C.028 部員たちの笑顔
菊乃の顔は隅々まで輝いていた。
「いやー、なんかすごくやりきった感じがする! 楽しかった!」
「生き生きとしてますね、先輩!」
「当たり前でしょー! 大切で大事な後輩ちゃんたちが見に来てくれたんだからさー!」
はしゃぐ花音を前に、菊乃も悶えるように身をよじった。手にフルートを握ってさえいなかったら、そのまま花音を抱きしめて頬擦りでもしそうな勢いである。背後の美琴が呆れ気味にクラリネットをいじっている。その真一文字に結ばれた口の端も、普段よりは少しばかり持ち上がって見えた。
アンコールを含めたすべての演目がつつがなく終了し、弦国管弦楽部の春季定期演奏会は成功のうちに退場の扉を開放した。外はまだ、十二時の山を越えて午後に入ったばかり。青空から舞い降りてきた穏やかな暖気の漂うホール前のロビーでは、楽器を手にした部員たちが見送りのあいさつをしていて、三人は出口の近くで待ち受けていた菊乃たちに呼び止められたのだった。
ヴィオラ二年の春日恵が、ずいと里緒に向かって首を伸ばした。
「ねね、管楽もいいけどわたしたち弦楽はー?」
「と、とってもよかったと思います……」
「やった!」
「高松ちゃんのお墨付きもらった!」
「金管だって頑張ってたでしょ? トロンボーンどうだった?」
引き気味に答えるや、たちまち二年の女子部員たちはいっせいに黄色い声で湧き上がる。里緒の前では先輩の威厳など少しも感じられない。この能天気な人々があれだけの演奏を作り上げていたのだと思うと、里緒の胸の中は何とも言えない甘めの空気で満たされた。
いずれにしても、先輩たちが演奏会の成功を心から喜んでいるのは明白だった。怯んで縮んだ肩が戻ってゆくのを感じながら、ほっ、と里緒は胸を撫で下ろした。
「私も! 私もとってもよかったと思いました!」
「ほんとっ? いやぁもう、嬉しいなぁ」
わざわざ進言しに行った花音を、ついにフルートごと腕の中に抱え込んで撫で回し始めた菊乃は、そこでようやく気づいたように紅良にも声をかけた。
「あれ、見ない顔の子だ。きみも一年?」
「そこの人と高松さんの知り合いです」
愛想笑いを浮かべることもなく紅良は答えた。そこの人呼ばわりされた花音が、思いっきり舌を出した。
「ほんと! じゃあ──」
「入部は考えていないんですが、せっかくの機会だと思って」
「そっか、考えてないんだ……。どうだった?」
「聴きに来てよかったと思います」
「それならいいんだ! 楽しんでもらえたなら何よりだもんね」
一瞬、落胆の顔付きになった菊乃だったが、続く返答ですぐに瞳を輝かせた。この切り替えの早さは里緒には真似できそうもない。強い人だ、と思う。
春季定演は管弦楽部最大の新歓イベントでもある。勧誘を担う二年生の部員たちが新入部員獲得に躍起になるのは、致し方のないことなのだ。
むしろ、菊乃の後ろで黙って退場する観客を見送っている美琴の方が、今の里緒にはどうにも気がかりで仕方ない。里緒が音楽室にいる間、あるいは練習を見学している間、美琴が仏頂面でなかったことは一度もない。あれで平常運転だというのなら構わないのだけれど。
「いや、本当、さ」
もがきはじめた花音をやっと胸から引き離し、フルートを抱えた菊乃はホールの方を仰ぎ見た。
興奮の笑みはようやく口元から流れ去っていた。だが、ほのかに赤らんだ左の頬は、フルート越しに抱きしめられた菊乃の心情のカタチを雄弁に語ってくれていた。
「管弦楽部の演奏の機会って少ないからさ。部の全員が確実に揃う機会なんか、それこそ定演と文化祭くらいのもんだし……。だからやっぱ、ここできっちりいい音を刻めたって思えると格別に嬉しいんだよね」
それは菊乃のみならず、彼女の代表する二年生部員たちの総意なのだろう。恵が真っ先にうなずいて賛意を示した。居並ぶトロンボーンが、ファゴットが、ホルンが、アルトサックスが、そしてクラリネットを握りしめたままの美琴も、うなずいた。
「頑張ってよかったって思うよね」
「定演に比べりゃ入学式の練習なんかぶっちゃけ手抜きだったしな。『そんなものより定演が大事でしょ!』」
「ちょっとやめてよ今の! 部長に似すぎ!」
「お前また土下座させられるぞ!」
どっと声が上がった。賑やかに笑い合う上級生たちの姿は眩しくて、羨ましくて、急に胸が締め付けられて、里緒は目を逸らしてしまいたくなった。中学の吹奏楽部にいた頃、こんな景色を見たことはなかった。自分には縁のないものと思ってきた。
何気ないことで笑い合い、けれどきちんと互いを尊重できる。
壁のようにそびえた目標を、手を取り合って攻略できる。
そうだ。ずっと、ずっと、こんな“仲間”を求め続けていた。
「このあと暇?」
ひとしきり笑った菊乃が首を傾げた。
「あたしたち、ぱぱっと後片付け終わらせるからさ。一緒に学校まで戻ろうよ。ちょうどお昼時だし!」
「アイスでも何でもおごっちゃうよー」
恵が付け加えた。すかさず「恵が食べたいだけでしょ」と直央が茶化して、含みのない笑みがあたりに弾けた。見ると、もう一方の出入り口のところでも、ほかの一年生が三年部員たちに捕まって同じ文句で口説かれている。
里緒は花音や紅良と顔を見合わせた。なんとなく様子を窺ってしまったが、断る理由は特に思いつかなかった。
「わ、私は……大丈夫だけど」
「私も大丈夫」
「はいはい! 私もー!」
全会一致で決まりのようだ。相も変わらず、うんともすんとも口を利かない美琴の顔を気にかけつつ、里緒は菊乃に向かい合って『お願いします』と答えようとした。
その時である。
弦国のものではないセーラーの制服を着た数人の少女たちが、騒々しくしゃべりながら出口に姿を現したのは。
「ね、だから言ったでしょ? 弦国のは手本になるんだって」
「悪い手本だったけどね」
「まあまあ、去年の文化祭の時よりマシだったっしょ」
「見た? あのトロンボーン、音がちっとも安定してなかったの! 練習不足すぎない?」
「ホルンもひどかったよなー。何て言うか、雑だった。あちこち音が走ってた感じ」
「しかも誰も指揮のこと見てなかったしね。あの指揮者、なんのためにいたのーってくらい」
里緒たちや保護者が出口の周りにたむろしていたせいか、彼女たちはそこに管弦楽部員が並んでいることにも気づかなかったようだった。セーラー服の集団は軽やかに笑いながらロビーを出てゆき、引きずられるようにしてロビーの賑わいも消え失せた。
「──芸文附属のセーラーだったね」
錆び付いた恵の声がいやに反響した。
菊乃はまだ、その面に笑顔を貼り付けたまま、微動だにしないで立っている。
「あ、あの、今のなんか気にしないでもいいと思いますっ」
花音が焦ったように口を開いた。
こういう時、花音のように発言する勇気を発揮できる人というのは本当に少ない。干からびた喉に手を当て、とりなす声を何もかけられなかった自分を里緒は呪ったが、菊乃は静かに答えただけだった。
「大丈夫。……気にしてないよ」
不気味なほどの笑顔のまま。
「私は、ここにいてもいいんだ」
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