C.026 里緒の願い
──もしも、人の半生、あるいは生き様を、五線譜になぞらえることができるなら。
里緒の五線譜の出発点は、千三百万人もの音符の山のひしめく世界最大級の大都市──東京だった。
さかのぼること十五年前、東京都豊島区の病院の一角で里緒は産声を上げ、音部記号を伴って、ほかの誰にも奏でることのできない“高松里緒の音楽”を綴り始めた。
里緒に兄弟姉妹はいない。いないのではなく、産むことができなかったのだと瑠璃には説明されたことがあるが、その理由は今に至るまで教えてもらっていない。さらに里緒には祖父母もいないことになっていたので、核家族化の極致であるはずの同性代と比べても、里緒の家族関係は極端なまでに狭かった。
父の大祐は都心の一部上場企業勤めのサラリーマン、母の瑠璃は専業主婦だった。里緒の生まれた当時、瑠璃は短大を卒業したばかりの二十一歳で、大祐も四年制大学を卒業して間もない二十三歳。晩婚化や初産年齢高齢化の叫ばれる日本にあって、瑠璃と大祐は今どき珍しいくらいの若い両親だったことになる。
ただ、両親が若いことを除けば里緒の家庭は世間一般のそれと何ら変わらず、なに不自由ない、ごく普通の幸せを築きうるものだったろうと思う。
──そう信じていた、といった方が正しいのかもしれない。
温かな腕に囲まれて育った里緒は、しかし幼いうちから内気で臆病な少女だった。
なかなか誰かに声をかけられず、誘われても近寄ってゆくことができない。おかげで幼稚園でも、小学校でも、胸を張って友達と呼べる存在はいくらもいなかったし、それなりに遊んでいた子たちとも今は全く連絡がつかなくなってしまった。
薄弱な人間関係では埋めることのできない、心の中の欠けたピースを、里緒はもっぱら瑠璃や大祐に甘えることで満たしてきた。誰よりも近しい、安心して胸を預けることのできる両親は、人見知りの里緒にとって何よりも居心地のいい場所だった。家族さえいればいいと本気で思ったことさえあった。
けれども、いつまでも家族に依存し続けることはできない。いつかは反抗期が訪れ、親のもとを離れる宿命にあるのが人間である。
それに、両親への依存を深める一方の里緒にも、当たり前のように睦まじい仲を結んで遊び回るクラスメートの背中は、徐々に羨ましさを覚える存在になりつつあった。
中学に上がる直前、父・大祐に仙台への異動が言い渡された。それまでの業績が認められ、新たに設立されたばかりの東北支社の重要ポストへ配置されることが決まったのだ。大祐が仙台から東京に戻ってくる目処は立ちそうになく、大祐の単身赴任を拒んだ瑠璃の希望で高松家は仙台へ引っ越すことになり、里緒にとっては人生で初めての人間関係リセットの好機が訪れた。
今度こそは失敗しない。
周りの子たちを恐れない。
クラスメートたちに馴染んで、部活で仲間を見つけて、幸せな人間関係を一から作るんだ──。
固い決心を胸に里緒は東北新幹線に乗り、三〇〇キロ先の新天地を目指した。同様に一から人間関係を作り直すことになる瑠璃も、そして大祐も、おそらくは似たような覚悟を決めていたことだろう。
そして、その小さくも大きな里緒の願いは、ついに遂げられることはなかった。
発端はいじめだった。二年生に進級して少しした頃から、里緒は急に、苛烈ないじめに晒され始めたのだ。
ものを隠される。壊される。何を言っても無視される。たまに口を開かれれば、浴びせられるのは罵詈雑言。それでも飽きたらなかったのか、ついに暴力まで振るわれるようになった。原因は分からない。誰から始まったのかも分からない。何の兆候もなく始まり、続き、とうとう卒業の瞬間まで止むことはなかった。
訳が分からないまま里緒は暴力に怯え、痛みに震え、毎日のように迫害を受けて泣かされた。谷底に位置する市立の中学校から、山の斜面に建つ自宅までの距離は、ひどく遠く、急坂で、文字通り息も絶え絶えになりながら帰りつく日々が続いた。当然、部活になど顔を出せるはずもなく、一年生の時に入部した吹奏楽部は実質的に退部したも同然になった。大祐や瑠璃が何度も学校に電話をかけ、いじめの事態把握と解決を訴えたが、校長も担任も『いじめはない』の一点張りを譲ろうとはしなかった。
疲弊してゆく里緒にとどめの一撃を振り下ろしたのは、あろうことか母の瑠璃であった。
なんとか踏ん張り続けて中学三年に進学した、昨年五月のある日の深夜──。瑠璃は唐突に、自殺を企てたのだ。
物置にしていた部屋で首を吊った瑠璃は、二人が発見した時にはすでに事切れていた。遺書は短く簡潔で、里緒に対しては『自分のクラリネットを贈る』という旨のわずかな言葉が遺されているのみだった。
それまで自殺のそぶりなど少しも見せていなかったのに。
