C.040 逃げられない記憶
帰り際、紬の尋ねた言葉が、里緒の耳にはしっかりと刻み込まれている。
──『また、こうして聴きに来てもいいかな』
──『いつもいるわけじゃないですけど、それでも大丈夫なら』
小さな胸をちょっぴり膨らませて、そう答えた。『恥ずかしいから聴かないで』などとは死んでも言えなかった。正直、ちやほやされるのは誰が相手でも苦手なのだけれど、紬と拓斗が相手なら抵抗感が薄れるのも事実だったのだ。少なくとも里緒の側は、そのくらいには二人に心を許せるようになったような気がしていた。
帰って夕食の準備をしていると、その日は大祐も帰宅してきた。新学期が始まって一ヶ月を経た今も、やはり大祐は気まぐれのタイミングでしか自宅に立ち寄らない。
──『何かいいことでもあったのか』
と、顔色を窺うなり訊かれた。
知り合いが増えた、とだけ教えておいた。それ以上の言葉で説明するには、新たな理解者を手に入れたことで生まれた温もりのカタチは複雑すぎたから。
平和な夜は静かに更けてゆく。布団をかぶったのは、いつもと同じ午後十時のことだったか。ともかく目覚ましは翌朝の五時半に鳴るようにセットしたつもりだったが、再度の確認を済ませるよりも早く、里緒の意識は布団の奥深くへと沈み込んでいってしまった。
──『高松さんってさぁ、目立つの好きじゃん?』
──『クラリネット上手だもんねー。小五からやってんだっけ? 経験者様は格が違うよね』
──『え? 目立つためにやってるわけじゃないの? いっつもあんなに嬉しそうに教室でフエ吹いてたのに?』
──『頼まれたからって、いやいや! そもそも誰も高松に演奏なんか頼まないから!』
──『なんか勘違いしてるよね、この子』
──『できるやつは勘違いすんだよ。なっ、高松。お前の親だってそうなんだろ』
──『あー聞いた聞いた! 高松さんのお母さんってさ、親同士の間でもめっちゃ図々しく振る舞ってんでしょ? やっぱ蛙の子は蛙だよねぇ』
──『人畜無害そうな顔して実際はぶりっ子とか、ほんとタチ悪いよなー』
──『もうさぁ、そんな暗い顔するくらいなら本当に隅っこに居続けてくれない? 目障りだから明るいところに出てこないでもらえる? 高松みたいなタイプの人、あたしめっちゃ嫌いなんだけど』
──『てか、マジで学校こないでほしいよね』
──『そーそー。あの崖っぷちの小っさい家にずっとこもってればいいのに』
──『ひとりになりなよ』
──『なれないならうちらが手伝ってやるからさぁ。ね、みんな』
──『いや、もうすでにひとりぼっちなんじゃね? 吹部に行っても誰とも話してないんでしょ?』
──『出た、その顔!』
──『こんだけ言われても怒りもしないのな』
──『やっぱこいつやべーよ。真っ黒だよ。高松じゃなくて黒松だよ、黒松』
──『マジでさぁ、最初に黒松って言い始めたの誰よ。天才だと思うんだけど。みんな知ってる? この子の私服ってほんとに真っ黒なんだってよ?』
──『まだ無反応かよ』
──『いっそ怒ってくれた方が楽しいのになー』
──『あーあ、つまんないの。つまんないって犯罪だよ。黒松なんか消えちゃえばいいのに』
──『出たー! 泣く!』
──『泣いたって誰も同情しねぇよバーカ』
──『家帰っておとなしくフエでもいじってなよー。あんたひとりがいなくたって、クラパートの大勢に影響なんか出ないんだからさぁ』
──『帰れば?』
──『帰んないの?』
──『てか、消えないの?』
──『なんで生きてんの?』
──『黒松のくせに』
──『黒松』
──『黒松』
──『黒松!』
──『黒松!!』
──『黒松!!!!』
──『黒松!!!!!!!!』
覚醒した瞬間、無意識に布団を跳ねのけていた。
重たい布団の塊は、隣で眠る大祐の上に音を立てて落下する。その姿はすぐに視界の端へ消え、里緒は行方を目で追うことができなくなった。
「はぁっ……はぁっ……はっ……はっ……!」
里緒はパジャマ越しの薄っぺらな胸を鷲掴みにした。息が早い。痛い。苦しい。上半身を起こすのがやっとだ。見開いた目から殴り込んできた映像が片っ端から大きく歪み、爛れる。布団に弾き飛ばされて転がった目覚まし時計が、午前五時前を指しながら仰臥した。
悪夢に魘されていたのだ。
(過呼……吸……っ)
