C.032 参戦計画【Ⅱ】
あたしはまっぴらごめんだ──。
一瞬、菊乃は押し黙ったが、脳内に居座る菊乃のイメージが勝手に台詞の続きを補ってしまった。『うん』やら『だよね』やら、賛同の声が後を追って美琴の耳元を舞った。
──『あんな言われ方されなくたっていいよね』
──『弦国相手だからって、何を言ってもいいなんて思われんのは困る!』
──『けど、下手くそだったのは事実だもんな……』
──『あたしも同感。だからこそ、だよ』
菊乃は語気を強めた。
──『コンクールは演奏会とは違う。中途半端な気持ちで練習やったって、ぜんぶ審査で見抜かれて容赦なく低評価がつく。そんな環境に身を置けば、嫌でも練習を頑張らなきゃいけなくなる』
──『……うん』
──『練習をきちんと頑張りさえすれば、あたしたちなら上にだっていける。それだけの素養、あたしたち弦国管弦楽部の部員にはあるって思ってるよ。本当に素敵な、胸を張って最高だって誇れる演奏をできるようになるために、コンクールを機会として利用するの』
誰も、何も反論しない。菊乃の訴えは佳境に差し掛かっていた。
新歓が落ち着いたので、間もなく今年度の活動の方針を決める会議が上級生たちのあいだで開かれる。コンクールに本気で参加しようと思ったら、その会議でコンクール参戦を提案し、参加決定を勝ち取らなければならないのである。
──『正直、例年と違うことをやるんだから反対されるのは分かりきってる。三年の先輩たちにはこのことはまだ話してないんだ。二年のみんなが賛同してくれて初めて、コンクール参加の計画は軌道に乗せられる! だから……』
──『ちょ、ちょっと待ってよ』
割り込んできたのは、アルトサックスの松戸佐和の声である。
──『それ、コンクール参加が規定路線みたいな言い方に感じるんだけど』
──『あたしはそのつもりだった』
遮られた側の菊乃には、佐和の困惑は伝わっていないらしい。『ダメかな?』と彼女が問うと、佐和は渋みのある声を絞り出した。
──『ダメっていうか……。私はそれ、あんまり首を縦には振れない』
──『なんで?』
すぐさま恵が問いかけた。うーん、と佐和は喉から発した声を引き伸ばした。部長と同じ楽器を扱う佐和は、普段から三年生との活発な親交のある二年部員の一人でもある。
──『初めて聞かされた時から感じてたけどさ、やっぱりちょっと無謀なんじゃないかなって……。コンクールの出場経験がないってことは、うちら練習の時間配分も進め方もペースも分からないんだよ。だいたい指導者は誰が務めるわけ、これ』
──『顧問の須磨先生がいるでしょ。芸文出の音楽教師なら素質も十分じゃない?』
──『あの人、ほとんど部に顔を出さないじゃん』
──『指導をお願いしますってちゃんと伝えりゃ来るんじゃないの。うちはコンクール、賛成だよ』
今度は直央が言う。『わたしもわたしも! 賛成!』と、ヴィオラの恵が続いた。弦楽セクション所属の彼女たちが賛同するのは初めから分かりきっていた。
──『でも……』
佐和の声がくぐもっている。こういう時に無理に押し通すのは得策ではないと美琴は思う。菊乃も同感だったのか、声のトーンをやけに引き上げた。
──『あ、あのさ。反対だったり疑問がある人は何でも言ってほしいな。発案者として、責任持って答えるから』
賛成ならば何も発言する必要はない。早々に聞き役を決め込んだ美琴は、疲れてきた目からスマホを引き離し、大の字になって天井を見上げた。賛成と反対、自分はどちら側にいるだろうか。眼前の天井は白とも黒ともつかない色をしている。
美琴も、それから菊乃も、中学で吹奏楽部を経験している。もちろんコンクールにも出場したことがある。都大会で銀賞、よくても上位の大会へ進出することのできない金賞──“ダメ金”とか“タダ金”と呼ばれるが、とにかくその程度の実力しかない中学だった。だからといって、コンクールそのものに否定的な感情があるかと言われたら、ない。
それに、あの里緒と比べることさえしなければ、自分のクラリネットの音にはそれなりの箔がついている。
──『反対ってわけじゃないんだけどさ』
控えめに口を開いたのは、トランペットの福山丈であった。
──『僕は正直、あんまり自信ないんだよな。トランペットだって弦国に入学してから始めてるからさ。滝川たちみたいに中学から続けてるような人の足を引っ張るのは、やっぱ怖いかな……』
丈のトランペット歴はまだ一年にも満たない。入部したのも去年の五月で、周りの部員たちよりも一回り遅かった。丈の懸念はもっともだった。
──『いや、そんな下手じゃないだろ、お前』
──『そうだよー。別に卑下する必要ないと思う』
