C.029 入部へ
東京芸術文化大学は、立川市内の北部に広大な本部キャンパスを持つ国立大学である。
愛称は“芸文”。学部には教育系と芸術系の二系統があり、その双方で国内有数の高度な教育を行っていることで知られる。中でも芸術教育においては、質、量ともに国内最高峰を誇る総合芸術大学と称され、こと音楽の分野に限っても、日本屈指の作曲家や奏者、指揮者を多数輩出。さらに自前の大規模な交響楽団や吹奏楽団を有している。D組担任の音楽教師・京士郎も、芸文大学音楽学部の器楽科が出身であると語っていた。
その芸文の附属高校として君臨するのが、国分寺市内にキャンパスを持つ“芸文附属”である。正式名称は、東京芸術文化大学附属中学高等学校。あまりにも長いので通称で呼ばれることが大半だが、教育・芸術分野における最高学府への最短進学ルートであることもあって受験倍率は非常に高く、絵画や音楽、書道、空間芸術や映像、演劇に至るまで、芸術を得意とする高校生たちが全国から集まってくる学校なのである。各種の推薦入試は当然のこと、厳しい試験を勝ち抜いてきた一般入試組の学力も非常に高く、高校受験の偏差値ランキングでは弦国のわずかに下に位置、芸術への強みを見せながら進学校の様相をも呈している。簡単に門戸を叩ける学校ではないのだ。
その才能の高さは部活動にも顕れ、吹奏楽部は目下のところ十年以上連続で吹奏楽コンクールの全国大会に出場。金賞を勝ち取る年も少なくなく、西東京エリアでは圧倒的と言えるほどの演奏完成度の高さを誇っている。吹奏楽を志すなら弦国より芸文附属──。地域の中学生たちがそう考えるのも、決して無理のない話なのであった。
打楽器の搬出作業を終えた管弦楽部は、ぞろぞろと列を為して西国分寺駅の改札を通った。あとは弦国に戻り、解散するばかりである。
プラットホームに立って次の電車を待ちながら、はじめは重たげに口を開いて事情を明かしてくれた。
──『悔しいけど、うちと芸文附属の吹奏楽部じゃ天と地ほどの腕の差がある。向こうもそこのところを自覚しているみたいで、毎年、うちの定演を見に来るわけ。下手な演奏の見本、悪い演奏の見本として参考にするために』
──『そんなことのためにですか? ひどい!』
──『仕方ないよ。うちは弱小だから。相応の努力は積んでるつもりだけど、向こうには天才も秀才もぞろぞろいる。下手くそって言われたら返す言葉がない』
──『だとしたって、やっていいことと悪いことがありますよっ』
怒り心頭に発する花音の横で、紅良は唇を真一文字に結んだままホームの床に目を落としていた。以前、彼女が弦国の管弦楽部をして『そんなにレベルが高くない』と評していたのを思い出しながら、里緒も同じように黙って足元を見つめた。今は何となく、先輩たちを直視するのがためらわれた。
実力不足の楽団が下手であることを指摘されるのは当然であって、そこに憤っても意味はないのかもしれない。けれども、不純な動機で投下された批評や批判は、その瞬間に越えてはならない一線を踏み越えて、“悪意”へと姿を変える。
(来年になれば、私もあの人たちに、心ない言葉をかけられることになるのかもしれないんだ)
もしもそうなったとして、私、耐えられないんじゃないか──。悪寒は汗になって背中を滑り降りた。
早々と気持ちを切り替えたのか、菊乃たちは小突き合いながら長閑に笑っている。その背中が里緒には遠く、小さく見えた。里緒は感情の切り替えが苦手だ。いつまでも些細な小言や文句を引きずってしまう。ましてや、この痩身にたったひとつ残された長所であるクラリネット吹奏の品質を、頭から否定する言葉など。
この脆くて弱い心では到底、受け止められない。
(どうしよう……。今さら、言えないよ)
やっぱり自分は人前での演奏には向いていないかもしれない、怖い──だなんて。
いちど首をもたげた不安は時間を経るごとに大きくなり、ついに弦国に着くまで先輩たちの顔を正視することができなかった。
しかし引き下がる道はあっという間に絶たれてしまった。
翌日になっても激情が収まらなかったのか、朝一番に肩を怒らせながら里緒の席まで押し掛けてきた花音は、記入済みの入部届けをどんと机に叩き付けたのである。
表題は【管弦楽部入部届】。定演の翌日から入部届けの受理が始まっているので、今日、これを提出すれば、管弦楽部への入部を果たすことができる。
「あ……青柳さん?」
「私、入る」
花音の声は普段のそれからは考えられないほどに低かった。
「昨日みたいなこと、二度と繰り返させたくない。入って、あのクレームセーラーより何倍も何倍も上手くなって、今度は私たちが見返してやるんだから。ね、里緒ちゃんも一緒に入ろう」
