C.022 些細な諍い
刹那。
『パァ────────ッ!』
ホームに甲高い音が響き渡った。
至近距離で聴けば何かの警報かと紛うほどの音量である。何事かとばかりにホーム中の人々がこちらを振り返り、ベンチの二人を凝視したが、誰より驚いていたのは当の里緒と花音だった。
「……びっくりした」
「……出た、ね」
二人は顔を見合わせた。もう一度とばかりに花音がクラリネットをくわえようとしたので、急いで制止した。
「あ、あんまりやると、またびっくりさせちゃうよ!」
「えー」
がっかりしたように花音は眉を下げた。その健康的な肌の色に、先日の体力測定のことを里緒は思い返した。
クラリネットの演奏には、強く安定した息が求められる。花音は一○○○メートルもの持久走を耐え抜くのに十分なほどの肺活量や腹筋を備えているのだから、演奏に必要な息の在り方には簡単に手が届いたのかもしれない。強い音だけが出てしまったのは、吹奏そのものに不慣れで呼気の安定性を欠いていたためか。
(運動部を経験してる人って、すごいんだな)
クラリネットに集まる視線を気にして肩を小さくしつつ、里緒は隣の少女に密かな希望を抱いた。ともかくクラリネットを取り返さねば。そう思って、花音の首元に手を伸ばした。
瞬間、背中に冷ややかな声がかかった。
「……誰かと思ったら、あなたたちか」
「あ、イチャモンロングだ!」
花音が耳元で叫んで、里緒は手にしかけたクラリネットを取り落としそうになった。
振り返れば、相変わらず感情の読み取りにくい顔付きの紅良が、二人を見下ろすように立っていた。どうして西元さんがここに! ──目を白黒させる里緒の眼前で、さっそく花音と紅良の舌戦の火蓋が落ちた。
「青柳さんはいつまで私をそのろくでもない名前で呼ぶつもり?」
「“ストーカー”に昇格させてあげてもいいよ? このイチャモンロングめ、私と里緒ちゃんに付きまとうな!」
「青柳さんに『付きまとうな』って言われるのは心外なんだけど。ブーメランにならないような名前をつける注意を覚えることね。あと、人の集まるところでクラリネットを高らかに鳴らしたりしないっていう注意も欲しいかな」
「何をっ!? 言っとくけど私、初めてクラリネット吹いてちゃんと音が出たんだからね! すごいんだからね! それに高らかに吹いてないし、一瞬だったし!」
笛で驚かせた次は口論である。背後の一番線に到着した下り電車を降りてきた人々が、珍獣の痴話喧嘩でも見ているかのような視線を送りながらホームを流れていく。
ゆらり、膨れ上がった背徳感に背中を押されて、恐る恐る里緒は口を挟んだ。
「あ、あの……」
すぐさま紅良の冷えた視線が里緒に差し向けられた。怖い、と思った。怖くてたまらなかったが、花音の名誉のためにもこれだけははっきりさせておかねばならなかった。
「ごめんなさい。吹いていいよって言ったの、私だから……。前から青柳さん吹きたがってて、それで、つい……」
「別に怒ってないよ」
紅良はそう切り返したが、口調はしっかり不機嫌であった。文庫本を手にしているところを見ると、電車を待ちがてら読書に勤しんでいたのだろう。
「たまたまちょっと離れたところに立ってたのよ、私。甲高い音が聴こえたから誰の仕業かと思ったら、案の定……って感じ」
「やっぱりストーカーじゃん」
花音がつぶやいた。ものすごい勢いで紅良が花音を睨み、二人の間を彩る対立の火花がさらに鮮やかになった。
ああ、もう収拾が付きそうにない──。頭を抱えたくなった里緒を嘲笑うように、轟音をばらまきながら甲府行きの特急電車が二番線を通過してゆく。ほこりが、塵が、宙を舞って里緒を叩いた。
「何か言った?」
「空耳じゃない?」
「私の耳を何だと思ってるわけ?」
「地獄耳だなーサイアクって思ってるけど?」
「そうね。とっても残念だけど、青柳さんと違って器楽の経験があるから耳の性能は高いのよ」
「うわ、それどういう意味っ!」
「分からないの?」
「分かってるし! 覚えてなよ、私だって管弦楽部に入ったら楽器やって耳を鍛えてやるんだからね! いまにイチャモンロングの実力なんか上回ってやるから!」
「望むところよ。たかが学校の部活なんかで実力を伸ばせるなら伸ばしてみてほしいところね。ま、その前に心意気が挫けないことをせいぜい祈ってる」
「このーっ!」
花音が里緒の隣から立ち上がった。二人の立ち姿に囲まれ、里緒の居所はますます狭く、苦しくなる。まるで水揚げされたばかりの魚のように、里緒には愚かしくおろおろすることしかできない。
二人がどこまで真剣に憤っているのかなんて里緒には分からない。少なくとも、里緒の耳に届いた剣幕から察せられる本気度は、冗談だとか笑って済ませられるような代物ではなかった。
いったい誰が二人をこんな関係にした?