フォローの言葉が飛び交ったが、美琴の耳にはどことなく空々しく響いた。みんなはただ、丈に抜けてほしくないだけなのだろう。同じものを感じ取ったのか、それ以上の丈からの意思表示はなかった。
ついでとばかりにトロンボーンの下関佳子が続いた。
──『わたしも賛成しないわけじゃないけど、参加はできないかも……。他の部活もあって忙しいし』
佳子は管弦楽部のほかにも複数の部を掛け持ち、さらに生徒会代表委員会にまで参加している子だった。部内随一の人脈の持ち主だが、管弦楽部の練習には半分も加われていない多忙な仲間でもある。
──『ヨッシーは無理ないね』
残念そうにこぼした菊乃が、あ、と付け加えた。
──『福山のこともそうだけど、賛同するかどうかと参加するかどうかは別々に考えたいと思ってるんだ。コンクール参戦に賛同したからって、強制的にメンバー入りするってわけじゃないから安心してほしいな。もちろん基本的には、賛同してくれたみんなで舞台に立ちたいけどさ』
その言葉に安堵を覚えたのだろう。丈からも佳子からも、それ以上の意見が出ることはなかった。
──『ま、だとしてもうちらの都合で三年生を振り回すわけにはいかないしね。せっかくならみんなで出たいなぁ』
耳元で直央が朗らかに笑う。
美琴はすぐさま楽器を数えた。異論を唱えた三人が加わらないとして、使える楽器はクラリネット、フルート、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ。……およそ合奏の成立する顔ぶれには見えない。実際には三年生の力を借りざるを得ないだろう。
だが、やってやれない挑戦ではないと思えた。
──『佐和っちの挙げてくれた懸念は、あたしの方でも解決できるようにする。ちゃんと指導者も探すし、コンクールに向けてどういうことをすべきなのかも調べるよ。無計画な提案なんかじゃないんだってこと、部長たちに見せてやるんだから』
菊乃の言い切りには確かな説得力があった。佐和は小さな声で、わかった、とだけ口にしていた。
大勢は決まった。張り詰めていた空気に生じた緩みが、雑音となってイヤホンと耳の隙間に流れ込む。
──『じゃ、あとで詳しいことをまとめて説明用の資料を作っておきます!』
──『やったー! 弦国のみんなでコンクールに出られるなんて思わなかった!』
──『まだ決まったわけじゃないでしょうに』
──『ってか誰? テレビの前で電話してる人いるでしょ! うちと同じ番組見てる人がいる!』
──『げ、それ俺だっ』
──『なになに? どの番組ー?』
一気に雑談大会が再開された。
実にやかましい。音楽室の片隅で駄弁っているような錯覚を肌に感じながら、美琴もほっと一息をベッドの上に落として転がした。結局、最後まで一言も口を開くことなく決まってしまった。
決まってよかった。
(本望だろうしな、あの子には)
組んだ腕に顔を沈め、アイコンに大きく映る菊乃の顔を見つめた。
アイコンの彼女は伸びやかに笑っている。
かつて、この顔がプレス機にかけられたように歪んだ瞬間があったのを、美琴は今も鮮明に覚えている。日頃から口数の多かった菊乃が、あの時だけは口を固く結んでいた。結んだ唇の中へ嗚咽を必死に隠しながら、泣いていた。──忘れることなどできそうもない。
(私だって、二度も三度もあんな思いをするのなんか、ごめんだ)
胸に問いかければ、そんな答えが素直に返ってくる。少なくともここにいる自分だけは、まっすぐな気持ちでコンクールに向き合うことができそうだと思った。
無駄話に付き合う義理はない。グループ通話から離脱しようと、受話器のマークに指を伸ばした。
──『ね、菊乃』
佐和が思い出したように尋ねていた。
──『三年の協力は仰げそうにないんでしょ? 二年生だけでどうやって、まともな演奏のできる人数と楽器を揃えるつもりなの?』
そんなの頭を下げてでも三年生に頼むしかないだろう──。代わりに応じようとした美琴だったが、菊乃の方が早かった。さも当然といった声色で彼女はさらりと答えた。
──『一年生の子たちがいるじゃん』
──『でも……』
──『吹部でも経験年数一年未満でコンクールA部門に選ばれる子はいたもん。ちゃんと本腰入れて練習すれば、すぐにでも実力は追い付くよ。それに言うまでもないけど、経験者は即戦力になるでしょ?』
美琴の指は画面に触れる寸前のところで静止していた。
否、震えていた。
一年生も動員する?
経験者が即戦力になる?
それは、つまり──。
──『高松ちゃんあたりは入れたいなー。先輩権限を使ってでも入れたい』
鼓膜で弾けた菊乃の何気ない言葉が、美琴から通話を離脱するタイミングをすっかり奪ってしまった。
「大切であることと好きであることって、違うし」
▶▶▶次回 『C.033 楽器を愛するということ』