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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.024 野望と煩悶

 




 無人になった音楽準備室の照明を落として、扉を閉め、鍵をかける。楽器ケースの重量の分だけ軽くなった肩を、美琴は控えめに回して(ほぐ)した。たかだか全長七十センチの管とは言え、木製のクラリネットはそれなりに重たいのだ。


「あー。もう七時かぁ」


 隣の菊乃が大あくびをかました。


「あたしたちが最後じゃん。もう帰ろ帰ろ」

「三年もみんな帰っちゃったしね」

「ねー。もうお腹すいちゃったよ、わたし」


 廊下の壁にもたれかかった二人の少女が応じた。うなずきあってため息をついた仲間たちを尻目に、美琴は音楽室の扉を開いた。まだ中の蛍光灯が煌々と白色の光を放っていたが、四人分の荷物が片隅に残っているばかりで人影は見当たらない。

 管弦楽部の活動は原則として、午後六時に一旦終了となる。それ以降の時間まで残って自主練に励むのは個人の自由となっていて、普段ならば大半の部員がここで帰ってしまう。定期演奏会を目前に控えた今日も、自主的に残っていたのは半分ほどだったか。


「……ま、いいけど」


 つぶやいて、カバンを手に取った。

 クラリネットパートは現在、美琴のほかに三年生の先輩が一人だけ。腕前は美琴の方が上なので、演奏の出来は事実上、美琴次第で左右されることになる。極端な話、美琴さえ頑張ることができれば、それで十分なのだ。

 こういう割りきり方をしている自分は、果たして冷酷なのだろうか。


「もうさー、練習時間足りないよね。マジで!」


 背中の向こうで菊乃が(うめ)いた。


「新入生の子たちの相手だってしなきゃいけないんだもん。せっかくだから格好いいとこ見せて興味持ってもらいたいし、だけどずっと話してるわけにもいかないし……」

「フルートパートは人気だもんねぇ。うちらなんか全然だよ、ねー(めぐみ)

「ほんとだよー。弦セクは今年も閑古鳥がピーピー」


 暢気な声を上げているのは、ヴァイオリンの池田(いけだ)直央(なお)とヴィオラの春日(かすが)(めぐみ)だった。

「フルートもほどほどに閑古鳥がいい!」などと菊乃がめちゃくちゃなことを叫んでいる。彼女のカバンを手にして、背中を小突いた。


「あ、ありがと」


 受け取った菊乃は、隣に並んだ美琴にも疑問をぶつけてきた。


「クラは今年はどうなの? あの二人以外の子って来てる?」

「来てない。二人だけ」


 美琴は首を振った。“二人”というのが高松里緒と青柳花音のことであるのは、もはや管弦楽部員たちの共通認識といってよかった。

 両手を頭の後ろで組み、菊乃は天井を振り仰いだ。


フルート(うち)は四人くらいかなぁ。けど、ダメっぽい。そのうち三人は国立(くにたち)WO(ウインドオケ)にも関心あるって言ってた」

「相変わらず人気あるなー、あそこ」


 直央が口を挟んだ。

 国立WO、正式名称『国立北多摩ウインド・オーケストラ』は、国分寺の西隣・国立市に活動拠点を置く地域有数の市民吹奏楽団である。吹奏楽部のない弦国では、管楽器経験者の多くが管弦楽部を選ばず国立WOに加わる傾向が十年以上も続いていた。市民吹奏楽団としてのレベルは確かに見上げたもので、国内外から有力指揮者を招聘しての大規模な定期演奏会を冬に開催し、そのたびに大きな注目を集めている。紛らわしい名前をしているが国立(こくりつ)ではない。


白石(しろいし)って子は多分うちに入ってくれそうなんだけどな……。友達の吹部経験者は八割方が芸文附属か立国(りっこく)に進学したって言ってたし、残りの連中は国立WOに心を売ってるし、なんかもう、ダメ」

