C.036 お掃除組の仲間
お菓子の包装紙が床に落ちている。ひょい、と軽やかに指先でつまみ上げた紙切れを宙にぶら下げながら、目の前の先輩は浮かない色の息を吐いた。
「またこうやってポイ捨てする……。誰のだろう、これ」
「はーい。わたし、滝川先輩の机から落ちたのを見ました」
舞香が手を上げて進言する。「やっぱり」と眉を下げた彼女は、拾い上げた包装紙を手のひらでそっとつつんで、ドアの脇に並んだゴミ箱の方に目をやった。投げるか──。ちょっぴり期待した里緒だったが、さすがにそんな真似はせず、歩いていって包装紙をゴミ箱へ投下した。胸の前に流した斜めの三つ編みが、反動でふわりと揺れた。
長浜香織。菊乃や舞香とともにフルートを担当する三年生である。里緒と舞香に与えられた部内役職、美化係のリーダーでもある。優しくて穏やかな風情の漂う、人見知りな里緒でもとっつきやすそうな印象の先輩だった。
「じゃ、今から簡単に美化係の説明をするね」
捨て終えた香織はきびすを返してこちらを向いた。里緒も、舞香も、はいと揃った返事を返した。新体制管弦楽部の活動初日である今日は、新生美化係のデビュー戦の日でもあるのだ。
「私たち美化係の役目は、練習で使った教室の清掃と整理整頓を行うことです。一応、原則として、使った教室は各セクションが責任を持って掃除と現状回復を済ませることになってるんだけど、さっき見てもらった通り実際には掃除はかなり適当にしかやってもらえないので、私たちが残りを頑張ることになります」
「尻拭いみたいなお仕事ですね」
「そうだね。みんな、教室の使い方が粗いから……」
舞香の言葉に香織は苦笑した。苦笑の理由は里緒にも容易に理解できる気がした。
さっき香織の拾い上げた包装紙は、セクション練習の途中で菊乃が開封したお菓子袋の中のものである。他のセクションの事情は分からないが、少なくとも木管セクションは合計二十分くらいの練習時間を“親睦会”と称してお菓子パーティーに割いていた。おかげで机の並びもおかしくなっているし、よく見ると机の上も粉っぽい。このままにしておくと管弦楽部が怒られてしまう。
さ、やろう──。香織が机の両端を掴んで持ち上げる。里緒も見よう見まねで、乱雑に置かれた机の配置を戻しにかかった。机が撤去されて露になった床を、適宜、舞香がちり取りとほうきできれいにしていく。木管の使った教室、低音の教室、弦楽の教室、そして最後に音楽室。作業箇所の多さに骨が折れたが、慣れるにしたがって里緒も舞香もスムーズに仕事を進められるようになり、後半戦に差し掛かる頃にはずいぶん能率も向上を見せてきた。
「どう、部活」
せっせと机の上のほこりを払い落としながら、香織が尋ねてきた。
「二人は慣れてきた?」
「そこそこ……ですけど」
里緒は控えめに答えた。正直、控えめな表現をする意味は何もなかった。入部前からあれだけ花音に連れられて通い詰めていたのだから嫌でも慣れる。安堵の笑みを口の端に滲ませた香織の向こうで、「早いなー」などと舞香が感心げに声を上げた。
「そりゃそっか。高松さん、吹部経験者だもんね」
「その、それなんだけど……。中一の時しか参加してなかったから、実はそんなに経験、なくて」
「え、なんで? やめちゃったの?」
やめたというか、行けなくなったというか。整頓の手をしばし止めて考えてみたが、結論はすぐに目の前の机上に降ってきた。
花音や紅良にさえ明かせる見込みのない中学時代の闇を、この同業者たちにはまだ、話せない。
「……色々、あって」
結局そんな言葉ではぐらかしてしまった。
香織と舞香は顔を見合わせている。里緒ほどの事情を抱えて部活から遠ざかった人間はきっと珍しい。事情を知らない人間の反応なんて、大概こんなものだろうと思った。
「わたし中学は合唱部だったけど、途中で辞めてった子なんていたかなぁ」
舞香は手の上でほうきを器用にくるくると回した。軽やかに舞った灰色のほこりが、足元のちり取りに汚れた化粧をかけてゆく。
「部活って長く続けてなんぼだと思うしなー。一緒に過ごした時間が多ければ多いほど、みんなの仲も深まるもんじゃない?」
紅良ならば真逆のことを主張するだろう。こういう人がいる限り、西元さんが管弦楽部に入ってくることは永遠にないだろうな──。ひそかに寂しい思いを玩んだ里緒の向こうで、「そこは色々だよ」と香織が笑った。
「相性の問題とかね。お互いの性格が合わなければ、どれだけ時間を費やしてもなかなか仲が進展しないことだってあるもの」
「あー……、確かに」
「うちの部でもいくつかあるんだよ。そういう、相性に問題のありそうな関係」
誰だろう。里緒が考え込むよりも前に、舞香が思い付いた。
「部長と滝川先輩とかですか?」
「よく分かったね」
香織は目を丸くしている。得意気に胸を張った舞香は、だってー、と一本指を立ててみせた。
「部長ははじめ先輩ですけど、滝川先輩もすっごくリーダーシップを取りたがる人じゃないですか。船頭多くして船山に上る、ですよ」
その諺はいくらか視点がずれているのではないかと思ったが、なるほど舞香の指摘は的を射ていた。同意を求めるように舞香が里緒の目を見た。里緒は慌てて、大きく何度もうなずき返した。
「難しい問題ではあるんだよね。多分、あの二人も相性の悪さのことは自覚してるし、今はけっこう上手くやってる方だと思うの。以前はちょっと揉めたこともあったから」
ため息混じりにつぶやいた香織は、でも、と逆接の接続詞を強調した。
「二人とも、特に菊乃ちゃんは、音楽に関してはうちの部の誰よりも熱いものを持ってる。里緒ちゃんや舞香ちゃんの上に立つ人間として十分に信頼できる子だって、私は思ってるよ」
「それならいいんですけど……」
先輩たちの意向に従う立場の里緒には、それ以上の感想は思い付かなかった。
さ、あとちょっとだよ──。香織の号令で美化係の三人は仕事に戻った。乱れた机の並びを整え、椅子を添え、忘れ物の有無を入念に確認しながらほうきで床を掃いてゆく。
ぴたりと閉じられたドアの向こうからは、音楽室で賑やかに笑い合う部員たちの声が途切れ途切れに届いている。陽の世界で華々しく煌びやかに生きるより、閉鎖された教室の中で与えられた職務に黙々と没頭している方が、里緒の性には合っていた。
「毎年毎年、おんなじことばっかりやってたってつまらないじゃないっすか」
▶▶▶次回 『C.037 活動方針決め会議』