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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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Interlude ──〈共音〉

 






 ──だだっ広いテーブルの上には、顔写真の入った黒い額縁がひとつ、一抱えほどの立方体の箱がひとつ、無造作に置かれていた。

 写真の(ひと)は微笑んで見えた。いつごろ撮影された写真なのかは知らない。こんなにも晴れやかな、優しい、柔らかな顔付きを、この半年間で目にしたためしは一度もなかった。少なくとも仙台(こちら)に来てから撮られたものではないのだろう。

 ああ。

 タバコの臭いとは違う、つんと鼻の奥に薫る煙の匂いがする。

『里緒の身体にもよくないでしょっ』。──いつもそんな言葉でタバコをくわえる大祐を(いさ)めていた、かけがえのない大切な母は、とうとうこうして一陣の煙と化し、眼前のちっぽけな箱の中に閉じ込められてしまった。




 高松瑠璃の自殺から一週間。

 今日、ようやく葬儀のすべてを()り行うことができ、血の巡りの失われた瑠璃の身体は灰となって、遺された二人のもとに戻ってきた。

 参列者は里緒と大祐の二人だけ。息を殺したように静まり返った、鎮魂と葬送の二日間であった。


 里緒、と名前を呼ぶ声がした。抱え込んだ膝から顔を上げると、まだ喪服に身を包んだままの大祐の姿がそこにあった。


「何か飲むか」

「……いい」

「式が終わってから何も飲んでないだろ」

「…………いい」


 答えた声はかすれきっていた。回した手をぎゅうと握りしめ、里緒はうつむいた。ものを口に含みたい気分ではなかった。

 大祐が無言で傍らに湯呑みを置いた。腰まで伸びた長い髪の向こうで、壁の時計が定時を(しら)せている音がした。もう、夜の九時。昼間の告別式と火葬から、ずいぶん時間が経ってしまった。


「パジャマ、持ってくるか」


 尋ねる言葉が優しかった。けれども里緒は首を振った。

 葬儀には中学の制服で出席した。いつまでも制服のままでいてはいけないのは分かっているけれど、いま、この真っ黒な服を脱いでしまえば最後、今日の悲しみも苦しみも二度と思い出せなくなってしまいそうで、それが怖くてたまらなかったのだ。

 瑠璃のいない明日からの日々の中で、この数日間で失った以上のものを失うことがあるだなんて思いたくないし、信じたくなかった。

 瑠璃の死は、それほどまでに膨大な喪失だった。


「…………ぅ」


 また、涙が込み上げてきた。漆黒の袖を目尻に押し当てて、吹き出した嗚咽を必死にこらえる。この半日だけで何度、その動作を繰り返したことだろう。おかげで目元はすっかり腫れ上がり、手を(あて)がうたびに鋭い痛みを放つようになってしまった。

 説得は諦めたらしい。隣にしゃがみ込んだ大祐が、震える里緒の肩にそっと手を置いた。


「分かった。服はそのままでいい。里緒はもう、寝ろ。明日の学校のことは気にするな」

「……お母さんは?」

「父さんが置き場所を整えておく。墓を探す時間なんてなかったからな」

「お墓、見つかったら」

「お(こつ)は墓に移すよ。その方が、家より安心だろう」

「…………やだ」


 その時、思ってもみなかった一言が、里緒の口を飛び出して床に転がった。その行方を呆然と目で追うと、遅れて燃え上がった冷たい感情が、里緒の身体を瞬く間に包み込んで焼き焦がし始めた。

 いやだ。

 この家から出ていっちゃうなんてイヤだ。

 この手で触れることのできない場所に行っちゃうなんて、イヤだ──。


「やだ……お母さん……う……ぁ……っ」


 せっかく止まりかけた涙が一気に堰を切ってしまった。幼い子どものようで恥ずかしくて、情けなくて、どす黒い色に染まった心の奥から涙は滾々(こんこん)と湧き、あふれ出した。