なぜ、瑠璃が自殺を思い立ち、そして実行に移してしまったのか、いまだに里緒は真相を知らない。大祐が知っているかどうかさえ定かではない。屍となって天井から吊り下がった瑠璃の悍ましい姿と、二度と聞くことのできなくなった優しい声と、誤魔化しようのない遺体の冷たさ。その三つばかりが、今も里緒の記憶には明瞭に刻まれている。
瑠璃が自殺した事実はたちまち周囲に知れ渡り、ほうぼうで噂の種にされ、心のよりどころをことごとく失った里緒はついに完全な不登校になった。この期に及んで誰を信頼すればいいのか見当も付かず、同じように困憊していた大祐との関係も徐々にぎくしゃくしていった。
大祐はホテルに泊まって家に帰らない日が多くなり、里緒は瑠璃の遺したクラリネットに盲目的に没頭した。
そうすることでしか、心の痛みを誤魔化せなかったのだ。
いじめられていても不登校になっても、進路を考えないわけにはいかない。幸い、不登校に追い込まれてしまった時点でも、高校に進学するだけの最低限の学力は備わっていたが、しかし仙台周辺の高校に進学することはできそうもなかった。そこで大祐は首都圏の学校への進学を提案し、里緒はその提案を飲んだ。
条件は『首都圏立地で、私立で、進学校で、男女別学である』こと。首都圏の高校を選んだのと、受験難易度の高い進学校を選んだのは、同じ中学からの卒業生と万が一にも遭遇しないようにするため。私立校を選んだのは、公立校と比べていじめへの対処が厳正になりやすいのが理由だった。外部からの評判を重視し、国公立校と違って『退学処分』という決定的なカードを切りやすい私立校は、校内のいじめ問題にも敏感に反応することが多いと言われるのだ。男子からの身体暴力が堪えていたこともあって、男女別学という条件も追加した。
そうした様々な学校選択基準の線上に浮かんだのが、私立弦巻学園国分寺高等学校──『弦国』だった。
大祐は東京本社への再度の異動を希望し、実現。里緒も自宅にこもって懸命に受験勉強に励んだ末、弦国に合格。かくして東京進出への道筋が整った。
担任からの勧めを無視し、中学校の卒業式には出席しなかった。その日の深夜、荷物をまとめた里緒と大祐は車でひそかに仙台の家を抜け出し、夜の闇に紛れて東京へ向かった。
仙台の家は今も手放していない。運び出せなかった家具や衣類もあったし、瑠璃の遺骨や位牌を捨てるわけにもいかないから。
だが、郵便ポストや庭にまで悪口雑言の並んだ手紙を突っ込まれたままの家になど、里緒は二度と踏み込む気になれそうもなかった。
暗黒の中学時代は終わった。
たくさんの幸せを手に入れるつもりで新天地を目指した里緒の手元に、地獄を脱した今も辛うじて引っ掛かっているのは、正体の分からない一本のクラリネットと、瑠璃の自殺を機に不明瞭な距離を抱くようになった父の大祐だけ。
それ以外のものはどれも壊れ、潰え、どこかへ取り落としてきた。
親しい友達も。
温かな家族も。
強い先輩も。
かわいい後輩も。
憧れる先生も。
仲良しな近所の人達も。
優しい幻想はひとつ残らず、粉々に打ち砕かれてしまった。
──マウスピースから引き離した唇を、河原を渡ってきた夜風が静かに撫でて通り過ぎる。掻き上げられて宙を舞った髪はさらさらと軽やかで、首元に爽やかな冷涼感を吹き付けた。
ふぅ、と漏らした息が重たかった。必要な練習とは知っているのだが、ロングトーンを繰り返していると疲れる。
スマホのメトロノームアプリを止め、里緒は顔を上げた。
土手は闇に包まれていた。漆黒の艶を放つ多摩川を越えてゆく無数の光が、視界の右で点々と煌めいては消えた。
時計の示す時刻は午後八時。帰宅してすぐに土手へ向かったから、かれこれ二時間近くはクラリネットを吹き続けていたことになろうか。
(そろそろ、終わりにしよっかな)
痺れを覚えた指先を舐め、家の方を見遣った。まだ夕食を口にしていない。腹の虫も痺れを切らしていそうだ。それに、さほど音量の伴わない楽器とは言え、遅くまで屋外で吹いていれば誰かの迷惑にもなる。
スマホの画面を照明代わりにかざし、転がしておいたケースを手にした。母の形見でもある大切な楽器を粗末には扱えない。ひとつひとつ分解したパーツの汚れをきちんと布で拭い去り、ケースの定位置に収めてゆく。どれひとつとっても瑠璃の真似事なのだけれど、こうしていさえすればクラリネットから見捨てられることもないように思えて、心がいっときの安らぎを覚えるのだった。
そのまましばらく、黙々と作業に勤しむ。
自転車に乗った高校生の集団が、談笑に興じながら里緒の背後に差し掛かった。
「──そんであいつさぁ、マジでびびって引っくり返って! リアクション超うけるんだけど!」
