C.034 対抗意識
基礎練習には一定の型がある。
まずは練習前のウォーミングアップ。体操をして身体をほぐし、正しい姿勢を作るための確認をする。音楽の演奏に当たっては、楽器同様に演奏者の身体を調律することも必要で、身体が固まっていてはきれいな音は出せないのだ。ここまでは基礎の基礎、どの楽器を演奏する上でも必要になる。
木管楽器における基礎練習は、口の形の確認から始まる。このとき楽器によってはマウスピースだけで息を吹き流すことが多いが、クラリネットでは管体すべてを連結した状態で行うのが一般的だった。腹式呼吸ができているのを確認したら、チューナーや鍵盤楽器を用いて適切な音の高さに楽器を調律、それからロングトーンに移る。これは、ひとつの音を一定の音量で長く伸ばして吹くことを指し、あらゆる音階練習の基礎になる練習である。
ロングトーンを終えれば、次はタンギングや音階練習が待ち受けている。タンギングは舌を使って音を切る練習。音階練習は“ドレミファソ……”と続く音階を順に吹いて、息の入れ方を確かめる練習。これを満足に消化できれば、キイの押さえ方を鍛えるフィンガリングへと進む。金管楽器であれば、指使いを変えずに口だけで音を変化させるリップスラーの練習も加わることになる。
正しい息の使い方ができること。
正しい指の動かし方ができること。
それら二つの地固めが済んだところで、ようやく曲の練習に入ることができるのである。
(さすが運動部上がり……)
と、基礎練習に入ってからの一時間だけで何べん思い知らされたか分からない。隣の花音に休憩入りを言い渡した美琴は、ペットボトルの水を含み、喉に絡まった感心もまとめて身体の奥へ流し込んだ。
休憩を宣言された花音は、興味深そうに上着をつまみ上げて腹の動きを眺めながら、熱心に腹式呼吸を繰り返している。楽器の扱いこそ全くの初心者だった花音だが、肺活量に関しては何の心配も必要なさそうだ。腹式呼吸がどういうものを指すのかは知らなかったようだけれど、横に寝かせて下腹部に触れ、深呼吸のたびにそこが膨らむことを示してやっただけで、早速コツを掴んでしまった。
「なんで下腹部が膨らむんだろ。息って肺に入ってるんですよね」
「腹式呼吸をすると肺が下方向に拡張されて、押しのけられた臓器が下腹部のあたりに出てくるわけ。胸式呼吸では肺が肋骨の方向に拡張されるから、そうはならない。肋骨があると肺の拡張の邪魔になるでしょ。だから、胸式呼吸は大容量の呼吸に向いてないの」
ペットボトルを机に置き、身体を使いながら説明してみせると、なるほどと花音は大きく相槌を打った。
「臓器が押しのけられるって、なんかグロテスクな話だなぁ」
「下腹部に“丹田”っていう臓器があって、腹式呼吸をすると丹田に息がたまる──。確か東洋医学か何かの用語だった気がするけど、そんなふうに説明する場合もあるみたい。そしたらグロテスクさも減るでしょ」
「へぇ……。詳しいんですね、茨木せんぱいって」
「納得できないことは調べてるから」
美琴はきっぱり言い切った。知識量では誰にも負けたくない。花音は知らないことを教えてくれた相手を積極的に褒めるので、これから先、美琴が褒め言葉に飢えることはしばらくなさそうだ。
“バトンちゃん”と名付けた楽器を膝に寝かせ、花音は胸を膨らませにかかっている。もともとそれなりの膨らみのある胸が、器用に大きくなったり縮んだりするのを見つめながら、
(初日なのに音も出せるようになったし、アンブシュアも早々に身に付けてくれたし、私も楽ができそうだな)
安らいだ心がふわりと軽くなるのを美琴は感じた。美琴にだって自分の練習がある。花音にばかりかまってはいられないのである。
それにしても、花音の覚えは本当に早いと思う。
初心者とは思えないほどに早い。
というより、手順の一つ一つに疑問を覚えない。『もう知ってます』と言わんばかりの顔で知識を吸収してゆく。腹式呼吸の必要性しかり、マウスピースをわざわざつばで湿らせる意味しかり。クラリネットの組み立て方に至っては、教える前から知っていた。
「……ね、青柳」
その時、ふと気に留まったことを、気づけば口にも出していた。花音が「はーい」と暢気に応じた。
