C.037 活動方針決め会議
今年のゴールデンウィークは二つに分割されていた。三日間の平日を挟んで三連休がひとつ、四連休がひとつ。狭間の平日には容赦なく授業が設定されているので、高校生たちは嫌々な顔をしながらも弦国に足を運ばなければならない。
──『なんでこういう中途半端な休みになっちゃうかなぁ』
──『三日間くらいついでに休ませろ! って思うよなー』
なんて、愚痴る声を教室でもさんざん耳にした。不平を垂れ流していないのは管弦楽部員の仲間たちくらいのものだった。
教室の端にある美琴の席からは、遠くの最前列に座る菊乃の背中を拝むことができる。菊乃は登校以来ずっと、ごちゃごちゃと書き込みのなされたルーズリーフを片手に思慮にふけっている。
そのルーズリーフに書かれている内容を、美琴は知っていた。
なぜって。今日──四月三十日は、管弦楽部の活動方針決めミーティングの日だからである。
放課後の音楽室に、一年生部員たちの姿は見当たらなかった。活動上の事情に疎い一年生は原則として方針決めミーティングに参加しないのが、歴代管弦楽部のルールなのだ。
「よし、イスも並べ終わったね」
半円形に整然と並べられたイスを前に、はじめが手を叩く。
「それじゃ、座って。ミーティング始めます」
居合わせた十四人の部員たちは互いの席を確認し、腰かける。ミーティングを取り仕切るのは部長と副部長である。二人も全員の顔の見える位置に収まり、準備ができた。
隣の菊乃が「美琴」と囁いた。美琴は黙ったまま、うなずいて意思を取り交わした。タイミングを見て、例の提案を持ち掛ける──。菊乃はそう伝えたかったのだろう。
「二年は去年のミーティングには参加していないから、どんなことをやるのか分からない人もいると思うけど」
副部長の三年男子、上福岡洸が立ち上がった。爽やかな雰囲気をまとう美形寄りのヴァイオリン奏者で、普段は弦楽セクションを取りまとめながらはじめの補助に徹している。
洸はA4サイズの紙を配って回った。見慣れた表計算ソフトのスタイルの表には、学校行事や合宿、参加予定のコンサートなど、想定される今後一年間の日程が列挙されていた。
「基本的には、ここに挙げてあるイベントを今年も例年通りにやるかどうかの確認をしていくよ。日程には仮決まりのものも含まれてるから、そこのところには注意してほしい」
「あと、具体的な日程は明記しなかったけど、合宿は例年同様に夏休みの後半を予定してます。今年の野球部がどこまで勝ち進むか次第で応援演奏の日程も変わりうるから、今はまだ決められないの。遅くても八月の中盤には終わると思うんだけど」
洸の説明に続けて、はじめが注釈を入れた。
弦国の野球部は強豪である。甲子園の西東京大会は毎回のように上位まで勝ち残り、場合によっては全国大会に出場することもある。応援演奏に駆り出される管弦楽部にしてみれば、野球部が勝ち進めば勝ち進むほど、時間を応援練習のために費やす必要が生じることになる。もちろん、野球部が進撃を重ねることは喜ばしいし、できる限り応援してあげたい気持ちはあるのだけれど、管弦楽部の活動を決める上で甲子園が最も不確定な要素のひとつであるのは事実なのだった。
「じゃ、一つ一つ見ていくよ」
洸の言葉で部員たちは表に目を向けた。
まずは六月の初頭に参加する『立川音楽まつり』。すでに応募も済ませ、書類選考も突破済み。会場も決まっている。一年生にとっては初の晴れ舞台になる、大事なイベントである。
七月の第二週からは夏の甲子園、全国高等学校野球選手権大会が始まる。弦国野球部の進撃の分だけ管弦楽部の出番も増え、そのための練習も必要になる。
「これは今年もやることになるでしょうね。野球部と応援部からも話が来てる。曲目の相談とかも順次、始めなきゃって思ってるところ」
「ま、僕ら弦セクは暇だけどな。また給水係だよ」
はじめに続けて洸のこぼした言葉に、恵や直央がほっと胸を撫で下ろしていた。炎天下での演奏は激しく体力を奪う上、楽器への負担も大きいのだ。特に、弦楽器や木管のような木製の楽器にその傾向は顕著である。
十月初頭には文化祭がある。管弦楽部も音楽室での演奏会を予定しているほか、四〇〇人超収容の講堂でのイベントにも参加する。文化祭期間中には学校説明会も開かれるので、来校した中学生に向けて体験演奏の時間も用意しているが、こちらは例年、あまり中学生の入りは芳しくなかった。
「体験演奏会は要らない気がする」
「でも、未来の一年生に部の存在を認知してもらうための企画でもあるしな……。人が少ないからって潰していいもんかな」
