C.030 同僚の背中
港区・六本木といえば、東京中に散らばるダウンタウンのなかでも早くから国際化、繁華街化が進み、交通アクセスの改善に伴って巨大ビルの林立するオフィス街へと成長したエリアである。その中心部では、十数年前に数万平方メートルもの広大な敷地を対象に再開発が行われ、複合業務商業施設『六本木タイムズスクエア』が誕生した。
その中枢、六本木の狭い空に天高く聳える五十四階建の超高層オフィスビル『スクエアタワー』を、高松大祐はビジネスバッグを小脇に抱えて出てきた。
(時間、合ってたよな)
つい気が急いて、腕時計を見た。文字盤が暗くて読みづらいが、退社した時にも時間を確認していたから間に合っているはずだった。
背後のスクエアタワーは青や白のライトアップに彩られ、航空障害灯の赤い輝きと合わせて夕闇のスクリーンに輪郭を際立たせている。いまは午後七時過ぎ。じきに退社してくる会社の同僚と合流して、一緒に夕食をとる約束をしているのだ。
「高松!」
太い声が大祐を呼び止めた。振り返ると、巨大なクモのモニュメントの前にスーツ姿の大柄な男が立っていた。
「そこにいたのか、新発田」
「会議が早めに終わったから先に出ちまったんだよ」
にやりと口の端を持ち上げた同僚──新発田亮一は、歩み寄った大祐の肩を軽く叩いて、ペデストリアンデッキを降りるエスカレーターの方を向く。
実に迫力のあるシルエットだ。最後にこうして至近距離から背中を眺めたのは三年も前のことになるか。変わってないな、と思った。言葉に表すことの難しい、柔らかな匂いのする感情が、追いかける大祐の背中をそっと押して微笑んだ。
「いつものところでいいよな。駅前の『きずな』」
「ああ。混んでないといいな」
「平日だし大丈夫だろ。ほどほどに居座っても怒られりゃしねぇよ」
それもそうだと思い直し、エスカレーターに乗る。一段下に立つ亮一の肩が視界を埋め尽くした。この友人は身体も、ゆとりも、本当に大きい。
大祐を振り仰ぎ、彼は笑った。
「“お帰り”って言ってなかったな」
大祐も真似をした。上手く笑えた自信はなかった。
株式会社『ラックタイムス』は、インターネット通販サイトをはじめとした各種ネットサービスの運営、クレジットカード事業や金融業、旅行代理店の運営など多岐にわたる業務を展開し、今まさに急成長の途上にあるIT系の大企業である。
代表格の事業である通販サイト『ラックテナント』は、日本国内ブランドとしては最大規模の品揃えと売上を誇り、その通称“ラッテ”はネット通販の代名詞ともなりつつある。日本国内各地と海外に多数の支社を持ち、傘下にも無数のグループ企業を従えて矢継ぎ早に事業を拡大。しまいには三年前、東北地方への進出に合わせて、宮城県仙台市を拠点とするプロ野球チーム『仙台ラックタイムス・ファイアバーズ』を設立してしまった。設立翌年にいきなりリーグ優勝を達成するなど、“仙台ラックス”はさっそく会社の知名度向上に大きく貢献している。
その東京本社、会社全体の金の流れを管理する経理部の制度連結課に、大祐はこの春に転属してきたところだった。
制度連結課はかつての古巣でもあった。新人時代から付き合いのあった同僚・亮一は、いまは同じ経理部の企画課で課長の席についている。仙台への転勤を選ばず、本社勤務をそのまま続けていたならば、もしかすると大祐も今頃は課長の座にあったのかもしれない。
なんにせよ、ふたたび六本木に自分のデスクを構えることができただけでも幸せなことだと、大祐は心の底から思う。
人事部の動向次第ではそれすら叶わなかったかもしれない。自己都合での異動は、決して簡単なことではなかったのだ。
馴染みの居酒屋『きずな』は、地下鉄六本木駅の直上あたりにあった。雑居ビル群を見下ろすようにして青々と輝くスクエアタワーの姿が、大窓の向こうによく見えた。
初っぱなからビールをジョッキ三杯も飲み干した亮一は、さらに鬼のような勢いでつまみを口に放り込んでゆく。なんたる牛飲馬食であろうか。その豪快な食べ飲みっぷりに舌を巻きながら、大祐もちびちびと日本酒に口をつけた。なんとなく宮城県産の銘柄を避けてしまったが、深い意味はなかったものと思うようにした。
「──だいたいよ、俺が英語なんかしゃべれると思うかっての!」
ジョッキを力強く机に置き、亮一は唸った。
「去年受けさせられたTOEICの点数、いくつだったと思う? 四百点台だぞ四百点台っ。英語にだけは金輪際触れたくねぇよ」
ラックタイムスでは近頃、海外人材登用などを目的に、英語を社内公用語に設定するという動きが起きている。どうやら経理部にもその波は押し寄せてきたらしい。猪口を置き、大祐は苦笑した。
