C.038 土手上の邂逅【Ⅰ】
一年生は四月三十日の部活に来ないようにと上級生から言い渡されたのは、前回の部活終わりのことだった。
──『三十日は大事なミーティングがあるんだ。自主練したい人には練習メニューをあげるから、自力で頑張ってみてね』
メニューと思しき紙の束を手に、菊乃は「行きたいです!」と不満をくすぶらせる花音たちの機嫌を取りにかかっていた。“大事なミーティング”の委細については教えてもらえなかったが、きっとそれは新顔の気にかける必要のない煩雑な会議という意味に違いなく、参加せずに済むと分かった里緒はかえって気が安らぐのを覚えたくらいだった。
放課後。家にカバンを置いた里緒は、クラリネットと教本だけを手に多摩川の土手へ向かった。
午後四時過ぎの多摩川には、黄金色の太陽が暖かな輝きと温もりをさんさんと落としている。「わ」と無意識の感嘆がこぼれた。
(クラリネット日和だ)
こんな陽気の日には、里緒もつられて嬉しくなって、クラリネットにかける指にも力が入る。練習日和だ、と思ったことはなかった。不登校だったあいだクラリネットにばかり勤しんでいた里緒にとって、クラリネットを吹くことは練習などではなく、呼吸の類いと大差のない日常生活の一部なのだ。受験や転居を乗り越え、ふたたび楽器を手に取るようになった今も、それは同じ。
いつものように土手に腰かけ、ケースから管体を取り出して組み立てる。──今日は、何をしようかな。基礎練習ばっかりじゃつまらないし、練習曲でもやろうかな──。こんな風に自分の行動計画を組み立てている時間が、もしかすると何より楽しいかもしれない。気づくと鼻唄を奏でていた。いつか里緒をこの土手へと導いてくれた、幻聴の〈アメイジング・グレイス〉だった。
決めた。
今日は何も考えずに好きなものを吹こう。
そうと決まれば用意するものは楽譜である。組み立て終えたクラリネットを脇にのけ、開いた教本を適当にめくってみる。ふと〈夕焼小焼〉の項で目が留まった。日暮れ前の陽を浴びながら気楽に奏でるための選曲として、これ以上の適曲はないと思った。
〈夕焼小焼〉。作詞家・中村雨紅による、夕暮れ時の情景を編み込んだ素朴な歌詞に、作曲家の草川信がメロディを当てたことで作られた、大正時代の日本を代表する童謡のひとつである。メロディが難解でないこともあって、クラリネット初心者用の曲集の多くに収録されている名曲なのだ。
管弦楽部に関わるようになって、もうじき一ヶ月が経とうとしている。
思えばずいぶん忙しない日々だった。花音には事あるごとに振り回され、紅良の前では小さくなり、先輩たちからは気味が悪くなるほどに褒めそやされ、同級生たちからは珍獣を眺めるような目で遠巻きにされた。
(でも、またこうやってクラリネットを吹ける機会を作れたのは、きっといいことだよね)
チューナーをケースに戻し、ロングトーンで音の出し方を確認しながら、吹き出したCの音が身体の節々へと柔らかに染み渡ってゆくのを感じた。この音色が好きだ。いつまでも浸っていたい。だからこそ、里緒はクラリネットを前向きな気持ちで手にし続けている。
まだ本格的な活動は始まったばかりで、苦しい練習もきつい指導もない。それでもいつか、部長のはじめが言っていた。弦国の管弦楽部では演奏の“楽しさ”を追求する。質の高い演奏を厳しく求められることはないのだと。
(私には、今のペースがいちばん楽しいな)
アンブシュアを崩すと、ほっ、と暖かな呼気がマウスピースの周りを漂った。ともすれば意識が虚空へ融けてしまいそうなほどの温もりの中で、ひとつ深呼吸をして、笑ってみる。
ロングトーンはもう十分だろう。そろそろ曲に入ろう──。教本を手にして〈夕焼小焼〉のページを開いた、その時。
「あいたっ」
