C.039 土手上の邂逅【Ⅱ】
紬の家はこの土手の近所にあって、朝と夕方には背後のこども園に立ち寄っているという。
そりゃ、今まで見かけたことがなかったわけだね──。この春に仙台から転居してきたばかりなのを話すと、彼女は合点がいったようにうなずいた。里緒が弦国生であることは、制服のデザインから何となく察していたらしい。
紬にも里緒のクラリネットを見せた。管弦楽向きのA管であることにも、その割には不自然に管体が長くて余分な低音用のキイがついていることにも、ベルや留め金の下に描いてあるはずのブランドマークが見当たらないことにも、紬は一通りの決まりきった反応を示した。華やかな色合いの西陽をいっぱいに浴びたキイは、紬が管体を取り回すたび、金色のきらめきを誇らしげに放った。
「『10-10-2009』って書いてあるね。製品番号かな」
「何も聞かされてないんです。メーカーも、ブランドも。私の手で修理に出したことはまだ一度もないので、分からないからといって特に困ることはなかったんですけど」
「ってことは、もらいもの?」
「むかし、お母さんからもらいました」
厳密にはもらいものではなく、形見。里緒の過去のこととなると、真実でない言葉が自然に口を転び出る。そこに罪悪感が伴うことは不思議となかった。
そっか、と紬はつぶやいた。彼女の手から返されたクラリネットの管体を、里緒も真似をして優しく撫でてみる。
クラリネットの材質には大きく分けて二種類があって、廉価なものではABSと呼ばれる合成樹脂の一種、そうでなければグラナディラという樹木が使われている。別名、アフリカン・ブラックウッド。黒檀に似た性質を持つとされ、木管楽器の材料として珍重される木である。過伐採が原因で生息数を減らしつつあることから、純グラナディラ製の楽器は近年ではやや手に入りにくくなってもいる。
グラナディラの手触りは、何とも言えず滑らかで心地がいい。ABS樹脂製のクラリネットはつるつるとしていて、触れるだけで違いは一目瞭然である。
「ブランドは分からなくても、いい楽器なのは確かよね。どこで手に入れたんだろう」
紬も同じことを思っていたようだった。里緒に楽器を返しながら、彼女は何気のない口ぶりでつぶやいた。
「……手放しちゃうにはもったいない楽器なのに」
その瞬間、里緒は身体の中を冷たい血が勢いよく駆け巡ったのを感じた。普通に受け答えしようと浮かべた笑顔が凍りついて固まり、思い通りに動かなくなった。
違う。
手放したのではない。
この楽器を遺して、瑠璃は命を絶ってしまったのだ。
吹くのもやめちゃったのかな──。ぽつり、紬は寂しげにつぶやいた。もどかしさを覚えた心が疼き、気づけば粘ついた唇が勝手に開いて、喉につっかえた言葉を声にしていた。
「その……。私のお母さん、もう、いないんです」
紬がこちらを振り向いた。クラリネットを両の手で握ると、自然と口が曲がって笑みのようになった。勢いに任せて本当のことを口にしてしまったが、核心をすべて明かしたわけではないからか、思ったほどの後悔は伴わなかった。
「いなくなった時に、これをもらいました。お母さんにとっては最期まで自分のものだったんだと思います」
あまり正確な表現ではないのを自覚しつつ、そう続けた。実際には“里緒に贈る”と遺書に記載があったので、瑠璃は死の間際にクラリネットを手放す決断をしていたことになるのだけれど。
『いなくなった』という言葉の意味を、紬は正しく認識してくれたようだ。ばつが悪そうに彼女は眉を下げた。
「ごめんなさい。言いにくいこと、聞いちゃったね」
「……いいんです」
それでも里緒は笑みを崩さなかった。頑固に笑顔を作り続けていれば、いつかそれが本物に昇華してくれるような気がして。
「この子を吹いてる間だけは、お母さんのことを思い出していられるんです。私にクラリネットのことを教えてくれたのも、吹き方の指導をしてくれたのも、お母さんでした。Aクラだから吹部では使えなかったんですけど、色々あって吹部はすぐに辞めちゃったので」
「今は、何を?」
「管弦楽部にいます」
そういうことね、と紬は納得の相槌を打った。管弦楽ではA管クラリネットの演奏機会がある。そのことを知っているあたり、やはり紬は本当に管楽器の経験があるのだろう。
瑠璃が何を思ってクラリネットを里緒に預けてくれたのか、本当のところはもう永遠に分からない。里緒にできるのは、受け取った手の温もりをいつまでも忘れない、そのささやかな努力だけ。