「やっぱあいついじり甲斐あるよなぁー」
「何したって怒らねぇしな」
「ちょっと凄めば隅っこで小さくなるもんな!」
無意識に肩が跳ね上がって、手にしたベルを落としそうになった。
談笑は次第に遠ざかってゆく。強張った筋肉を深呼吸で解して、そっと、ベルをケースの中へ格納した。
大丈夫。
大丈夫、あの人たちが口にしているのは私のことじゃない。
だから、大丈夫──。
「はぁ……っ」
吐き出した息はねっとりと生温かった。
生温かったが、少なくとも温かかった。過呼吸になって喘ぐよりはマシだと思った。いじめられることのなくなった今でも、それらしい言動を受け取ったり既視感を覚えるたび、里緒の心は肺もろとも凍り付いて過呼吸に陥ってしまうのだ。
相対的に冴えた手でケースの蓋を閉じ、スマホの画面を落として立ち上がる。対岸の高層マンションを彩る大小の灯りを見つめていると、動悸もようやく、鳴りを潜めた。
頑丈な弦国の制服は風を通さない。この胸は、この心臓は、すきま風に弄ばれて冷え切っていた、あの頃のそれではない。風を軽やかに受け流すこの髪は、乱暴に引っ掻き回され続けてぼろぼろになっていた、あの頃のそれではない。
里緒は、あの頃の里緒ではない。
この笛を介して息をする間は、過去の痛みも苦味もなかったことにして、新しい世界を生きられる。
──そう言い聞かせた。春の夜風を吸い込んだ胸が、静かに膨らんで呼応した。
かつて、勇んで飛び込んだ新しい世界で、里緒はあまりにも多くのものを失った。誰かと普通に仲良く触れ合うことも、笑い合うこともできなかった。今もトラウマという名の激しい幻肢痛に悩まされ、たまらなくなって相手の前から逃げ出してしまいたくなる。
それでもとうとう、諦められなかった。
三度目の正直と諺はいう。リセットされ、履歴も相関図もまっさらの状態に戻された世界で、今度こそは大切なものを手に入れたい、取り戻したいと願ってしまった。そうでなければ高校受験などしているはずがないのだ。
過去と向き合うのには力が要る。痛みに耐えられるだけの強さと、倒れそうになっても支えてくれる存在が要る。瑠璃の死の真相を知り、かつての自分を乗り越えるためには、この弱い身体ひとつでは足りそうもない。だから、友達がほしい。家族がほしい。優しい先輩や先生や仲間がほしい。それはきっと昨日までの自分の過ちを肯定し、今日の自分の傷みを癒し、明日へ向かうための原動力になってくれる。
そして今、ただの趣味でしかなかったはずのクラリネットが、里緒に大切な仲間をもたらしてくれようとしている。
青柳花音とも、西元紅良とも、管弦楽部の先輩やクラスメートたちとも、このクラリネットがあったからこそ繋がることができた。自分のせいで生じてしまった紅良と花音の軋轢も、どうにか少し埋め合わせることができた。
たった一本の笛から、すべての福音は生まれた。
こんなところで途絶えてほしくはない。もっと、もっと、少しでも長く夢を見ていたいと思う。たとえそれがいつかは砕け散ってしまう幻なのだとしても、孤独のまま重たい未来を生きるくらいなら、いっそ幻を見ている方がマシなのだ。
風が鳴いている。
線路を滑ってゆくモノレールの走行音が、穏やかに空気を揺さぶっている。
段差を滑り降りた川の水が、あぶくを弾けさせながら笑っている。
土手をゆく人々の穏やかな声が、霧のように漂っている。
トラックだろうか。遠くで大型車が警音器を鳴らしている。暗闇を横切ったカラスの一団が、呼応するように声を上げながら去ってゆく。草木のさざめきが空をおおっている。
胸を打つ脈拍が轟いている。吐息の放つ音色はぼやけていて、柔らかい。
世界は音であふれている。
そのまま黙っていたら、跡形もなく飲み込まれてしまうほどに。
クラリネットのケースを抱え、里緒は高い空を見上げた。
(私、頑張る)
散らばる星屑を見つめ、訴えた。
(もっともっともっと頑張って、声上げて、歌って、吹いて、みんなの仲間になってみせる。手に入れられなかった大切なもの、みんな手に入れてみせる)
息が浅くなった。
(いつか胸を張って、『生きててよかった』って言ってみせる。きっと約束するから……。だから、どうか)
里緒の訴えかける声に耳を澄ませてくれているかのように、東京の空はしめやかに静まり返っていた。ケースを抱きしめる腕に重みがにじんだ。
力を込め、息を吐いて、吸って、里緒は叫んだ。
(もう一度だけ、私にチャンスをください)
十五歳、春。高松里緒の二度目の挑戦が始まろうとしている。
澄んだ色の願いは息吹に乗り、風に紛れ、音を立てて無限の空に吹き上がっていった。
第一楽章はここまでです。
登場人物紹介を挟み、
【Interlude ──〈共音〉】に続きます。