「しかし四百点台ってのは低すぎじゃないのか。もうちょっと勉強した方がいいだろ」
「お前までそんなことを言うのかー!」
失望したと言わんばかりに亮一は首を振る。ばらまかれた酒臭い息に大祐は顔をしかめた。
「そんなもんに時間を割いてたまるか! 英語なんて年取って退職したら何の役にも立たんだろが!」
「そんなことないだろ、海外旅行とか……」
「そんなものより俺は楽団で楽器をいじっていてぇんだよ!」
まるで聞く耳を持ってくれない。こりゃ、経理部長は手懐けるのに苦労してるだろうな──。次の一杯を注文にかかっている亮一を横目に、大祐はそっとため息を足元へ落とした。もとより同じ穴の貉、英語に自信がないのは大祐も同じなのだ。
ラックタイムスにはさまざまな社内部活動がある。その部活動の一貫で設置された楽団、『ラックタイムス・フィルハーモニー交響楽団』に亮一は所属していて、年に数回ある公演を目標に練習に励んでいる。大祐も仙台に異動になる前は所属していた。亮一の楽器は巨体に見合うチューバ、大祐はホルンだった。
三年前の異動以来、ホルンには一度も触れていない。これといって得意ではなかったがピアノも弾けたので、仙台の家にも東京からアップライトピアノを持ち込んで、たまに気が向くと弾いていた。──今は亡き、瑠璃とのセッションで。
「つか、俺の惨めなTOEICの点数の話はどうでもいいんだよ」
注文は終わったようだ。空のジョッキを放り出し、亮一は大祐の顔を覗き込んできた。
大祐の身体は静かに強張った。
酒の臭いのためではない。──どうやら、亮一は本題に入る気になったようだ。
「なぁ、ずっと聞き出したかったんだけどな、ずいぶん急な異動だったみたいじゃねぇか。東北支社で何かやらかしたのか?」
「やらかしたってわけじゃない」
窓の外に視線を放って、答えた。平素を装った声を張ったつもりだったが、窓に映る猪口の水面はかすかに揺れて見えた。
「まぁ、本社に戻ってきたんだもんな……。不祥事ってことはねぇか。それじゃ自己都合か?」
「ちょっと事情が重なったんだ。東京に戻らなきゃならない事情ができただけ」
「向こうでの出世を捨ててでも遂げなきゃなんねぇ事情だったのか、それ。東北支社のスタメンだったんだろ? その気になりゃ、向こうで部長の座につくことだってできただろうに」
立派な肩書きに興味があるわけではない。首を横に流して、猪口に残った酒を喉に流し込んだ。焼けるような感覚が喉を落ちて、どこか虚空へ消えていった。
三年前、東北支社はまだ設置されたばかりだった。大祐は『優秀な業績を修めていた』として経理部の中から選ばれ、東北支社の立ち上げメンバーの一員として仙台に遣わされたのである。嬉しいことには違いなかったのだけれど、代償として交響楽団の活動は退かねばならなかったし、瑠璃や娘の里緒にも相応の負担を強いてしまった。
そして今、結果論とはいえ、こうして東京に舞い戻ってきた自分がいる。……いや、“逃げ戻ってきた”とでも表現した方が、いっそ心情に則しているかもしれない。
「俺ら経理の間でも話題になってんだぞ。あのエリートがどうして無理を通してまで戻ってきやがったんだ、って」
「……そうか」
「いや、そりゃ人に話すのが憚られるような事情ってのもあるのかもしれねえけど。でも俺とは同期の仲だろ? ちょっとくらい近況報告とか……その、相談とかあってもよかったのによ」
「…………」
「それとも……」
「…………」
大祐は無言を貫いた。頑なな同僚の横顔に、しばらくして亮一が白っぽい吐息を吹き掛けた。いったん追求を諦めたらしい。
「……ま、掘り下げない方がいい話なら、俺もあんまり首を突っ込もうとすんのはやめるけどさ」
亮一は空のジョッキを指先でつついた。
「これでも友人のつもりだからな。気になるもんは気になるんだよ。分かるだろ」
「……ありがとう」
「そういや奥さんと娘さんは息災か」
安らぎかけた心をふたたび力強く揺り動かされ、反動で大祐はむせそうになった。どうもおかしい。今日の亮一は気味が悪くなるほど勘がいい。大祐の明かしたくない部分ばかりを、無自覚に、しかし的確に抉ってくる。
「……それも、あんまり話したくないネタってことかよ」
「すまん」
気にするなとばかりに亮一はうなずき、手元に寄せていた皿を大祐の方へ追いやる。数枚ほど残っていたつまみの笹かまぼこを、大祐は頭を空っぽにして口へ放り込んだ。薄く優しい塩味が、口いっぱいに広がって染みた。
