C.025 垣根の向こうから
日産新報社立川多摩支局は、立川駅北口の再開発地区に建つ賃貸オフィス『立川ドリームワールドビル』にテナントとして入居している。つくづく、薄っぺらな名前のビルだと思う。“ドリームワールド”の風情などかけらも感じさせない、角張った剛健な佇まいの高層オフィスビルを、神林紬は振り向いて見上げた。
まだ、向こうに広がる空が明るい。
夕焼けは翌朝の快晴の証だという。洗濯物の心配は、明日も必要なさそうだった。
「今日もこれから園?」
隣を歩く女性が小さく笑った。
「どうよ、最近。今くらいの年頃の子は手がかかるでしょ」
「かかりますけど、可愛いものですよ」
園の入り口で飛び付いてくる我が子の背中を思い、紬も笑い返した。隣の女性──取手雅は、同じ日産新報社の文化芸能部に勤務する五歳上の先輩記者だった。拓斗より年上の子を持つ現役の母親でもある。
雅には夫がいる。シングルマザーの自分とは子育ての境遇がまるっきり違っていただろうから、きっと見えている子どもの姿も違うのだろう。そのあたりを自覚しているのか、雅も子育てに関しては何かと紬に気を遣ってくれる。
「ま、入園がすんなり決まっただけでも、神林の場合は幸運だったよね。シングルだとうちの息子みたいに一年間待機するのも厳しいだろうし」
「本当ですよ。産休もきちんといただけてましたし」
「当たり前よ。まともに社員に産休も出せないような会社なんかに、この少子化のご時世を生き残っていく値打ちはないでしょ」
まったくである。同意のつもりで浮かべた微笑みは、並ぶビル群の隙間から差し込んだ西陽のせいでわずかに険しくなってしまった。
ビルの傍らに広がる公園を抜け、駅前へ続く大通りに出る。寄ろっか、とばかりに雅が向かいのコンビニを示した。時刻は午後五時半。園に伝えた迎えの時刻まで、今日は珍しく余裕がありそうだった。
立川多摩支局に勤務し始めて以来、雅は先輩記者として紬の面倒を見てくれている。そして同時に、紬の憧れる文化芸能部所属の記者でもあった。本来、文化芸能部は本社直属の部局だが、数年前から大手町の本社ビルが周辺の再開発に伴って建て替えに入ったため、臨時で立川に移転してきているのだった。
学生時代から音楽や芸術に携わり続け、今も往時の趣向を大切にしている紬にとって、仕事として芸術に触れることのできる文化芸能部は夢の部署と言っても過言ではなかった。転属の機会をつねづね狙ってはいるのだが、なかなかチャンスは巡ってこないし、何よりも息子の拓斗が幼いことを考えると、転属によって生活リズムが変化することのリスクは悩ましい。
趣味と仕事は切り分けるべきだといわれる。けれど、忙しなく仕事に追われる中で、好きなものや大事にしてきたものの価値を見失ってしまうことの方が、紬には遥かに恐ろしかった。
(そのくらいの夢、私だってまだ、見ていていいはずよね)
ほかの園児たちに混じって愉快そうに合奏に興じる我が子の姿を眺めるたび、ほのかに香る羨望をそっと抱きしめながら、いつもついつい、そんな期待をかけてしまう。
コンビニで飲み物を買い、外に出た。人々の行き交う広い歩道の彼方に、北口の巨大な駅舎が壁同然に屹立していた。連なるビル群のあちらこちらに陽の光が照って、日暮れ時の立川の景色は乱雑に宝石が散りばめられたかのようだ。今日も、きれい──。何気なく吐いた息に、カフェオレを啜った雅の声が重なった。
「毎日のように繁華街に通ってるとさ、今が好景気なのか不景気なのかさっぱり区別がつかなくなると思わない?」
「いつ来ても人であふれていますもんね、ここ」
「そうなのよねー。ね、聞いた? こないだのストラディバリウスのオークションの件」
