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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.002 新たな世界

 




 私立弦巻学園国分寺高等学校、略して“弦国”は、都内屈指の名門私立大学・弦巻大学の係属校のひとつであった。生徒の八割方がエスカレーター式に弦巻大学へ進学できることから、進学校としての評判は地域でも指折りの高さを誇っているのだという。

 東京都心の大動脈・中央線の沿線に立地するという良好な通学条件など、弦国の受験倍率を押し上げる要因は他にも多岐にわたっている。国内では珍しい男女併学制、つまり男子部と女子部で別々のクラスに分かれた教育が行われているのも大きな特徴で、近年は野球部が夏の甲子園全国大会の常連となりつつあるなど、運動部を中心に部活動が盛んなことでも知られていた。

 各学年の生徒数は男子二百人、女子百五十人。今日、その百五十人のうちの一員として、里緒は『弦国生』の仲間入りを果たす。

 国分寺の街には馴染(なじ)みがなかった。受験のために訪れたのが初めてで、その折には駅前を行き()う学生の多さに驚かされたものだった。国分寺駅の周辺には他にも大きな中学や高校、大学が揃っていて、それゆえに朝夕の駅前は混雑するのだ。

 隙間なく建物の並ぶ景色ではあるものの、ここは東京都心の西に広がる郊外。校庭の横を走る中央線の電車のほかに騒音源はなく、敷地にゆとりがあるせいか校舎も広々としている。しかも校舎全体がまだ建てられたばかりで、経年劣化の汚れや傷はほとんど見当たらない。学舎(まなびや)としての環境に文句の付け所はなかった。


(ここでなら、やり直せるかもしれない)


 そう思った。何の根拠もない確信だったが、事実、その確信を糧にして里緒は難関の入試を突破し、こうして弦国の門戸を叩いている。私立であるからにはそれなりの額の学費がかかるのを承知ながら、父の大祐(だいすけ)も進学に同意してくれた。

 弦国での日々は“やり直し”の日々。

 今日はその覚悟だけを胸に、ここまでやって来ていた。






 入学式が終わり、会場の講堂を出ても、転んで負った足の痛みはいっこうに癒えてこなかった。不格好に足を引きずりつつ、里緒は他の一年生たちにまみれながら自分の教室を目指した。

 見渡す限り女子、女子、女子。男子の教室は別の棟に収められていると聞いた。


(……周りが同じ性別ばっかりっていうのも、落ち着かないな)


 目線を上げては下げ、上げては下げ、その挙動を幾度となく繰り返しながら、里緒は吐息を漏らした。男子は何となく、怖い。共学から別学に変われば気持ちの楽になる部分もあるかと思ったが、同性だけの空間というのも案外、何があるのか分からない恐ろしさがあると思った。

 知り合い同士なのだろうか。追い越し気味に横を歩いてゆく二人の生徒が、さっそく仲良さげに会話に興じていた。


緋菜(ひな)はやっぱ吹部に行くの? ほら、中学でもなんか楽器やってたじゃん」

「まだ決めてないんだよね。弦国(ここ)って吹部はないみたいだし」

「えっ。じゃ、式の中で校歌演奏してたのはどこなわけ?」

「管弦楽部だって。式次第に書いてあったよ」

「へぇー。そのカンゲンガク部、緋菜の楽器も使えんのかな」

「んー、どうなんだろう。管弦楽ってオーケストラのことだから、たぶんファゴットにも居場所はあると思うんだけど……」


 そこまで話したところで二人は廊下を曲がり、ここだね、と教室に入っていってしまった。A組の生徒たちのようだった。里緒のクラス──D組の教室は、もう少し廊下を進んだ先に配置されていた。

 里緒は入学式のことを思い返していた。式の冒頭、新入生の入場してくる場面と、全員が起立して校歌を斉唱する場面。人が多くて前の方はよく見えなかったが、楽器のような光沢のある器具が時おり黒山の向こうに見え隠れしていたのを覚えている。曲目は何だっただろうか。確か、ペットボトル飲料のテレビCMで流れていたものと同じ旋律(メロディ)だったような。


(吹奏楽部、ないんだ。こんなに大きな学校なのに)


