C.023 諍いの行方
紅良と花音の対立を誘発してしまったのは里緒だ。そもそも部活の勧誘が始まったあの日、里緒が二人の前で曖昧な態度を取ったことに、今の関係はすべて端を発した。
いい加減、きちんと向き合うべき時が来たのかもしれない。
覚悟を求める声が胸を衝いて、静寂の中で里緒は必死に乏しい知恵を振り絞った。
紅良は管弦楽部、否、部活として行う合奏を厭っている。合奏が各楽器に協調を求めることを、紅良は“個性を埋没させる”とまで言い切って捨てた。
その一方、花音が管弦楽部の虜になっているのは、それが楽器をやりたいという夢を叶えるのにもっとも容易な手段だから。彼女はまだ、個性云々を語る段階に立っているわけではない。
だから本来、二人それぞれの主張そのものに齟齬はないのだ。
互いの誤解を解いてしまうことができれば、互いが敵対する存在にはなり得ないことを示してあげられれば、紅良と花音が無用の衝突を続けることもなくなるのだろうか。
こんなにも懸命に考えを巡らせたのは久しぶりだった。
痛々しい沈黙が続いていた。
腹を決め、里緒は深呼吸をした。冷えた夕刻の外気が喉を澄ました。
「……あのね。西元、さん」
紅良がくたびれたように「何?」と答えて、里緒の隣に腰掛けた。
「その、うちの管弦楽部って、西元さんが思ってるような団体じゃないと思うの。私レベルの奏者が注目を浴びちゃうあたり、確かに楽団としてのレベルは低いのかもしれないけど……。でも、それって裏を返せば、コンクールにがんがん邁進するような団体じゃない、ってことだと思う。そもそも管弦楽部じゃ、吹奏楽コンクールには出られないし」
「…………」
「部長さんが言ってたんだ。コンクールへの参加は検討してない、気楽に音楽と触れ合える環境だと思ってくれればそれでいい──って。個性が埋もれるとか、出る杭が打たれるとか、そういうことはきっとあんまり心配しなくてもいいんだと思う。……少なくとも、私の見える範囲にあった弦国の管弦楽部は、そういう姿の団体だったの」
だから不必要な懸念は要らない。里緒や花音を快く迎えてくれた管弦楽部を、里緒の音色を手放しで認めてくれた数少ない世界を、そんなに否定しないでほしいのだ。
紅良は口を真一文字に結んだまま、横たわる銀白色の線路を見つめていた。同じくベンチに腰を落とした花音が口を尖らせた。
「そうだよ! 天才の里緒ちゃんはともかく、私みたいなのだって受け入れてくれるんだもん。イチャモンロングとは違って──」
「その……青柳さんもその呼び方、やめようよ。悪口になっちゃってるよ」
里緒の指摘は的確な角度で刺さったらしい。花音は唸りながら、うなだれた。
「だって、イチャモンつけてくるのは事実だし」
それを肯定するなら、花音こそ正真正銘“ストーカー”の名に与ってしまう。里緒はやんわりと遮るつもりで口のかたちを曲げた。まだ何かを言いたげな顔をしていたが、花音はしぶしぶといった顔で首をたれた。
たれ込めた沈黙の向こうで、構内放送が早くも次の下り電車の到着を告げている。粘り気のある空気が重たくて動けずにいると、不意に、紅良がすっくと立ち上がった。
「高尾行きだってよ。乗りましょ」
「西元さん──」
「定期演奏会の開場時間っていつ?」
一瞬、何を問われたのか分からず、里緒はクラリネットのケースを抱きしめたまま呆けた目を紅良に向けた。紅良は二人にも起立を求めるように、振り向いて手を伸ばした。
「管弦楽部の春季定演。もうじきなんでしょ。クラスの友達が言ってた」
「友達、いたんだ」
余計な口を挟んだ花音が、紅良の鋭い一睨みでたちまち黙らせられた。
思い立った里緒はカバンを開いて、部の終わりに受け取らされた定演のビラを引き出した。ビラを使うべき時があるとしたら今しかないと思った。
「……これ、あげるね」
差し出したビラに紅良は目を通した。長い睫毛の下で、つ、と瞳が細くなった。
「午前十時半に西国か。思ったより早いのね」
「く、来る?」
「行こうと思う」
紅良の顔は変わらず涼しかった。
「冷静に考えたら、どんな活動をしてるかも知らないのに、外野から偉そうに批判する権利なんてなかったね。演奏に触れて、顔を見て、それから入部の是非を論じることにする」
それは、里緒の話を受けて紅良なりに編み出した最善の妥協策だったのだろう。ほのかに赤くなったふたつの頬に、ほどけた強情さの名残を感じて、里緒はひとまずの安堵に包まれた。
紅良が、里緒の話を聞いてくれた。聞き入れてくれた。
花音も立ち上がった。まっすぐに伸ばした人差し指を紅良の胸に向けて、厳しく言いつけた。
「当日は朝十時に西国の駅で集合だよ! ちゃんと起きてよね!」
「青柳さんじゃないんだから大丈夫よ」
「私は早起きできるもん────っ!」
憤慨する花音の横顔にも、もう、本物の怒りを見てとることはできなかった。花音もまた、紅良への提案を言外に匂わせてくれているのである。一緒に鑑賞しよう、と。
これでいい。
これで、いいのだ。
全身を覆う脱力感で今にも動けなくなってしまいそうだった。ゆるゆると嘆息した里緒の前に、立川方面へ向かう電車が到着した。
花音は二つ先の国立駅で、紅良と里緒は三つ先まで乗ってゆくことになる。オレンジの帯を巻いた電車からはどっと人があふれ、そのぶんだけ軽くなった車体は線路の上で軋みながら揺れていた。
ようやく実感がふつふつと湧いてきた。
自分だけの力で、言葉で、紅良と花音の諍いを軟着陸させることができたのだという実感が。
「それはそうと青柳さん初見だったんでしょ。よく出せたね、あんな音」
「ふふん、当たり前でしょ! 花音様だから!」
「やっぱり腹立つ」
「イチャモンロングは怒りっぽいなぁ。……あ、しまった。言っちゃった」
「せめて呼び捨てにしてくれないかな。青柳さんのネーミングセンスってあんまり期待できない」
「なにを!?」
穏やかならぬ言葉を交わす紅良と花音の背中を追って、里緒も電車の扉を目指す。
会話に混じる元気も、笑顔を浮かべる活力も、これから塗れる帰宅ラッシュの大混雑を思うと虚空の彼方へ飛んで行ってしまいそうだった。けれども両手で抱えたケースとクラリネットだけは、しっかりと離さずに握りしめて。
このケースの中のクラリネットこそが、今日、紅良と花音の軋轢を均してくれた最大の立役者だから。
(クラリネットをやっててよかった)
ほっと吐息を落とした刹那、……里緒は気付いた。
ケースの中に収められているはずのクラリネットを、今、里緒の右手が握っている。
「……ま、待って!」
慌てて二人を呼び止めた。
「クラリネット仕舞うの忘れてた……!」
目を丸くして立ち止まった紅良と花音は、すぐにきびすを返して、管体を分解にかかる里緒のもとへ戻ってきてくれた。
「何があっても高松ちゃんだけは確保しなきゃね。囲ってでも賄賂を渡してでも管弦楽部に入れてやる」
▶▶▶次回 『C.024 野望と煩悶』