「何ですか?」
「ヴィオラを日本の個人が猛烈な価格で落札したんだって」
えっ、と紬は問い返してしまった。ココアの缶を握る手に力が入った。
弦楽器製作の名手、アントニオ・ストラディバリの製作した楽器は、その高い品質から銘器『ストラディバリウス』と呼ばれ高値で取引されている。中でも十本しか現存しないヴィオラの希少性は極めて高く、競売の際には数十億円もの値で落札されることもある筋金入りの高級品である。
「豊島区在住の楽器コレクターだそうよ。西成とか言ったかな。自分でも管楽器を中心に手広く演奏している人みたい」
「コレクターにしても、よく個人が落札できましたね。そんな半端な額面じゃないでしょうに……」
「それだけのことをできる資金力のある個人も、この国にはそれなりに残っているってことなのかしらねー」
横断歩道をわたりながら、雅は伸びをした。デパートの壁が西陽を反射して、明るい橙に燃えていた。
「ま、楽器への投資はきりがないっていうし、骨董品収集の類いに過ぎないんだろうけどね。ある程度までは値段と性能が比例するけど、そこから先は性能面での差はあんまり見られなくなるって言うでしょ。高い楽器を徒に求める人の気持ち、私には分かんないや」
「それはそうですけど。でも、コレクターさん自身も演奏されるんでしょう。やっぱり奏者になれば、いい楽器を持ちたいって願うものだと思いますよ」
「そう?」
少なくとも、私は。──ひそかに張った予防線は街の雑踏の中に隠して、紬はココアの缶をそっと再び握りしめた。
確かに、骨董品収集には違いないのだ。
けれども、せっかく演奏するからには美しい音を出したい。それは贅沢でも何でもない、音楽家ならば誰もが抱いて当然の欲求だと思う。
吹奏楽部にいた学生時代など、高価なマイ楽器を使っていた同級生の音の方が華やかに感じられたものだった。この胸の奥で輝く衝動を、情動を、力強くしなやかに届けたい。立派な楽器がその役に立つのなら、少しでも良いものをと願ってしまうのだ。
近ごろ多摩川の土手で見かけるようになった、あのクラリネット吹きの少女だって、きっとこの感慨に共感してくれることだろうと思う。
「音楽って為人を映すんですよ。適当に妥協して生まれた音と、美しさを必死に追求して生まれた音って、明らかに違うんです。透き通った音色を導き出すことのできる人は、吐息も、生き方も、ちゃんと透き通っています。いい楽器を選び抜いているかどうかも、楽器をきちんと手入れしているかどうかも分かっちゃいます」
「……じゃ、聴いていれば全部、筒抜けってわけか」
「『音楽は自らの人生であり、人生は音楽である』」
雅が怪訝な顔をした。雑多な音のあふれ返る世界を掻き分け、進みながら、紬は微笑を頬に描いた。
「モーツァルトの遺した言葉だそうですよ」
美しい生き様は美しい音色として反映される。高校生の頃、部活の先輩に教わった言葉だった。
モーツァルトの曲だと〈フィガロの結婚〉の序曲とか好きだったな──。しみじみとつぶやいた雅の横について、紬もモーツァルト作品の話に混じった。
いつか、あの多摩川の少女にも声をかけて、こんな具合に好きな曲や音楽の話に興じることができたらいいのだけれど。彼女の儚くも美しい木管の唄に、そう願わずにはいられないでいるのを、すれ違った制服姿の女子高生たちに思い出した。
今夜は、晴れ。明日も、晴れ。
少女は今日も土手でクラリネットを吹いているのだろうか。
遥か年下の崇高な独奏者の明日が、どうか晴れやかなものであることを、傍聴者の紬は垣根の向こうから見守ることしかできない。
「もう一度だけ、私にチャンスをください」
▶▶▶次回 『C.026 里緒の願い』