 きっと先刻の二人と同じものであろう疑問を、蹴り出した足の先に転がしてみる。

 中学校には吹奏楽部があったし、どの高校にも当たり前にあるものと思っていた。かく言う里緒も、少しの間だけ所属していたことがある。担当楽器はクラリネットだった。今でも吹く能力はあって、家に帰れば自前のクラリネットが転がっている。

 足元ばかりを目で追うのをやめて顔を上げると、廊下を満たすざわめきや雑踏の中に、ふと、入学式で流れていた校歌の音色がよみがえった。思い返せば校歌や入場曲の旋律の中に、ヴァイオリンやチェロのような弦楽器の音色が混じっていた。()()楽部ではなく、()()楽部。弦楽器が加わっただけだと思えばいいのだろうか。

 吹奏楽部で活動していた時間は短かったから、同い年の人と比べて演奏の経験も浅い。だから、どういう演奏が上手いだとか下手だとか、そういう技術レベルの事情は里緒にはあまり分からなかった。けれども。


(なんかわくわくするな)


 そんな、小学生でも思い付く程度の感慨が、里緒の口の端を少しだけ持ち上げた。






「担任の須磨(すま)京士郎(きょうしろう)だ。二十九歳、独身」


 教壇に立った高身長の男性は、長い髪をさらりと掻き上げながら簡潔に自己紹介した。

 思いの外、端正な顔立ちの持ち主だった。“独身”と聞きつけた途端、周囲の席から密かに感嘆の息が漏れ聞こえ、何もしなかった里緒はいささか居心地が悪くなった。みんなはいったい、彼に何を期待しているのだろう。

 反応を楽しむように目を閉じ、そして開いた京士郎は、振り返って黒板に自分の名前を大書した。こちらは思いの(ほか)、乱雑で読みにくかった。かと思うと彼はふたたび教室を見回して、自己紹介の続きに入った。


「専門教科は音楽だ。──ああ、ちなみにだが本校の芸術科目は中学校までとは違って、音楽・美術・工芸・書道の四つから好きなものをひとつ履修する自由選択制だ。本当はこのクラス全員を音楽の授業へと引き込みたいところなのだが、残念ながら実際に履修してくれるのはこの中の三分の一程度であろうから新一年D組の諸君とは基本的には今のようなホームルームの時にしか会うことはないだろうと思う。ところで言い忘れたが出身は東京芸術文化大学音楽学部器楽科でピアノを専攻しており在学中には……」


 前言撤回、簡潔どころではない自己紹介の始まりであった。

 外見は整っていても中身は変わり者のようだ。残念な真相に徐々に生徒たちも気づいたのか、初対面にしてさっそく教室内の空気は白け始めたが、当の京士郎は少しも意に介することなく、ぺらぺらと滑らかに言葉を繋いでゆく。まるで口から先に産まれたかのような饒舌っぷりに、しかしそのとき、里緒は(ひそ)やかな感動を覚えてもいた。──こんな“普通ではない”教師がいるのが、いてもいいのが、私立の高等学校という空間なのだ。

 同じ教科担任制であっても、中学校の恩師たちにはまるっきりいい思い出がなかった。全員そうだったとまでは言わないが、何から何まで教科書通り、マニュアル通りにやらせようとして、思い通りにならないのを生徒に責任転嫁したがるのがもっぱらだった。この国の文化では、出る杭は何であれ打たれる運命にある。たとえ学業以外の事柄に()いても、それは同じこと。

 今更ながらに板書の字体が気に食わなくなったのか、京士郎は黒板消しを手に書き直しに掛かっている。その背中を見つめながら、里緒は柔らかに暖かくなった胸の奥でそっと息をして、思った。


(あの先生の音楽なら、取ってみてもいいかな)


 同じことを考えている生徒がD組の中に何人いるのかは定かではなかった。


 結局、生徒たちの熱くも冷えた視線を矢のように浴びながら、京士郎は数回にわたって板書の名前を書き直した。健康調査票や使用教材の一覧など、配布資料を適当に配って回った京士郎は、「さて」と手を叩いて教室の空気を切り替えにかかった。


「僕ばかりが自己紹介してもつまらないからな。まだ顔と名前も一致しないし、今度は君たち生徒に自己紹介をしてもらいたい」







「……く、クラリネットとか、吹くことです……」


▶▶▶次回 『C.003 自己紹介』

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