく唸った。よりにもよって紅良の名前が挙がるとは。
「イチャ──西元さん以外がいい」
「……言うと思った、それ」
「分かってるなら別の人を挙げてくれればいいのにー」
「私だってそうしたいよ。でも、高松さんってこう言っちゃなんだけど、あんまり誰かと親しくしてるところを見たことがないしな……。それこそ花音とか西元さんくらいじゃないのかなぁ」
クラス委員長が言うからには事実なのだろうが──。花音の気分はずんずん悪い方向へ傾いた。「そんな青汁飲み干したみたいな顔しないでよ」と芹香が呻いたが、花音にとって紅良はまさに青汁や苦虫と同等の存在に他ならないのである。おまけに向こうからも快く思われていないときている。
仕方ない。
背に腹は代えられないのだ。
ありがとうと芹香に告げると、やっとの思いで書き終えたノートを閉じ、花音はゆっくりと立ち上がった。何はともあれ、すべては里緒のためである。心の準備をしよう。
「……果たし合いにでも行くつもり?」
芹香が小声で囁いた。
「自己主張が控えめとか謙虚とか、そういう目先の性格を把握することはできても、その奥にある人格の全貌が上手く見えてこない」
▶▶▶次回 『C.042 “友達”の在り方【Ⅱ】』