 大祐はため息をつき、肩を揺すって再度の説得にかかった。


「分かってくれ、里緒……。母さんの身体をいつまでもこの家に置いておくわけにはいかないんだ。それに、たとえ(からだ)が墓の下に行ったって、位牌(こころ)はこの家に残ったままなんだよ。……そうだろ」

「でも……だって……ぇ……」

「頼むから言うことを聞いてくれ里緒。どっちみち、母さんは……、もう…………」


 ──言葉が詰まった。

 その先を口にすることはできなかったのだろう。しばし沈黙を挟み、嘔吐(えづ)きながら泣きじゃくる里緒の横へ力なく大祐は座り込んだ。その唇からも、吐息が(むな)しく漏れた。大祐の手はとっくに里緒の肩から外れていたが、大祐が時折、無言のまま身体の痙攣に耐えているのを、里緒はなぜだか透明な空気の壁越しに感じることができた。

 大祐は大人。大人は子どもみたいに泣かないし、駄々を()ねない。

 それでも瑠璃に家を離れてほしくないのは、瑠璃の死を身体のどこかで受け入れられないでいるのは、きっと大祐も一緒なのだと思った。

 だが、その事実は少しも里緒の心に安心感をもたらしはしなかったし、頬を流れ落ちる涙の量が減ることもなかった。




 高松家は盆地の山沿いの中腹に建っている。瑠璃が自殺を図ったあの日、けたたましいサイレンを鳴らしながら警察や救急隊が駆け付けて来てしまったおかげで、瑠璃の死はあっという間に周囲の住民たちの知るところとなり、やがて学校中の生徒たちに伝播した。

 生者の里緒すら平然といたぶる彼らを、瑠璃の式場に土足で踏み入れさせるわけにはいかなかった。大祐も里緒も葬儀のことはいっさい周囲に漏らさず、ひっそりと瑠璃の魂を天に送り出した。死人に口なし、それが正しい送り方だったのかはもはや分からない。もしかすると瑠璃は賑やかな葬送を希望していたのかもしれない。

 静かだったのは式場だけではない。誰からの弔電もなければ、悔やみの言葉ひとつも受け取らなかった。瑠璃の実家からは何年も前に着信拒否を受けていたようで、死の事実を伝えることすら叶わなかった。祖父母が()()()という苦々しい現実を、里緒は改めて思い知らされる形になった。

 この広い地球の上で、瑠璃の魂の行方(ゆくえ)を知っているのは里緒と大祐だけになった。それはすなわち、二人が瑠璃のことを忘却した瞬間に、瑠璃がこの世を生きた証はすべて燃え落ち、消えてしまうことを意味する。

 そしてそれは、三十五年もの時間を懸命に生き抜いた一人の人間の価値に照らして、あまりにも残酷で慈悲のない仕打ちに違いなかった。

 だが、里緒ひとりが蚊の鳴くような声で不条理を訴えたところで、きっと世界は少しも聴く耳を持たない。セーフティネットの網に(すく)い上げられることさえなかった、究極の“弱者”の姿が、机の上には灰となって今も冷たく横たわっている。




 部屋の片隅に転がったクラリネットのケースが、長い影を描いている。

 瑠璃の遺書にはクラリネットの去就への言及があった。曰く、【私のクラリネットはあなたにあげる。大切にしてね】──と。里緒への言及はその一言だけで、大祐に宛てた言葉を合わせても遺書の分量はわずか数行に満たなかった。

 ゆらり、立ち上がると激しい目眩(めまい)が身体を襲った。おぼつかない足取りでケースのもとまでたどり着き、里緒はケースを胸に抱きかかえた。強く、強く、無くしてしまうことができないように。角張った部分が身体のそこかしこに食い込み、にじんだ痛みと存在のカタチを里緒の胸に、心に、深く刻み込んだ。


「お父さん」


 呼ぶと、大祐が顔を持ち上げた。


「……どうした」

「ハサミ、どこやったっけ」


 大祐の血相が変わった。


「何に使う気だ」

「死なない」


 ケースを抱き締めたまま、それだけを答えた。たった四文字の簡潔な、しかし今この瞬間だけは守ることの難しい約束を、大祐は黒艶の目立つ瞳で黙って受け止めてくれた。そばの収納を漁り、文房具入れに使っていたトレーを引き出して、ハサミを探り当てる。