「さっき教えたアンブシュア、できる?」
「ほうへふほへ?」
すぐさま花音はクラリネットをくわえた。下唇を下の前歯にかぶせ、その上にリードを置き、マウスピースを上唇で覆って前歯を当てる。正しい形になっている。
ただ口にくわえるだけのリコーダーなどとは訳が違う。だが、アンブシュアの作り方を教えた時、花音は疑問を抱くことも驚くこともしなかった。
「それ、前にも誰かに習った?」
重ねて聞くと、花音は美琴の後ろの方に視線を放った。
振り向いた美琴の視界に、無言で楽譜と向き合いながらフィンガリングを繰り返す里緒の姿が映った。美琴や花音のクラリネットの一・五倍はあろうかという長大な管の側面を、細い指がしなやかに動き回っている。
「一度、里緒ちゃんに教えてもらったんです。駅のホームで」
「なんでまたそんな場所で……」
「えへへ、私が『吹かせて!』って無理言っちゃって」
花音の照れ笑いの響きは妙に甘ったるい。それは美琴を褒め称える時には決して出てこない声で、美琴は思わず息を飲んでいた。
ここでも、里緒の名前が出てくる。
「仲、良いんだね。高松と」
口の隅からこぼれ落ちた言葉を、花音はしっかりと拾い上げた。
「当ったり前ですよ! 私、里緒ちゃんの一番の友達だと思ってます」
当の里緒には花音の宣言は聞こえていないようだ。その瞳を発した光が一直線に譜面を貫いているのを見つめ、「そう」と美琴は返した。今の里緒に花音の姿が見えていないのは明らかだったが、その事実は美琴を少しも安心させてはくれなかった。
里緒は優れた演奏者だと思う。
彼女の紡ぐクラリネットの音色に、油断していると自分もすぐに聞き惚れてしまう。
表現力の面では里緒に軍配が上がる。部内の誰に尋ねても、きっと同じ答えが返ってくることだろう。美琴が高校生奏者として上位の存在にあるのだとすれば、里緒はあらゆる奏者の中で上位の存在。彼女の透き通った美しい演奏をいやと言うほど耳にしてしまった今、どうあっても美琴は里緒との実力差を認めざるを得ないのだ。
なのに、素直にそうすることができないのは、どうして。
コンクールに里緒が出る可能性をちらつかされただけで、あんなに動揺してしまったのは、どうして。
自分よりも上手い。たったそれだけのことさえ認められないのは、どうして。
──『部を束ねるやり方って二つあると思うんだ。実力による支配と、人徳による支配』
以前、菊乃がそんな話をしていたことがある。学年代表を務める菊乃は、ゆくゆくは部長の座につく可能性が最も高いうちの一人だった。
──『孟子の言う覇道と王道ってやつだよね。実力があれば、部員は“尊敬”っていう形で部長のことを支持するでしょ。人徳は言うまでもない。部員に好かれれば、自然と支持も集まる。このうちのどちらか、もしくは両方を持ち合わせた人が、組織のリーダーになる資格を持ってると思うの。あたしにはどっちが向いてるのかな』
実力にモノを言わせるか、人徳で惹き付けるか。それは組織のリーダーのみならず、単なる先輩と後輩の間柄でも適用される理屈だ。実力でも人徳でも後輩を上回れなかった先輩は先輩としての存在意義を失い、大したこともできないまま部員人生を終えてゆくことになる。
美琴は里緒に対して、実力で、あるいは人徳で、上回れているのか。
(私は、どっちも……)
出しかけた結論を拳で握りつぶし、美琴は里緒から目を背けた。ちょうどそこに花音の顔があった。
尋ねずにはいられなかった。
「青柳」
「なんですか?」
「高松のこと、どう思ってるの」
花音は首をかしげた。
「一番の友達だなー、って」
「もうちょっと細かく」
「うーんと……」
自分でも、心に巣食う感情に名前をつけ倦ねているのか、しばらく花音は“バトンちゃん”を握りしめながらうなり続けた。銀白色のキイが外の光を反射して、手元がきらきらと輝いている。
里緒のクラリネットなら金色に輝いているはずだ。
あの少女ばかりが、いつも特別な存在になる。
「強いて言うなら、感謝、してるかなーって。ありがとうって思ってます」
唇を解き放ち、花音は愛らしくはにかんだ。
「感謝……?」