「でも一人は確実に入るんでしょ? いいなー、弦楽なんて望み薄すぎて悲しいよ」


 直央に続けて恵もぼやいた。


「一週間待って見学者ゼロだよ、ゼロ! ほんとに誰も出てこないだなんて思わなかった!」

「まぁ、仕方ないよね。弦楽は」

「美琴なんてずるいよなー。もう二人も確定してるんだからさー」

「マジで弦楽パートの気持ちになってみろ! って感じ」


 ぼやく同期たちを音楽室の外に追い出し、忘れ物のないのを確認して照明と空調を落としながら、美琴は曖昧に笑った。「まだ確定してない」と声を荒げたい気分だったが、きっと今の直央や恵には美琴の境涯は理解されないものと分かってもいた。

 弦楽器、すなわちヴァイオリンやヴィオラ、チェロは、一般的には小学生など幼少期から取り組まないと身に付かない楽器だといわれている。大人になってから習得しようとしても指が動かず、断念してしまうケースが多い。それゆえ、これらの楽器の奏者は幼い頃から練習の機会を用意することのできる裕福な家庭の出身におおむね限定されてしまい、奏者人口も際立って少なくなる。そういった奏者人口の限定が、中学や高校に管弦楽ではなく吹奏楽が普及している最大の要因なのだ。

 弦国の管弦楽部に所属する弦楽パート部員は、ヴァイオリンが二人、ヴィオラが一人、チェロが一人。コントラバスに至ってはゼロ。他のパートと見比べてみても、人材不足が特に著しい。吹奏楽でも人気楽器の筆頭に挙げられるフルートなどとは、まるで比較にならないのである。


「部長、今日までの時点で何人の見学者が来てるって言ってたっけ」


 締めた鍵をてのひらの上で(もてあそ)んでいると、菊乃がつぶやいた。「だいたい二十人」と直央が答えた。


「二十人か……。どうせ三分の一も入らないんだろうなぁ」

「よくて五、六人って感じだろうね」

「やっぱ定演で頑張るしかないよね。あたしたちのアピールの場ってあれしかないよ」


 うん、と固めた決意を確認するように、菊乃は大股の一歩を暗い廊下へ踏み出した。美琴も真似をして足を踏み出してみた。菊乃ほど大股にならなかったのは、自分の中の危機意識の種類が彼女のそれとは違っていたからか。

 初心者の青柳花音はどうであっても構わないのだ。高松里緒が、あの高度な演奏技術を有する少女が本当に入部してしまえば、クラリネットパート内の序列は一瞬にして塗り変わる。下手をするとパートの中だけでは済まされない。──美琴は、先輩としての威厳も優位性も、失う。

 否。もうすでに失いつつあるのかもしれない。

 けれど、彼女の入部を拒みたいと願う美琴の意思は、きっと管弦楽部としての利益にも部長たちの意思にも反していると思った。


「……ま、いくらアピールを繰り返したって、今の管弦楽部(うち)の演奏のクオリティが他所(よそ)の吹部とか市民楽団に敵うはずはないんだけどさ」


 数歩先をゆく菊乃の言葉が、冷えた色の床で反射して拡散した。


「何があっても高松ちゃんだけは確保しなきゃね。囲ってでも賄賂(わいろ)を渡してでも管弦楽部(うち)に入れてやるんだから。──コンクールの計画を実行に移すなら、あの才能は絶対に外せないよ」


 そこに響いたのは、弦国管弦楽部では聞くことのないはずの“コンクール”の語。「うん」と同意の吐息が背中の向こうから二つ聞こえて、タイミングを逸した美琴だけが足音ばかりの続く静寂の中に取り残された。




 吹奏楽部や管弦楽部は芸術の世界を生きる部活。

 そこでは年功よりも演奏技術の優劣が幅を利かせ、下手な人は年上だろうとコンクールの人選から落とされ、行使できる発言力も否応なしに縮小される。先輩だからといって大きな顔をできるわけではないのだ。

 それを踏まえた上で、自分には大きな顔をする資格があると思ってきた。

 中学でも、高校に入ってからも、そんな実力主義の世界を果敢に生き抜いてきたつもりだった。

 “相応以上の演奏を披露することのできる奏者”を自負し、かつ、そんな存在であろうと常に努力し続けてきたはずだった。




 かつて感じたことのない、不気味な静けさをもった恐怖が、美琴の未来を(すさ)まじい勢いで捕食しようとしている。









「そのくらいの夢、私だってまだ、見ていていいはずよね」


▶▶▶次回 『C.025 垣根の向こうから』

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