C.035 後ろ髪を引かれて
耳に覚えのあるクラリネットの音が、頭上から断続的に降ってきている。西元紅良は反射的に顔を上げた。
「A~~」
すぐ隣で口ずさんだ少女が、そそり立つ校舎の壁を見上げてつぶやいた。
「音楽室の方からだね」
「管弦楽部じゃないの」
さらにその隣で、頭の後ろに腕を組んだ少女がのんびりと答える。津久井翠と、鴨方つばさ。二人ともD組のクラスメートである。
あの音は、里緒だ。
とっさに気づいたが言葉には出さなかった。
翠もつばさも足を止めてしまっている。振り返って、「遅れるよ」とだけ告げると、二人はちょっぴりばつの悪そうな顔で後を追いかけてくる。その姿を確認した紅良は、前を向いた。
今日は土曜日。市民吹奏楽団『国立北多摩ウインドオーケストラ』の定期活動が始まる時間まで、あと三十分ほどに迫っていた。
里緒が花音に引きずられる形で管弦楽部に入部したことは、すでに風の便りで紅良も聞き及んでいた。
……否、聞き及ぶまでもなかった。春の定演を見に行ってから間もなく一週間になるが、あの日以来、紅良はほとんど毎日のように校舎の上階から舞い降りてくる里緒のクラリネットを耳にしている。そもそも紅良は里緒が入部届けを書いている場面も目にしているのだ。
(あの子、本当に入っちゃったんだ)
とは思った。正直、少しばかり落胆してもいたと思う。
確かに管弦楽部は里緒の言う通り、コンクールに向けて厳しい練習に日夜を消費するような雰囲気の部ではなかった。先輩たちの態度も和やかで優しかった。けれど、如何せん定演の演奏レベルは高いとは言えず、紅良の中で部への評価を“非”から“是”に転じるには至らなかった。かねてから紅良なりの理屈を駆使して管弦楽部に入らないよう勧めてきたつもりだったが、最終的にその理屈は、花音の熱意の前に退けられてしまったことになる。
惜しいことをしたかな──。
どことなく浮かない心を持て余しながら、紅良は紅良で以前から目をつけていた国立WOに入会を申し込んできた。さすがは地域でもっとも名を知られる社会人吹奏楽団だけあって、弦国のみならず、かの芸文附属からも多くの生徒が参加している。つばさも、翠も、紅良に先駆けて入会を果たしていたメンバーのひとりだった。偶然にも同じクラスだったこともあって、今はこうして一緒に練習場所へ向かう程度の関係を築いている。
願わくは里緒のことも誘ってみたかった。里緒が管弦楽部を蹴っても、蹴らなくても、打診くらいはしてみるつもりだった。とは言え、里緒のことだからきっと“社会人楽団”という単語を聞かされただけで尻込みしてしまっただろうし、これはこれで結果オーライなのかもしれない。
考えごとをしているうちに校門を出た。いくらか後ろを歩むつばさが、「そういやさー」と間延びした調子で口を開いた。
「舞香、希望通りフルートになったんだって。フルートの先輩めっちゃ気さく! って喜んでた」
「へぇ、よかったなぁ。つばさの影響受けてフルート志望してたんでしょ?」
翠の言葉に、つばさは鼻から抜けるような笑い方をした。満更でもないらしい。
つばさの担当楽器はフルートで、翠はピッコロ。どちらも中学からの経験者である。これまでの練習で音を吟味してみた限り、その実力はだいたい高校生奏者としては中の上といったところか。周囲の先輩団員たちからの評価も概して似たり寄ったりだった。要するに高一にしては実力のある方なのだが、そのくらいでなければ国立WOでの活動には到底ついていけない。
フルートの先輩というと、あの滝川とかいう快活な先輩のことだろうか。
化粧石を踏む紅良の網膜に、黒髪を後ろで束ねた姉御肌な先輩の姿が浮かんだ。ああいうムードメーカータイプの人間が紅良は苦手である。クラリネットを吹いていた茨木という先輩の方が、他人に無関心そうにしていた分、まだいくらか好感を持てた。
「ねー紅良、管弦楽部の定演も聴きに行ったんだよね」
「フルートの先輩とやらはどんな感じなのさ?」
二人が口々に尋ねてきた。視線を上げ、紅良は遥か頭上いっぱいに青々と広がる空へ視線を結ぶ。
校舎からはいくらか離れてしまったけれど、車通りがなくなれば、耳を済ませば、まだ里緒のクラリネットの音色が聴こえているような気がする。心地よく晴れ渡った空に、惚けたようなクラリネットの甘い音色が自然と連想された。
滝川菊乃のフルートには、これほどの情動を覚えてはいない。
けれどもそれをそのまま口にするのでは、さすがに彼女が不憫なのではないかと思った。
「上手い……とは思うよ。速いパッセージとか、全部きちんと吹きこなしてる。音もしっかり出てるし、雑音も入ってこないし。あとは単純に、年下の面倒見と愛想のよさそうな人だった」
「じゃ、指導者の資格はばっちりだな」
リップサービスのつもりで大袈裟に褒めてやると、感心げにつばさは笑った。騙したような気分になったが、別につばさに対して誠実であるべき理由も思いつかなかったので、何も言わずに紅良は歩道へ視線を戻した。──その前に。
「下の名前で呼ばないでって言ったでしょ」
と、釘も忘れずに刺しておく。
二人は口を尖らせた。
「えー、楽団仲間なんだから名前で呼んだっていいじゃん」
「名前の方が呼びやすいしさぁ」
「苦手なの」
有無を言わせるつもりはなかった。きっぱりと言い切ると、つばさと翠は気まずそうに顔を見合わせたが、しまいには眉を傾けながらうなずいていた。
管弦楽部一年の白石舞香は、つばさと同じ中学校出身の幼馴染みなのだそうだ。たとえ里緒の口から聞くことがなくとも、部の動向に関する情報は舞香やつばさを介して自然に伝わってくることだろう。
この耳と心はまだ、里緒の紡ぐ美しいクラリネットの歌につながっている。
紅良は背中の向こうを見やった。駅前通りへ続く交差点の彼方に、四階建ての弦国の校舎が浮かんでいる。さすがにもう、管弦楽部の活動の音は聞こえてこない。
(私の考えは変わっていないからね、高松さん)
念押しのつもりで吐き出した思いをそっと地面に落とし、紅良もまた、目の前に続く練習場所への道を見据え直した。
「一緒に過ごした時間が多ければ多いほど、みんなの仲も深まるもんじゃない?」
▶▶▶次回 『C.036 お掃除組の仲間』