不意に、背後から幼い子どもの声が響いた。
釣られた里緒は「ひゃあ!」と甲高く驚いてしまった。いつの間に、人が、後ろに──。跳ね上がった肩をどうにかなだめ、カッカと照る羞恥心に耐えながら振り返ると、土手を町の方へ下りてゆく階段が目に映った。
ちょうど今まさに、母親らしい女性に連れられた男の子が、階段のてっぺんへ突っ伏したところだった。転んだようだ。
「……っう、」
男の子は顔を上げた。固く閉じられた口から呻き声が漏れている。不穏な予感が頭頂からつま先まで駆け抜けた瞬間、思った通り、男の子は大声で泣き出してしまった。
「うわあぁあぁん……!」
「あーもう、ちゃんと前見て歩かないから……。痛い? 傷口、見せて?」
スーツ姿の女性が困ったようにしゃがみ、泣き喚く男の子を覗き込む。里緒の心の中はおもちゃ箱をひっくり返したようになった。どうしよう、どうしよう。何か貢献してあげたいけれど、こんな時に限って絆創膏もガーゼも消毒液も持ち合わせていない。
気持ちばかりがいたずらに逸る。なすすべもなくクラリネットを握りしめたまま、彼らを呆然と見つめていると、女性がこちらを仰ぎ見た。
「あっ」
女性はすっかり焦ったように、何度も何度もお辞儀をした。
「ごめんね、みっともないとこ見せちゃって」
「そっそんな! あ、その、何か手伝うことは……っ」
里緒とて見ないふりを貫くことはできそうになかった。ようやく金縛りが解け、クラリネットをケースの横に放り出して駆け寄ると、女性は手元のカバンを目で示した。
「そこに絆創膏が入ってるはずなの。悪いんだけど、手が空いてたら取ってもらえないかな」
「お母ざぁん、いだい、いだあぃ……っ」
「待って待って、いま見てあげるからね。傷口を触っちゃだめよ」
女性が男の子を慰めにかかっている間、言われるがままに里緒はカバンの中を漁った。いくら必死に手を突っ込んでも、それらしきものはちっとも指に当たらない。ああ、もっとスマートに一発で探し出すか、自分で用意できたらよかったのに。入学式の日の花音や紅良の真似事をするには、里緒はまだまだ精進が足らないようだった。
女性は神林紬と名乗った。仕事終わりに近所のこども園に立ち寄って、預けていた我が子を引き取ってきたところだったのだという。
「実は、前からあなたのことを見かけててね」
里緒の隣に座り込んだ紬は、抱っこした男の子の背中を優しい手つきで撫で回しながら、柔和にはにかんだ。年長の男の子──拓斗は、泣きわめいたことで体力を消耗したのか、今は紬の胸の中で安らかに寝息を立てている。
「私を……ですか?」
「そう。とってもきれいな演奏をする子だなーって。ときどき土手まで上って聴いてたんだけど、気づかなかったよね」
ちっとも気づいていなかった。火照った顔を見られるのが何となく嫌で、里緒は膝に転がしたクラリネットに視線を落とした。
「そんな、私……上手くなんてないです」
小声で口にした言い訳は、彼方の立日橋を渡ってゆくトレーラーの轟音にすら掻き消された。紬が空いた片手で髪を梳いた。なびいた前髪の下に並ぶ二つの瞳は、しっとりと穏やかな艶をたたえていた。
「そんなことないよ。私も高校の頃は吹奏楽をやってたの。だから一応、優れた演奏がどんなものなのかは、多少なりとも知ってるつもりだよ」
「そ、そうだったんですか」
「クラリネットはいつから始めたの?」
「えと、小学生の頃です。五年生くらいから……」
長いキャリアだねと紬は笑った。相手が大人だと分かっていると、不思議とその笑みが純粋な感心から来ているもののように里緒には受け取れた。同級生や先輩が同じことをしても同じ結果にならないのはなぜだろうか。
「この子を吹いてる間だけは、お母さんのことを思い出していられるんです」
▶▶▶次回 『C.039 土手上の邂逅【Ⅱ】』