「お母さんはクラリネットがとっても得意な人でした。お母さんの音色は、私の目指す演奏の理想なんです。AクラかB♭クラかとか、どのメーカーの物なのかとか、そういうことにこだわる気持ちはあんまりないんですけど、お母さんにもらったこのクラリネットのことは、これからも大事にし続けたいなって。そんな風に思ってます」
里緒は管体を握る手に力を込めた。手元のクラリネットが反応を示すように、ちらりと光を反射した。
情けない顔の里緒とは対照的に、威風堂々と日を浴びる黄金色のクラリネット。その気高い姿は、瑠璃や里緒の出すような弱々しい音色には似つかわしくないのかもしれない。でも、金メッキの施されたキイの明るい輝きは、それが里緒と瑠璃の思い出の象徴であることを、いつだって優しく教えてくれる。
「そっか」
紬の声も優しかった。
「それなら、クラリネットもお母さんも本望だね。持ち主があんなに素敵な音を吹けるんだもの」
「そ、そんな……」
上手くないと続けてしまいそうになって慌てて口をつぐんだ。つぐみながら、自然と頬が緩むのを感じた。笑みの形を作った唇から、だんだんと力が抜けていった。
やっと、普通に笑えるようになったかもしれない。
身体の隅々にほのかな熱が行き渡ってゆく。少し元気、出てきたかな──。クラリネットを持ち直すと、「あら」と紬が言葉をかけた。
「聴かせてくれるの?」
「恥ずかしいですけど」
曲は〈夕焼小焼〉でいいだろう。開いたまま伏せていた教本を取って、譜面台代わりに膝の上に乗せた。何度も吹いている曲なので本当は楽譜など要らないのだが、譜面がないと心が落ち着かない。不注意で音程を間違えてしまうのは、やっぱりまだまだ怖いのだ。
音色を認めてくれた人の前では、せめて精一杯の完成度の音を届けたいと思う。
「んぅ……」
拓斗が目を覚ました。まぶたをこすりこすり、あたりを見回す我が子に、紬が声をかける。
「お姉ちゃんが歌を吹いてくれるんだって。聴きたい?」
「聴く」
目の前にいるのが誰だか分かっていない様子だったが、拓斗はうなずいた。これで聴衆が一人、追加である。
背筋を伸ばし、まっすぐに前を見る。首に回したネックストラップを管体へ装着、クラリネットを斜めに掲げると、里緒は紬を一瞥した。西陽が顔を明々と照らし出している。眩しそうに目を細めた紬は、始めていいよ、とばかりに小さく首を動かした。
五月三日から、ふたたび連休が始まる。
前半の連休には練習があったが、GWの後半はいよいよ本物の休み。せっかくの機会に親睦を深める意味も込めて、一年生みんなで遊園地に行こうという話が出ていた。きっと次の部活の日には花音や舞香、それに学年代表の藤枝緋菜あたりが企画をまとめてくれることだろう。部活の仲間たちと遊びに行くなんて、里緒にとっては何年ぶりのイベントになるかも分からない。声にも態度にも出さないように心掛けたが、里緒の小さな胸は秘かに踊っていた。
勉強でも運動でも音楽でも、授業には目下のところ不自由なくついていけている。管弦楽部での活動も軌道に乗りつつある今、里緒を苦しめる懸念材料は最小限にまで減った。
立川では、時を報せる山寺の鐘が鳴ることはない。
手をつないで家路をゆくような家族がいるわけでもない。
それでも今は、穏やかな気持ちで帰ることができそうだった。夕焼け小焼け、鮮やかなオレンジ色に燃える空に、そして沈みゆく太陽に見送られて。
──ぽかぽかと温まった感慨を思うままに吹き込んだクラリネットのベルは、切なくも美しい〈夕焼小焼〉のメロディを優雅に吹き上げた。フィンガリングのミスは皆無である。さすがにこの程度の曲で間違えるような腕前ではないけれど、吹き終えた里緒の口を安堵の息がついたのは言うまでもない。なぜって、今度の演奏には二人もの聴衆がいたのだから。
「お姉ちゃん、すごい」
拓斗がつぶやいた。紬は空いた両手で拍手を打ってくれた。
「さすがね。とってもきれい」
「その……ありがとうございます」
「ねーねーお姉ちゃん、ほかのは吹けないの? ♪ふふふふふーん、ふふふふふーん」
「と、〈トルコ行進曲〉ですか?」
「こーら拓斗、無茶言わないの。……ごめんね、この子の組、こんどの発表会でそれ演奏するみたいで」
「えっと、その、頑張ればできなくはないですけど」
「ほんと!? お姉ちゃん、すごーい!」
結局、拓斗の『すごーい』には敵わず、里緒は記憶の中のメロディだけで演奏に挑む羽目になった。それでもどうにか吹き終える頃には、拓斗はすっかり里緒に懐いてくれたようで、あれも聴きたいこれも聴きたいと注文をつけてくるようになった。
拓斗が飽きてしまうまでの小一時間、多摩川の土手は、二人だけの観客を迎えた里緒の演奏会の場と化した。
「あーあ、つまんないの。つまんないって犯罪だよ」
▶▶▶次回 『C.040 逃げられない記憶』