誰のせいで、二人は仲違いを起こした?
不意に、薄緑色に瞬く幻影が視界をよぎった。激しく口論を交わす二人の人間が、紅良と花音の声に重なる。かと思うと声は一気に数歳以上も古びて、別人の声色と台詞に塗り変わった。もはや、それがいつの記憶なのかも上手く思い出せなかった。
──『だから言ってるだろ、休んだりしたらそれこそ里緒の敗北になるんだ! 向こうの連中だってきっとそれを望んでる。普段通りに振る舞えるように里緒をサポートするためにこそ、俺たちはいるべきなんだ!』
──『だからって、無理をしてまで通わせることが正しいなんて私には思えない! 逃げるのだって立派な対抗策よ! あの子が逃げることを選びたいと思ってるなら、私たちはその気持ちを尊重してあげなきゃいけない、そうでしょ!?』
里緒のために争う言葉たちが、心たちが、かえって里緒の居場所を破滅的に狭めてゆく、地獄絵図のような光景。
特急の蹴散らした駅の喧騒が、徐々に耳の周りに戻りつつあった。──“もういい”。“もうやめて”。立ち上がる二人の狭間で無言で叫んだが、無言のままでは届くはずもなかった。
もうやめて。
私が悪かった。
私がここにいなければ、同じクラスにいなければ、クラリネットなんか吹いていなければ、弦国に入学していなければ、生まれてこなければ、青柳さんも西元さんも対立の火種なんか抱えずにすんだ。悪かったのはぜんぶ私なんだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい──。
早鐘のように拍動が早まってゆく。
「はぁ……はぁ……っ」
発作がすぐそこまで迫ってきているのを感じる。苦しくなる胸をどうにか押さえ、鈍い痛みを放ちながらぶれる視界を、それでも里緒は懸命に保ち続けた。瞳孔はすでに開ききっていたが、すんでのところで涙だけは堪えられた。
──ああ、苦しい。
苦しい。
どうしようもなく苦しい。
うずくまる里緒の両脇で、二人の取っ組み合いはついに始まらなかった。少しの間、沈黙に身を包んでいた花音が、おっかなびっくりの問いかけを、震える里緒の背中に乗せた。
「……里緒、ちゃん?」
「大丈夫?」
紅良が続いた。いつの間にか二人の意識が自分に向いていることに気付いて、里緒はようやく顔を上げた。よかった、発作を起こす事態にまでは発展しないで済んだようだ。荒れた呼吸はまだ整っていないので、大丈夫と答えられる状態ではなかったけれど、大丈夫としか答えられそうになかった。
「……だいじょうぶ」
憤りの勢いをすっかり削がれた形になったのだろう。紅良も、花音も、気まずそうに顔を見合わせるばかりだった。
背後のホームを流れる発車メロディがやけに遠く聞こえ、自分が話を続けねばならないような気がして里緒は口を開いたが、生ぬるい息が無為に流れ出すばかりだった。
“ごめんなさい”なんて、ついに口に出せはしなかった。
「クラリネットをやっててよかった」
▶▶▶次回 『C.023 諍いの行方』