「里緒ちゃんがいたから管弦楽部の門を叩く勇気が出たんです。里緒ちゃんのクラリネットの音色に惹かれたから、こうしてバトンちゃんと出会って、茨木せんぱいに教われてます。今、私がここにいるのは、里緒ちゃんと出会えたからなんだなって思ってて」
花音の瞳は優しい色に染まっていた。お世辞を並べ立てる時の色ではなかった。
「他にも感謝してることがあるんですけど、とにかく、ありがとうって思ってます」
「……そう」
「あ、里緒ちゃんに言っちゃったらダメですよっ!?」
焦ったように花音が釘を刺そうとする。頼まれたって告げるものかと美琴は思った。花音の瞳と、自分の瞳は、いま正反対の色をしている。ゆるゆると机に落ちた息が生温くて、吐き気がした。
きっと花音は美琴に対しても感謝していることだろう。けれど、それはあくまでも指導者に向けての感謝。友達に向けての感謝とは比較にならないほど矮小なもの。
いよいよこれではっきりした。
美琴は里緒を実力で上回ることも、人徳で上回ることもできていないのだ。
「…………」
口のなかに苦い沈黙が垂れ込める。里緒との思い出を楽しげに語り始めた花音からそっと目を逸らすと、視線は自然に里緒へ引き寄せられた。“友達”が熱心に魅力を語っていることを少しも知らないまま、里緒はまだ真剣な表情でクラリネットに向き合っていた。
里緒が褒め言葉にうなずいたことは一度もない。あれだけ周囲からの称賛を集めておきながら、いつも『そんなことはないです』と小声で打ち消し、あるいは聞き流し、すべてをなかったことにしようとする。
それは称賛の送り主が“一番の友達”であっても同じだった。現に今、花音がいくら里緒を持ち上げようとも、里緒にはその言葉の一節さえ届いていない。本当に聴こえていないのかもしれないが、はなから聴く耳を持っていないということだってあり得るのである。彼女の場合は、特に。
里緒には実力も人徳もあるのだ。それなのに当の本人だけが、その事実を頑なに認めようとしない。
里緒を受け入れられない理由が分かった。
(腹立たしいんだ。……自分が恵まれているのに気づこうとしないことに)
うつむいた美琴の頭頂へ、全身の血が少しずつ集まってゆく。重く、熱く、疼くような感覚に苛まれながら、それでも今は清々しい思いがした。そうだ、腹が立つのだ。実力そのものに嫉妬しているのではない。先輩を差し置いて迎え入れられるほどの実力を手にしているくせに、あるものをないと言い張って才能を無駄にするその感覚が信じられないのだ。わけが分かってしまえば実に単純なことだった。
ならば、この苛立ちをどうにかするのに必要なことはひとつだけ。実力か人徳のどちらかで、自分が里緒を上回るしかない。
──『里緒ちゃんのクラリネットの音色に惹かれたから、こうしてバトンちゃんと出会って、茨木せんぱいに教われてます』
花音の言葉が脳裏をよぎった。その言葉を額面通りに受け取るなら、花音は里緒が素晴らしい奏者だったからこそ、里緒に関心を寄せたことになる。
(それなら、私が高松よりもきれいに吹ければいい)
美琴は膝の上のクラリネットに目を走らせた。無意識の武者震いがクラリネットを揺らし、キイで跳ねた照明の銀光がちらちらと瞬いた。
(芸術は実力主義の社会。私が高松よりも大きな人間でいるためには、演奏で上回らなきゃいけない)
そうでなければ、こんなどこにでもいるようなクラリネット奏者ひとりの存在価値など、里緒の前では簡単に押し潰されてしまう──。
あのー、と花音が声をかけてきた。
「練習に戻りましょうよぅ」
すばやく外向きの表情を整え、美琴は口を歪めて笑った。
「そうね。続き、やろう。さっき教えたチューニングからやるよ」
「はーい!」
花音は嬉しそうにクラリネットを握り直す。
彼女のように純粋な感情を抱えてクラリネットを持つことは、もう、自分には叶わないに違いない。笑顔が失笑に塗り替わってゆくのを悟りながら、美琴も並んでクラリネットを指に引っ掛けた。何も知らない里緒の放った静かな響きの音色が、ほこりの漂う頭上を飛び越えていった。
「私の考えは変わっていないからね、高松さん」
▶▶▶次回 『C.035 後ろ髪を引かれて』