二年前、高松家は『里緒へのいじめ』という重大な問題に直面し、大祐と瑠璃はその解決に奔走させられた。
だが、里緒は知らないはずだった。その裏で高松家が、もう一つの問題に直面していたことを。
発端は里緒へのいじめが始まってしばらくした頃のことだっただろうか。深夜、不審な物音に目覚めた大祐が覗いてみると、布団の中で瑠璃が声を圧し殺して泣いていたことがあった。理由を話してはもらえなかったが、普通の状態でないのは明らかだった。やがて、そんな光景に大祐は毎晩のように出くわすようになり、あまりに頻度が多かったものだから、心の落ち着くのを待って瑠璃を問い詰めた。それでようやく、事の次第を知った。
あろうことか瑠璃も、仲間内で村八分に遭い始めていたのである。
その実態はいわゆる“ママ友いじめ”、保護者間で生じる大人同士のいじめだったようだ。相手は里緒と同じ中学に通う子供たちの母親、父親。たびたび暴言を吐かれたり連絡を無視されたりしている様子だった。いつから始まったのか、なぜ始まったのか、瑠璃は『分からない』といって答えてはくれなかった。だが、状況が状況だけに、どう考えても里緒へのいじめが間接的に波及したものとしか考えられなかった。
いじめの渦中にいて苦しんでいる里緒に、このことは話せない。そんな瑠璃の希望もあって、二人は里緒にママ友いじめのことを隠蔽せざるを得なくなった。大祐は瑠璃を、瑠璃は里緒を気遣い、まだ大人になりきらない里緒への負担がもっとも少ないやり方で、すべてを解決に持ち込もうとしたのだ。
その結果、瑠璃は命を絶った。
里緒はついにいじめから逃れることができなかった。
二人のサポートのため、大祐の勤務は次第に疎かになっていった。ことに瑠璃が死去して以降、早退や欠勤が増え、山のように積み上がる考えごとに追われて仕事の能率も格段に落ちた。それが気に入らなかったのだろう。上司や同僚たちからの風当たりは徐々に強くなり、それはやがてパワーハラスメントに姿を変えていった。『やる気がないなら引っ込んでくれ』『そんなに家が恋しいか』──。心ない声に毎朝、毎夜、苛まれた。
瑠璃や大祐の受けた仕打ちのことは、里緒には今も話していない。明かす予定もなかった。
誰にも言えない。
言えるわけがない。
苦しかっただなんて、痛かっただなんて。……誰にも。
スクエアタワーの灯りは落ちる気配がない。窓の先に屹立する光の塔を、大祐は目を細めて眺めた。不夜城の姿は美しいが、素直に美しいと称える気にはなれなかった。あの冷たい光の中でどれほどの人が咽び泣いているのか、外の人間には分からないから。
「なぁ、新発田」
亮一が顔を上げた。両手の指を組んで、大祐はそこに口元を埋めた。
「訴訟の起こし方って知ってるか」
「お前、何を突然──」
「起こすことを考えてる」
隣の友人は声を失った。
「損害賠償請求ってやつなのかな。俺、大学も経済だったから法律の知識はちっともなくて、どんな準備をすればいいのかさっぱりなんだ」
亮一は文系私学の雄、弦巻大学の法学部を卒業して、ラックタイムスに入社している。茹で上がったタコのような頭を持ち上げ、捻り、亮一はしばらく時間を置いて呻いた。
「……洒落なら洒落って言ってくれよ」
「…………」
「ま、アレだな……。どんな内容の請求でもそうだけども、民事訴訟を起こすためにはまず、訴状ってのを用意しなきゃならねぇ。誰を相手に、どういう理由で、何を要求するのか、そういうのを書いて裁判所に提出するんだ。受理されたら裁判所と相談して口頭弁論の日取りを決めて、それから被告……つまり訴えられる側だな、そいつに訴状が届けられる」
「その訴状って、誰が書いても大丈夫なのか」
「大丈夫だけど、そういうのは専門家に頼んだ方がいいぞ。知識と経験の量が天と地ほど違う。餅は餅屋、訴訟は弁護士だ」
メモ帳を取り出し、亮一のアドバイスを残らず書き留めてゆく。実行に移す気はあった。弁護士に頼ることはあらかじめ覚悟の上で、それなりの資金も確保してあった。
忙しなく走るペン先を、亮一はジョッキを握ったまま黙って見つめていた。
その口から、不意に冷えきった声がぽとりと落ちて砕けた。
「裁判沙汰になるような問題があったんなら、もっと前に相談しろよな……」
まるで酒臭さの感じられない声だった。
向こうの方の宴会席から賑やかに歓声が上がって、二人の周囲に相対的な静けさをもたらす。半笑いを繕いそうになった口元を、大祐はそっと、引き締めた。
「……だけどあたしは、管弦楽部の活動の場をもっと広げたい。新しい世界に触れたいんだ」
▶▶▶次回 『C.031 参戦計画【Ⅰ】』