またしても不穏当なあだ名が発明されている。一瞬ばかり顔をしかめそうになった里緒だったが、しかし今はそんなことに構っていられる場合ではなかった。
これまでのように部に遊びに行くことへの誘いとは訳が違う。里緒はまさに、今後の高校生活を左右する重大な岐路に立たされている。
「わ、私は……。まだ……」
腹を据えかねているとはとても言えず、里緒は口ごもってしまった。
里緒の葛藤の原因を知ってか知らずか、花音は机に手をついて里緒を説得にかかった。その手には白紙の入部届けが、もう一枚。里緒のためのものか。
「里緒ちゃんは心配なんてすることないよ、入ろうよ。里緒ちゃんのクラリネットは芸文附属なんかよりずっと、ずーっと上手いんだもん! 他の誰が知らなくても私は知ってる。管弦楽部の先輩たちだって知ってるよ!」
「……だけど」
「里緒ちゃんが入部するの、先輩たちはずっと待ってくれてるんだよ」
だめ押しの台詞を突きつけられ、里緒はついに反論の言葉をひとつ残らず奪われた。
分かってはいるのだ。昨日、あれだけの暴言を食らっても菊乃たちが笑顔でい続けたのは、怒って飛びかかったりしなかったのは、きっと目の前に一年生たちがいたから。未来の部を任せることになるかもしれない大切な下級生に、無様な醜態を晒すわけにはいかなかったからなのである。
菊乃はそんなことを一言も口にしなかったけれど、きっと。
「里緒ちゃんが見学に行ってクラリネット吹くたび、先輩たち嬉しそうにしてたもん。期待してなかったらそんなことしないよ。……里緒ちゃんなら、大丈夫だよ。一緒に管弦楽部、入ろう」
花音の選んだ言葉は力強い。優柔不断な心を根幹から揺さぶられ、不安定になった視界を里緒はつい下に向けてしまった。机の横のフックに引っ掛けたクラリネットのケースが、否応なしに目に入った。
持ち主ひとりを置き去りにして、凄まじい勢いで名声を高めてしまった里緒のクラリネット。
それは里緒が望んだ展開ではなかったかもしれない。けれども今、ここで管弦楽部に背を向けてしまえば、さらに望まない展開が待ち受けているのかもしれない。得体の知れない未来の方が里緒には恐ろしかった。
「里緒ちゃんと私なら、できないことなんてないと思う」
花音がいつもの大声に戻っていく。
「あのクレームセーラーなんかに負けないくらいの演奏、見せてやろうよ!」
「……うん」
ようやっと里緒は首を縦に振ることができた。やった! ──目を輝かせた花音から、白紙のままの入部届けを受け取った。記名欄に自分の名前と学年、クラス、出席番号を記入してゆく。
息が荒くなった。とてつもなく大きな決断を下したことを、身体が、心が、悟ったのだと思った。
「放課後、出しに行こうね」
すっかり憤怒の色を拭い去ってしまった花音の表情は晴れやかで、眩しいほどに明るくて、後ろめたい思いがして直視するのをためらってしまったくらいだった。わずかに逸らした視線の先に紅良が見当たった。二人のやり取りなど少しも耳に入っていないかのように文庫本を読みふける紅良の背中に、その時、ひそかな既視感が弾けて散った。
放課後、花音は勇んで音楽室へ向かい、一番乗りで入部届けを提出した。その背中に隠れてこっそりと届けを差し出した里緒を、管弦楽部の部員たちはとびきりの笑顔で迎え入れてくれた。
「ばんざーい!」
「よかったよかった!」
「これで未来の管弦楽部は安泰だ!」
ことに菊乃たち二年女子勢の喜びようは生半可ではなく、たちまち里緒は彼女たちにわいわいと取り囲まれ、祭り上げられてしまった。今度お菓子パーティーやろう、近所に美味しいスイーツ店あるんだよ、もう何でもおごっちゃうから──。もはや音楽とは何の関係もない提案を笑顔で並べ立てるあたりに、上級生たちの喜びようは容易に読み取ることができた。
畏れ多くて肩を縮こまらせるばかりの里緒には、すぐ隣でやけに誇らしげにしている花音の笑顔ばかりが目立って見えた。美琴の顔は囲みの外側にあって、人垣のせいでちっとも見えなかった。
届けを出してよかった。私の選択を喜んでくれた人がこんなにいる。私がここにいることを、たくさんの人が認めてくれている。
私は、ここにいてもいいんだ。
──なんとも言い得ぬ脱力感と火照りの中で、ただ、そんな思いばかりに溺れていたような気がする。
結局、この日だけで里緒や花音を含めた七人の一年生が入部届けを提出。
紆余曲折を経ながらも里緒は晴れて、弦国管弦楽部の一員という居場所を手に入れたのだった。
「……ま、掘り下げない方がいい話なら、俺もあんまり首を突っ込もうとすんのはやめるけどさ」
▶▶▶次回 『C.030 同僚の背中』