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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う
30/231

C.027 定期演奏会






「自分の値打ちを下げてはいけない。

それが特に大切なポイントだ。

さもないと君は終わりだ。

もっとも生意気な人間に絶好のチャンスがある。」

"One must not make oneself cheap here –

that is a cardinal point –

or else one is done.

Whoever is most impertinent has the best chance."





挿絵(By みてみん)

 




 四月二十日、土曜日。

 心地よく晴れ渡った朝だった。

 西国分寺の街には午前の陽光がさんさんと差し込み、駅前広場に面して立つレンガ造り風の建物を明るい色に染め上げていた。その名も『国分寺市立陽だまり文化会館』。大きな三角屋根の目立つ、音楽堂や会議室・練習室などを備えた公共文化施設である。

 午前十一時、三百七十人分の客席を有するAホールで、いよいよ弦国管弦楽部の春季定期演奏会が幕を開ける手はずになっていた。




 駅前には高校生たちが集まり始めていた。何でも、甲子園での応援演奏への返礼の意味も込めて、野球部員たちが揃って鑑賞に来ているのだという。落とさないようにと肩掛けカバンの(ひも)を握りしめ、どうにか改札口を抜けて人混みを脱した里緒は、濁流をなす人波の中に馴染みの顔を探した。

 先に着いていた花音と紅良が、南口の軒下で里緒を待っているのが見えた。華やかな色合いで揃えた軽めの私服をまとい、きょろきょろと周囲を見回していた花音は、里緒を認めるなり「やっほー!」と叫んでくれた。


「よかった……。見つからないかと思った……」


 駆け寄りながら里緒は安堵の息を漏らした。東京の人の多さには慣れていないのだ。

 花音あたりが言葉を返してくれるかと思ったが、二人の口は何も反応しない。乱れた息を整えてクラスメート二人を見やった里緒は、そこで初めて、彼女たちの目が物珍しげに丸くなっているのを気づかされた。

 紅良が控えめの声色で尋ねてきた。


「……その、ずいぶん黒々とした服装ね」

「そ、そうかな。あんまり意識はしてなかったんだけど……」


 里緒は(ども)ってしまった。言われてみると、ダークグレーのパーカーに黒のプリーツスカート、黒タイツ、しまいには靴下やスニーカーやカバンまでもが灰色や黒。ただでさえ髪の色も黒いので、今日の里緒は頭のてっぺんから爪先まで暗いモノトーンの色調に沈んでいる。

 しかし里緒の持っている私服の色なんて、どれもこんなものだった。


「そのまま忍者になれそう」


 花音がつぶやき、紅良も続いた。


「そしたら青柳さんに『ニンちゃん』とか名付けられそうね」

「そんな子どもっぽいの付けないしっ!」

「“イチャモンロング”だって十分に子どもっぽかったでしょ」


 花音が猫だったらきっと毛を逆立てているだろう。鼻息を荒げる花音をぼんやりと眺めながら、里緒はしみじみと『忍者』で済んだことを喜んだ。

 中学の頃は黒すぎる私服や趣向のせいで『()松』とあだ名され、いじめられるたびにしつこく呼び立てられたものだった。

 それでも里緒は、あの頃から黒っぽい服装を手放すことができていない。これだけ地味な服を着てさえいれば、少なくとも目立たないで生きていられるから。それこそ忍びのように、黒衣(くろこ)のように、ひっそりと世間の壁際を渡ってゆけるから。──ひとたび目立てば(うと)まれ、嫌われ、いじめられてしまうから。


「その……、西元さんはすごく私服、大人っぽいね」


 まだ花音との小競(こぜ)り合いに興じていた紅良に、恐る恐る里緒は声をかけた。

 紅良はにこりともせずに「そう?」と応じた。すらりと長い足にフィットしたスキニージーンズにジャケットを合わせ、肩掛けのカバンはお洒落な革製。ファッションに疎い里緒でも一目でそれと分かる、クールで大人びたコーディネート。