口に出そうとした言葉は立て続けの呼吸にまみれ、呻き声にさえならなかった。息が止まらない。指先が、口の周りが、身体のあちらこちらが痺れてきた。
──落ち着かなきゃ。
深呼吸して、普通の息に戻らなきゃ。
普通の、普通の……。あれ、普通の呼吸ってどんな風にやるんだったっけ──。
混乱にまみれながら悶える里緒の横で、ようやく大祐が遅れて目を醒ました。すぐさま、大祐はうずくまる里緒に駆け寄り、縮んでしまった肩を抱き上げた。
「どうした! 大丈夫か!」
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ────」
里緒はとても答えられる容態にはなかった。何が起きたのかも伝えられない。何を聞いたのかも伝えられない。つい今しがた、夢の中で目にしていたものの姿かたちさえ、口元にあふれる泡の内側にあえなく包まれてしまって。
じきに過呼吸に思い当たったようだった。そっと里緒の背中に手を宛がった大祐は、押し殺した声でささやいた。
「大丈夫だ。大丈夫。今夜は父さんがいる。父さんがここにいるからな」
声が震えて聞こえた。里緒が震えているのか、大祐が震えているのか、区別はつかなかった。
「はっ……はっ……」
「そうだ。その調子だ……。時間をかけて落ち着いていけ」
部屋に滞留する冷えた夜の空気を、促されるままに吸って、吐く。濁った水を飲み干したような気持ちの悪い感覚が血に流れ込み、吐き気が喉を突き上げたが、すんでのところで耐えきった。耐えた勢いで、目尻に膨らんだ涙が一気にあふれ出した。
──ああ。そうだ。
呼吸はこうやってするものだった。
里緒にとって呼吸とは、苦しみに喘ぎながら、咽びながら、歯を食い縛ってするものだった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ……あ……ぅ……ぅあ……」
息を激しく繰り返し、空気の海に溺れながら、里緒は嗚咽に飲み込まれて泣き出した。衝動的に浮かんできた涙がちっとも塞き止められずに、ただ、大祐の細身な腕にぐったりと身体を預けて無力に泣き続けた。
情けない。
恥ずかしい。
息が弾けるたびに自己嫌悪が募る。胸を締め付ける自己嫌悪はいっそうの悲嘆を招き、ますます涙の量を増やしてゆく。完全な悪循環だった。
(まだ)
痛みと苦しみの彼方で、無言のままに里緒は泣き叫んだ。
(あの頃から逃げられない。忘れられない。なかったことになんてできないよ)
記憶の確かな今だからこそ言える。夢見たものはどれも、二年前の里緒が実際に突き付けられてきた言葉だった。ここ数日、特に思い出すこともなく平和に生きてこられていたはずだったのに。こんな形で襲われることになるだなんて、よもや思いもしなかった。
ともかくこれではっきりした。里緒はまだ、昔の里緒の面影を引きずったままなのだ。
東京での新生活が軌道に乗って、少しは変われたと安心していたところだったのに──。思い知らされた真実はあまりに重く、冷たくて、どうしようもなく悲しかった。
五分以上も経っただろうか。ようやく涙が止まったのを里緒が自覚したのと、大祐が肩から手を離したのは、ほとんど同時のことだったように思う。無様に転がった時計の針は午前五時十五分を指している。カーテンの向こうに望む夜空が、曙の薄橙へと色を変えつつあった。
耳をすましても何の音も聴こえてこない。ぞっとするほどの静けさの中で、大祐は里緒の小さな背中にそっと手を宛がった。
「落ち着いてきたな」
「……うん」
答えられるようになったのが何よりの証である。
すぐさま、大祐は問いを重ねた。
「里緒。何を見た」
「…………」
「去年のことか。おととしのことか」
「…………」
過呼吸が治まっても、答えられなかった。答え方を考えようとすると頭に強い靄が立ち込めて、思考がそれより前に進まない。怖い。恐い。──寒い。
不意に強い寒気が走って、身体が勝手に震えた。
朦朧とする意識の紗幕の向こうで、大祐が額に手を当てる。表情が変わった。
「参ったな……。熱がある」
そのつぶやきの意味を咀嚼するのにさえ、今の里緒には何秒もの無為な時間が必要だった。
「高松さんってこう言っちゃなんだけど、あんまり誰かと親しくしてるところを見たことがないしなぁ」
▶▶▶次回 『C.041 “友達”の在り方【Ⅰ】』