 里緒はそれを無言で受け取った。

 そうして、決断の(いとま)を挟むことなく、腰まで伸びる長い黒髪にハサミを入れた。

 ばさり。床に髪が崩れて散った。大祐が息を詰まらせた。


「里緒────」

「長い髪なんか、要らないから」


 次々にハサミを入れながら、里緒は震えの混じった声で言い捨てた。長い髪は耳を塞いでしまう。もともと、その方がかわいいと瑠璃に言われて始めた髪型だったのだけれど、褒めてくれる人の失われた今となっては長髪(こんなもの)に価値はなかった。未練もなかった。

 目を向けた先には瑠璃の遺影がある。この世の何よりも尊い笑顔をたたえ、優しい眼差しでこちらを見つめる亡母。その髪型は、肩までの長さに大雑把に揃えられた黒のショートボブカットである。あの長さまで切り落とすつもりだった。

 里緒は瑠璃になるのだ。

 瑠璃と同じ髪型をして、瑠璃と同じ楽器を吹いて、そうしていつまでも記憶し続ける。──この世でいちばん大好きだった人が、ここに確かに存在していたことを。

 口を真一文字に固く結び、里緒は黙々と髪を切り落としていった。涙で汚れた制服の周りに、砕かれた髪のカケラがばらばらに舞い降りて散らばる。大祐が、何も言わずに手鏡を差し出した。鏡に映る自分の目は血走り、(うる)み、まるで鬼か般若のような風貌をしていた。染み出した涙が頬を滑り降りて、跳ねて、役目を終えた髪に最期の潤いをもたらした。


 刃が、ぱちんと空を切り裂いた。


「……終わったな」


 大祐がつぶやいた。

 ハサミを床に下ろし、里緒はうなずいてみせた。亡き瑠璃と同じ、肩くらいの長さで不揃いに断たれた闇色の髪が、鏡の中で里緒の頭にへばりついている。肩に乗ったままの髪の残骸を振り落とし、うつむいた。

 生きている限り髪は伸び続けるだろう。その都度、何度でも、こうしてハサミを入れてやるつもりだった。耳を塞ぐものに別れを告げ、支えてくれる人のものではない自分自身のこの耳で、世界中の音を聴く。世界中の声と向き合う。

 これで、いい。

 これでいいのだ。


「……さよなら」


 足元を埋め尽くす『里緒の一部だったもの』に、そっと里緒は告げた。

 それは昼間、(ひつぎ)の前で慟哭しながら叫んだ同じ文句の言葉よりも遥かに本物らしく、紛れもない決別の覚悟として、里緒の小さな胸に穏やかな速度で染み渡っていった。








 やがて、クラリネットと勉強に明け暮れるようになった里緒と、家に寄り付かなくなった大祐は、新たな世界を目指して仙台を離れることとなる。

 瑠璃の死から、もうじき一年。上手くいかないことだらけの日々は、しかし上手くいかないながらも着実に安定した軌道に乗りつつあった。




 ──瑠璃の面影を背負い、瑠璃の愛した音色を奏でる。

 あの日、涙と髪の海の底で打ち立てた誓いを、里緒は今も守り続けることができているだろうか。










ついに幕を開ける、管弦楽部の春季定期演奏会。

さんざん迷いを重ねた末、里緒は花音とともに入部を決意する。

新入部員を迎え入れた管弦楽部は、新年度の活動を本格的に始動。その水面下ではひそかに、二年生代表の菊乃が主導する“計画”が進められていて──。


里緒はなぜ、クラリネットを吹き続けるのか?

紅良はなぜ、管弦楽部や吹奏楽部を嫌うのか?

立場の危うい美琴はどうなるのか?

運命の物語はいよいよ中盤へ突入する。



──【第二楽章 漆黒の魔笛は哀を歌う】に続きます。

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