「普段から私服はこんなもんよ。そんなにこだわったつもりもないし」


 特に嬉しそうな顔もせずに答えたあたり、こだわらずに選んだ服装というのは事実のようだった。花音が隣で朗らかに笑った。


「私もいつもの格好で来ちゃったー。演奏会向けの服装なんて分かんないし!」


 かく(のたま)う花音の格好といえば、里緒のそれよりも遥かに華やかに彩られたパーカーと、下は丈の短いショートパンツ。端的に言って可愛らしい格好である。紅良のそれと比べればセンスが幼いのかもしれないが、いずれにせよ、地味志向の里緒にはとても着られた代物ではない。


「里緒ちゃんはもっと元気で楽しげな服着ても似合うと思うけどなぁ。オーバーオールとか」

「青柳さんの審美眼もたいがい適当よね」

「あっ? またバカにしたな!?」


 花音はすっかり紅良のペースに釣られて立腹している。その姿を尻目に、里緒は広場の向こうに建つホールの三角屋根を見つめた。

 開場まで、あと少し。十六歳の自分ではどう着飾っても追い抜くことのできない、遥か彼方で部を引っ張る“先輩”たちの一世一代の晴れ舞台が、あの扉の先で間もなく始まろうとしている。

 そう思うと、ひときわ胸が高鳴った。






 ◆






 曲目は全部で七。既存の楽譜をそのまま流用したものもあれば、編曲の勉強をしている菊乃たちが今度のために新たに仕立てた楽譜もあるらしい。菊乃は部の楽譜管理係(ライブラリアン)も務めていて、選曲にも彼女たちの趣向がしっかり反映されるのだと聞いていた。

 会場の座席の三分の二ほどが埋まったところで、開演時間がやって来た。部長、副部長、クラリネットの美琴、フルートの菊乃……。見知った顔の先輩たちが続々とステージに上がり、やがて管弦楽部の全員が姿を現した。司会進行を務めるのは部長の大津はじめ。手には、マイクと指揮棒とを握っていた。


()()()()サックスじゃないんだね」


 花音が押し殺した声で尋ねてきた。


「指揮って先生がするんじゃないの?」

「えっと、生徒がやることもあるの。学指揮って言うんだけど」


 (ささや)くと、納得の顔をして花音は席に戻る。(まぶ)しいスポットライトの照らす下に座る管弦楽部の部員たちは、果たしてこちらの姿を窺うことができるのだろうか。真っ黒な服に身を包んだ自分のことはせめて見えていないのを願って、はじめの司会進行に耳を傾けた。

『演奏に触れて、顔を見て、それから入部の是非を論じることにする』──。事前にそう宣言していた通り、紅良は終始、里緒の隣の席から落ち着いた眼差しをステージに注いでいた。対照的に花音はパンフレットに熱心に目を通しながら里緒にも繰り返し話しかけ、そのたびに里緒は曲目や楽器についての解説をさせられた。

 はじめの指揮棒が宙を踊る。虚空に刻まれ、示されたリズムに合わせて、サックスやトランペットが高らかに音を吹き上げる。ティンパニの描き出す規則正しい大地の震動の上を、風のように駆け抜ける弦楽器の叫び。低く唸るようなホルンの(うたい)。金色に煌めくユーフォニアムやチューバの力強いサウンド。爽やかで明るい音色を添えるフルートの啼声。そして、わずか二本ながらも編成の中心に立つクラリネットの、美しく、(うるわ)しい響きの主旋律(メロディ)

 奏者は美琴のほかにも三年の岩倉(いわくら)という先輩がいた。大学受験を控え、間もなく姿を消してしまう人だと聞かされていた。手元のキイには関心もくれず、据えられた譜面台にのみ眈々(たんたん)と注がれる視線。時おり閉じては開かれる長い睫毛(まつげ)の下で、細く締まった二つの瞳が爛々と燃えているのが見てとれた。

