C.033 楽器を愛するということ
毎年六月初旬になると、立川市の中心部では『立川音楽まつり』という音楽イベントが開催される。
市内各所の広場や店頭に設けられたステージで、抽選を通過した数十ものグループが同時多発的にライブを行う。聴衆や店、果ては公共機関も巻き込んだ大規模な市民音楽祭である。街全体がステージの役割を果たすという特性上、聴き手も気軽に立ち寄って演奏に耳を傾けることができるので、商業者にとっても大きなビジネスチャンスになる。今や年を追うごとに注目度の増す、街を代表する一大イベントなのだ。
そして、弦国管弦楽部は例年、この『立川音楽まつり』を新一年生部員のデビュー戦と位置付け、継続的に参加してきた。
「今年の日程は六月二日! 場所はパステルアベニューと春羅屋の間、サンサンロードと呼ばれる遊歩道内のステージに決まりました。『学生楽団演奏』っていう枠の中で、一番手として演奏を披露します」
はじめは概要のプリントアウトされた紙を部員たちに向かって掲げていた。“パステルアベニュー”と“春羅屋”は、それぞれ立川駅の北口に建つ商業テナントビルとデパートのこと。両者の間には広い遊歩道があり、その上空を多摩都市モノレールの高架線路が横切っている。
「一年生には今日から本格的に基礎練習に入ってもらうことになるけど、一応、こういうイベントに出るんだってことだけは覚えておいてね」
続けたのは一年生指導の総括、菊乃だ。隣の花音が威勢よく「はーい」と答えた。
(元気だなぁ)
里緒の口元は少しばかり綻んだ。ようやく楽器を触れるようになるというので、今朝から花音はとびきりの上機嫌である。それは他の一年生も同じらしく、大人しく椅子に腰掛けているのは里緒たち楽器経験者だけだった。
そわそわと浮き足立った空気を敏感に感じ取っていたのだろう。全体を見回し、はじめは手を叩いた。
「それじゃ、セクションごとに別れて練習を始めます!」
大学受験をしない三年生、六人。二年生と一年生が十人ずつ。合計二十六人になった弦国の管弦楽部は、今、ようやく新年度の活動を開始した。
木管セクションにはクラリネット、フルート、サックスが属している。サックス、もといサクソフォーンは真鍮製の楽器だが、機能面で言うと木管楽器としての特性を兼ね備えている楽器であることから、弦国では木管セクションの仲間として扱われる。同様に、本来ならば木管セクションに属するはずの木管楽器・ファゴットは、担当するのが低音域であることを理由に、弦国では低音セクション所属の楽器である。
木管セクション十名はおのおのの楽器を携え、音楽室の三つ隣の教室へ集合した。
「えへへー、私の楽器……」
音楽準備室から選んできたクラリネットのケースをしっかり胸に抱え、花音はいとおしげに表面を撫でている。まだ吹いてもいないうちから尋常ではない愛で方である。ただケースを膝に放っているだけの里緒は、何となく後ろめたい気分にさせられた。
ぼうっとしていると、花音の関心は里緒の方にまで寄ってきた。
「ね、吹部の人たちって楽器に名前とかつけるんでしょ? 里緒ちゃんはつけてないの?」
「な、名前?」
里緒は動転して声を跳ね上げてしまった。
「つけてないつけてないっ」
中学の頃は名付けている人も多かったが、恥ずかしくて気乗りがしなかったのだ。「えー」と花音は唇を尖らせた。
「じゃあこの際つけちゃおうよー。私はこの子のこと、『バトンちゃん』って呼ぼうっと」
「バトン……?」
「体育祭のリレーで使ってたバトンに似てるなーって」
管状であること以外、何一つとして似ていないはずなのだが。苦いつばを飲み込んだ里緒の向こうで、艶のある長髪の少女が「やっぱ花音のネーミングセンスって変わってる!」と笑った。フルートを担当することになった未経験者の一年生、白石舞香である。
「まいまいも名前つけなよ!」
「んー、じゃあ……」
試案を始めた舞香の方に花音が向き直ってしまった。他の一年生、アルトサックスの大館光貴とテナーサックスの新富忍も、互いの楽器を見交わしながら何事か話し込んでいる。二年生と三年生はこのあとの打ち合わせをしているようだ。取り残された里緒は、特に意味もなくケースを開いて、収められたクラリネットのパーツを眺めていた。手持ち無沙汰を忘れることができさえすればよかった。
名前、か──。
そこまでの愛着を、自分はこの楽器に抱いているのだろうか。
(大切であることと好きであることって、違うし)
これでもそれなりに大事に想っているつもりではある。愛情の深さで花音に負けたような気がするのは寂しいし、里緒も何か名前をつけるべきだろうか。候補になりそうな名前を窓から望む地面に書き並べてみたが、たちまち、隊列を組んだ野球部員たちが勇ましい掛け声を上げながら踏み消していってしまった。
「はーい! ちょっと聞いて!」
菊乃の声で里緒は意識を引き戻された。打ち合わせを終えた先輩たちが、いつの間にか一年生の前に勢揃いしていた。
「うちのセクションには経験者が一人しかいません」
あからさまに里緒の方を向きながら、菊乃は手にしたルーズリーフを読み上げ始めた。経験者だと意識させられる時間が里緒は苦手だ。私を見ないで、と願ってしまう。
「なので、それ以外の子たちには基本、一人ずつ指導の先輩をつけることにしました。今から担当を呼ぶので、聞き逃さないようにしてね」
「はい!」
「クラの青柳ちゃんには、二年の茨木美琴。フルートの白石ちゃんには三年の長浜さんと私、滝川菊乃。アルトサックスの大館くんには二年の松戸佐和。テナーサックスの新富ちゃんには、部長のはじめ先輩がつきます」
呼ばれた順に、先輩たちが一年生のもとへ向かう。花音に歩み寄る美琴の姿が視界をかすめた。
里緒の名前は、呼ばれない。
「あの、私は……っ」
恐る恐る声を上げると、菊乃はきょとんと目を丸くした。それから、何事もなく口角を上げた。
「高松ちゃんには指導担当は必要ないでしょ? ひとまずパー練の時間になるまで、自分でアップとか基礎練習をしててもらっていい?」
「は、はい……」
致し方なく、里緒は小声でうなずいた。要するに経験者に宛がうほどたくさんの先輩はいない、ということ。当たり前なのだけれど、見捨てられてしまったような気分になるのはなぜだろう。しょせん被害妄想だろうか。
花音と美琴がにこやかに話しているのが嫌でも耳に入った。
(基礎練は自分で、か)
今までと変わらないな──。気落ちしてしまった部分を取り戻すべく、里緒は蓋を閉じたケースを床に置いて勢いよく立ち上がった。体操するよ、と菊乃が声をかけて回っているのが遠く聞こえていた。
「里緒ちゃんがいたから管弦楽部の門を叩く勇気が出たんです」
▶▶▶次回 『C.034 対抗意識』