「そりゃそうだけど、そもそも吹部目当ての子は弦国になんて来ないじゃん」
サックスの佐和とトランペットの丈が意見を交わしていたが、結局、廃止するに足るほどの理由は出てこなかった。はじめの裁断は『保留』になった。
文化祭の一ヶ月後、十一月には、管弦楽部の数少ない他校交流の場が待ち受けている。『東京都高等学校文化祭音楽部門地区大会』、通称“地区音”である。東京都高等学校文化祭というのは、都の高等学校文化連盟によって開催される、美術・音楽・舞台芸術などの大規模な発表会のこと。校数の多い東京都では立地する自治体ごとに地区が設定され、弦国の位置する国分寺市は多摩北地区に属している。この地区ごとに各高校の楽団が集まり、演奏会を開いて地区内の交流を深めるのが、“地区音”なのだ。
さらに年が明けて一月中旬、今度は『東京都高等学校文化祭音楽部門中央大会』──通称“中音”が催される。会場は日本屈指の質を誇る音楽ホール、上野の東京文化会館。運営には連盟に加盟する高校の生徒たちも参画しているのが特徴で、各地区内の高校生たちで結成された地区代表楽団が吹奏楽や管弦楽、混声合唱などを披露する。例年、弦国管弦楽部からも参加者を出し、多摩北地区の演奏に貢献している。
それが終われば、残るは卒業式での演奏だけ。中音が終了した段階で代替わりが行われ、現二年生部員たちは執行代に昇格する。管弦楽部は新年度の入学式と新歓、そして春季定期演奏会に向けての準備に取りかかる。
地区音と中音は部の全員が出席する必要のあるイベントではない。「これは参加でいいよね」との洸の言葉に、全員が同意の頭をたれた。
ペンを胸ポケットに収め、はじめは静かに吐息を落とした。
「──おおむね例年通りって感じね。特に変更もなし、か」
窓から差し込んだ夕方の光が、表を明るい橙に染めている。ミーティング終了の空気が流れ始めているのを、美琴は敏感に察した。横の席から菊乃が起立したのと同時だった。
「あの!」
「どうしたの、滝川」
「提案があります」
菊乃の声はいささか強張っている。先行きを察した二年生の顔が一斉に引き締まる一方、事情を知らない三年生の面々は、唐突に出てきた菊乃の姿をきょとんと眺めていた。
後ろ手に持っていたルーズリーフを、菊乃は洸とはじめに向かって突き出した。
「あたしたち、これに参加したいんです。部としての活動に入れてください」
「『全国学校合奏コンクール東京都大会』……?」
洸が目を細めた。
「こんなのがあるのか。知らなかった」
「開催は九月下旬です。文化祭とも甲子園ともかぶりません。合宿の日程にも影響しません」
声が大きくなった。目元にしわを寄せながらルーズリーフを読み進める上級生を前に、菊乃は背筋を伸ばして訴えた。
「学校単位でないと申し込めないんです。会場使用料と審査料、それに参加料も含めて合計二万五千円くらいの費用が必要なんですが、この額面なら部費の余剰から捻出できると思います。──そのくらいの残額はあるって言ってましたよね、実森先輩」
名を呼ばれたのは会計を務めるホルン吹きの三年生、生駒実森である。実森は一瞬、当惑気味に眉を潜めたが、思い出したように手元のファイルから通帳を取り出した。部費管理を行っている口座のものだった。
「捻出はできそう。例年、六月に部費を徴収してるでしょ。今年の一年は十人だから、それが済めば口座には五万円くらいの余剰が生まれるはず。去年までの余剰の積立分もある」
「申し込みの期限は八月なので、それでじゅうぶん間に合います」
菊乃の畳み掛けはなおも続く。
「指導は顧問の須磨先生にお願いしようと思ってます。それが駄目なら、友達の伝手を頼って芸文附属の吹部でコーチをやってる先生に依頼します。あたしたちにはコンクールの参加経験がないので、練習の進め方とかも込みで師事を仰ぐつもりです。口約束ですけど、芸文附属の吹部も見学させてもらえることになりました」
「ちょ、ちょっと待って」
洸が制止に入った。ようやくルーズリーフの内容を読み込み終えたようだった。
「拙速すぎやしないか。須磨先生にはまだ相談していないんだよね、これ」
「もしかして部内全員が参加するのか?」
打楽器の芽室徳利が問うと、続けざまにチューバの本庄詩も不安な心境を口にする。
「私たち何も聞かされてなかったんだけど……。こんな急にコンクールなんて言われてもなぁ」
「全員じゃないです。参加したいと思ってくれた人だけで編成を組もうと思ってます。少なくとも二年のみんなは、けっこう賛同してくれています」