 嫌な顔一つせずに里緒たちを迎え入れ、いつも楽しそうに絡んでくれる、菊乃。

 困ったことや分からないことは何でも教えてくれるが、普段は寡黙で冷静に部員をまとめ上げる、部長。

 里緒が少しクラリネットを吹いただけであんなに驚き、夢中になって近寄ってきた管弦楽部の先輩たちが、今はすべての神経を指や唇の先に集中させ、真剣そのものの表情で音楽と向かい合っている。


(かっこいい)


 惚れ惚れとする思いで、里緒は楽器を取り回す二十人の部員たちを眺めた。曲を素直に楽しむための耳と、個々の楽器の音色に澄ませるための耳とが、別々に欲しいほどだった。

 かっこいい。


(いつか私も、誰かにかっこいいって思ってもらえる日が来るのかな)


 スポットライトの白色光の下で輝く舞台に、まだ見ぬ未来の自分の姿を重ね合わせてみた。そこに映る未来の里緒は澄ました顔で大人びていて、落ち着いていて、現在(いま)の自分のように臆病でも悲観的でもなくて──。太ももに押し付けた手のひらが、気づけば痛いほどに食い込んでいた。

 里緒には曲の善し悪しは分からない。たった一年しか在籍していなかったとは言え、これでも吹奏楽の経験者なのに、いまだにクラシック音楽の価値のひとつも知り得ない。音色の善し悪しだって分からない。何となく傾けていた耳が(こころよ)い律動に反応することはあっても、それを素敵だと思う理由は説明できないのだ。

 何も知らない、分からない、そんな状態でも誰かの感情を思いのままに盛り上げることができるのが芸術というものの真価だと思う。つい先日、里緒は自分の手の中でそれを証明してしまった。自分のクラリネットから放った何気のない音で、思いがけず多くの聴衆の心を射止めてしまった。


(あの舞台に立てば、もっと、もっと)


 身を乗り出しそうになって、紅良からの静かな視線を感じて慌てて元の位置に戻った。──あの晴れ舞台(ステージ)に上る資格を得るためには、まだ、技量が足りない。より良い演奏の追求が足りない。精神力も足りなければ威厳も足りない。

 指揮棒が空を切り、演奏が終わった。下ろした指揮棒を腹の前に添え、はじめが客席を振り向く。たちまち拍手が客席に(うず)を巻いた。里緒も負けじと手を叩いた。


 ──『ただいまの演奏は、真島(まじま)俊夫(としお)編曲〈ユーミン・ポートレート〉でした。続いての曲はアメリカのジャズピアニスト、ボビー・トゥループにより作詞作曲された〈ルート66〉。かつてアメリカ大陸の東西を横断し、アメリカ西部の発展に大きく寄与、さまざまな沿線文化を生んだことで親しまれた旧国道66号線の情景を描いた一曲です。どうぞ、お聴きください』


 〈ユーミン・ポートレート〉は吹奏楽曲、〈ルート66〉はジャズが原曲である。はじめが口上を述べる間に、背後では部員たちが手早く楽器の持ち替えや楽譜の用意を済ませる。おもむろにクラリネットを放り出した美琴がグランドピアノの前に腰掛けるのを見て、彼女がピアノも弾けることを里緒たちは初めて知らされた。

 一瞬で吹奏楽風の編成からジャズバンド風に転換し、何事もなかったかのように演奏を繰り広げるさまは見事としか言いようがない。それもそのはずである。入学式からの十日間、管弦楽部はこの日のために時間を(なげう)ち、入念に準備と練習を進めてきたのだから。

 どんなに辞書を漁ろうとも、この感慨はやはり五文字のひらがなでしか表せそうにない。

 里緒は座席の下で拳を握った。

 じわり、皮膚に薄くにじんでいた汗が、キイの上では決して滑ることのない里緒の指をわずかに滑らせた。








「大丈夫。……気にしてないよ」


▶▶▶次回 『C.028 部員たちの笑顔』

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