菊乃は臆する気配がなかった。このくらいの反応は菊乃には織り込み済のはずである。賛意を示している二年生がいるという事実が、彼女に強い後ろ盾を与えているのだ。
音楽室には静寂が立ち込めた。グラウンドから響いているはずのサッカー部や野球部の声も、電車の走行音さえも締め出された音楽室の中に、熱のこもりつつある菊乃の言葉だけが高々と反響する。
「先輩たちを巻き込むつもりはありません。だけどあたしは、あたしたちは、一度でいいから今の仲間たちでコンクールに出てみたいんです。あたしたちの演奏を公正な審査にかけて、どれだけの実力があるのか試してみたいんです。世間一般の吹奏楽部の人たちなら当たり前にやっていることです」
「要するに競いたいってこと?」
はじめも尋ね返す。落ち着きのある低い声に、菊乃は勢いのある「はい」で応えた。
「地区音とか中音ではダメなの?」
「演奏会じゃダメなんです。地区音の価値を否定するつもりは毛頭ないですけど、何となく吹いてるだけでもやり過ごせてしまうような演奏機会じゃ、いつまでたっても向上できない。美しい音は紡げない。だからこそのコンクールなんです」
「毎年毎年、おんなじことばっかりやってたってつまらないじゃないっすか」
ファゴット奏者の八代智秋が加勢した。さらに「難しいかもしれないけどきっと楽しいですよ、コンクール!」と恵が続く。同じセクションから賛同の声が出たことに困惑を隠せなかったのか、詩も、洸も、真一文字に結んだ唇の奥でつばを飲んでいた。
例年と違うものに取り組むことはリスクを伴う。各々の練習計画の調整をしなければならないし、場合によっては各演奏のための楽器編成にも影響を及ぼす。三年生が簡単にゴーサインを出してくれないのは分かりきっていた。その上で、菊乃はきちんと戦略を立てて、反論を組み伏せる準備を整えてきているのだ。
「『音楽なんだから楽しくやろう』──それがこの部のモットーなのは知っています。なら、コンクールに出る楽しみだって肯定されてしかるべきじゃないですか」
三年生たちは沈黙している。菊乃の声は対照的に大きくなる一方だった。
「練習計画はあたしが練ります。指導者の手配にしても参加の手続きにしても、なるべく三年の人たちの負担にならないようにします。迷惑はかけません。だからお願いです、参加させてください!」
だめ押しと言わんばかりに、菊乃は深々と頭を下げた。
痛いほどの静寂が続いたのは、わずか数秒ほどの間だったか。少なくとも体感はずいぶん長かったように思う。肌に刺さるような緊張に耐えきれず、美琴が視線を足元に逃がそうとした時。
ついに、はじめの嘆息が耳を穿った。
「……分かった」
その時、部長は間違いなく、そう言った。
「ただし、誰かがきちんと旗振り役を務めてほしい。いつ、何をどうするのか、そのあたりがバラバラになっちゃうと困るから」
「いいのか」
洸が問いかけたが、はじめは静かにうなずいただけだった。菊乃が勢いよく顔を上げた。その頬にも、瞳にも、口元にも、つい数秒前までは見当たらなかったはずの笑みがいっぱいに広がっていた。
「ありがとうございます!」
二年生の間にも安堵が広がってゆくのが見てとれた。美琴も深呼吸をして、肩の凝りを取りにかかった。
コンクール参加は決まった。
弦国管弦楽部の一世一代の挑戦は、これでようやくスタートラインに立つことを許されたのだ。
「しかしよくこんなコンクールを見つけてきたな。管弦楽でも参加できるんだ、これ」
「全国大会も用意されてるんだね」
「全国大会は千葉か福島で開かれるらしいですよ。もし進めたら、開催は十一月頭。十一月半ばに開催の地区音とも重なりません!」
三年生のつぶやきに反応する菊乃の声からは、あれほど満ちていたはずの緊張感はすっかり失われている。わらわらと三年生たちはルーズリーフの周りに集まった。張り詰めた空気が弾けた反動で、ミーティングの場は一気に雑談大会に突入した。
安心するのはまだ早い。
楽曲選び、指導者選び、練習時間と場所の確保、編曲作業やメンバーの選定……。菊乃や二年生の前に積み上がる課題の量は、見上げれば首を痛めてしまうほどに多いはずだ。
そのための覚悟は、しているつもりだった。
「これから忙しくなるよなー。うちらはどう動いたらいいんだろ」
「一年生からのスカウトとか?」
「弦楽パートの一年、一人しかいないんですけど」
直央と恵が背もたれに寄りかかって笑っている。その崩れた相好に、美琴はかえって気を引き締められる思いがした。
「そう。とってもきれいな演奏をする子だなーって」
▶▶▶次回 『C.038 土手上の邂逅【Ⅰ】』