C.021 吹いてみたくて
ようやく一週間の授業日程が一巡したのは、入学式の翌週にあたる四月十五日のことだった。
夕方の国分寺駅は混んでいた。
ここは十一万人の人口を抱える国分寺市の中心駅であり、同時に中央線と西武鉄道の乗換駅でもある。下りのホームは電車が到着するたびに人で込み合い、出発すると空く、というサイクルを際限なく繰り返していた。
「んー! 疲れたー。今日も頑張った!」
隣に佇む花音が、下りホームの屋根を目掛けて思いきり腕を突き上げた。
クラリネットのケースを持っている里緒には、同じことはできない。ほどよく日焼けした手首が袖口に覗いているのを見上げながら、健康そうだなぁ、と目を細めた。最初の一週間を何とか切り抜けたことへの安堵で、身体が水分を含んだようにじっとりと重たかった。
きっと花音はそうではないのだろうと思う。なぜって、彼女は疲労の色を少しも浮かべることなく、双眸にきらきらと光を宿しながら里緒に話しかけてきているから。
「開場は十時半だから、日曜日は十時に隣の西国分寺に集合だねー。持ち物とかは何も要らないって言ってたよね?」
「た、たぶん」
「楽しみだなぁ、定演!」
うん、と里緒もうなずいた。こればかりは嘘偽りではなかった。
そう。今週末の日曜日はいよいよ、管弦楽部の主催する春季定期演奏会の日なのだ。
管弦楽部にとっては最大の新歓イベントだけに、部員たちの気合いの入り方も凄まじい。つい二十分前に音楽室を出た時も、『これ、家族とか周りの人たちに配って!』といって十数枚のカラー刷りビラを押し付けられてきたばかりであった。友達のいない私がこんなに持っててもな──。なんて、切ない本音を押し隠しながら、仕方なく里緒も受け取ってきた。
会場は西国分寺駅の南口に立つ国分寺市の施設、『陽だまり文化会館』Aホール。十時半に開場、十一時開演の予定である。
「寝坊しちゃダメだよ?」
「えと、大丈夫だと思う。毎朝五時半には起きてるから」
「毎朝!」
花音がすっとんきょうな声を上げた。
「えっ、日曜日も?」
「……うん」
「すごいなぁ。せっかく私、早起きして目覚ましコールしようと思ってたのに」
里緒は半笑いを浮かべてしまった。花音が言うと冗談に聞こえないのだ。
ともかく先輩たちには行くと約束してしまったから、日曜日は万が一にも寝過ごすことのないようにしなければならない。決意を新たにしてから、何気なく、胸に抱えたクラリネットのケースに目を落とした。
明日、これと同じ楽器を手にした美琴が、ステージの上で演奏する。
ケースをそっと撫でると、あの冷えた触感が手のひらの熱を吸い込んで、時間をかけて虚空に溶かしてゆく。
定演には原則として全部員が出席するのだという。もしも里緒が入部すれば、一年後にはもれなく里緒も定演のステージに立つことになる。
自分のためでなく、誰かを魅せるために演奏するという感覚を、里緒は知らない。他人にクラリネットを吹いて聴かせる機会など、入学からの一週間だけでも数え切れないほどあったけれど、思えば里緒が『魅せる』『聴かせる』意識で吹いたことは一度もなかった。ただ、自分の出せるせいいっぱいの理想の音色を奏でようとしただけ。それなのに褒め称えられるからこそ、いつも困り果ててしまうのだ。
(緊張とか、不安とか、きっと色んな気持ちがごちゃ混ぜになるんだろうな……。それを乗り越えなきゃ、演奏ができてもステージに立つことはできないんだ)
そういう壁を乗り越えた人を、世間では“オトナ”と呼称するのだろう。目の眩むような道のりの遠さに、思わず身震いが背骨を揺らした。
ねね、と花音が里緒のクラリネットケースをつついたのは、その時である。
「里緒ちゃん、約束のこと忘れてない?」
「や、約束?」
「ほらやっぱり忘れてるー! 一度でいいからそのクラリネット吹かせてー、って言ってたじゃん!」
里緒は返答を詰まらせた。
ここのところ数日間、毎日のように花音に『私も里緒ちゃんのクラリネット吹いてみたい!』とせがまれていたのである。どんな風に吹き方を解説したものか分からなくて、今まで、それとなくはぐらかし続けてきたのだった。
「もう断られ続けて五日なんだけど」
花音は膨れっ面をした。向かいのホームに滑り込んだ電車が、生暖かな風を里緒たちの顔に勢いよく撫で付けた。
「いいじゃんちょっとくらいー、壊したりしないから! ねっ」
「え、その、ここで……?」
「ここで!」
「で、でもここ、ホームだし、人いっぱいいるし」
「大丈夫大丈夫、だって先輩たち言ってたよ? クラリネットは難しいから初心者じゃほとんど音も出せないって!」
それは確かに事実だが……。里緒は戦々恐々と、辺りを見回した。つい一分前、高尾行きの中央特快が乗客たちをごっそり連れ去ったばかりの下り線ホームには、思った以上に人影が見当たらない。
いつか初めて教室で吹いた時のことが思い出された。
今なら、いけるか。
一発で音が出せたら儲けものである。仮に出せたとしても細やかな音に過ぎないだろうし、きっとそれで花音は満足を覚えてくれるはずだ。これ以上迫られるよりは、ここで貸しちゃった方がいい──。里緒の判断は結論に達した。
「き、気を付けてね?」
「もちろん!」
根拠の薄い断言を受けて、ベンチに座る。ぱちんと金具を外してケースを開くと、隣に腰掛けた花音が興奮も顕に手元を覗き込んできた。
ベルと下管、次いで上管、俵管、マウスピースの順で、クラリネットは下から組み立てるのが一般的である。前回の組み立て時にグリスを塗っておいたのが功を奏して、すぐに管体が組み上がった。こうして持ってみると、確かに、大きい。ソプラノクラリネットにしては非常識に長い構造をしている。
「すごい、手早い!」
感嘆の声を上げた花音へと、里緒は丁寧にクラリネットを手渡した。
「……持ち方、分かる?」
「うーん、何となく教わりはしたんだけど微妙……」
「上管には左手の指を添えて、下管は右手で持つの。あ、あと右手の親指には、この出っ張りみたいなところを引っかけて」
里緒の説明に従って、花音はおっかなびっくり音孔のところに指を持ってゆく。定演の練習で忙しい先輩部員たちが新入生に吹き方の指導を施さなかった理由が、里緒にも何となく察せられた。
ホーム上の客には里緒たちの姿は何と見えているのだろう。ネックストラップを首に装着したところで、「できた」と花音が嬉しそうに言った。「まだだよ」と里緒は慌てて言い添えた。マウスピースの準備が済んでいないのである。
「えと、ケースの中のリード、先っぽだけ舌で濡らしてみて」
里緒が指示すると、花音は大人しくリードを口にくわえた。わざわざ濡らしてしまうのは、乾燥したリードは繊維が収縮していて細かな振動に耐えられないからだと、かつて教本か何かで読んだことがあった。
「こう?」
「うん。それで、マウスピースの先頭にリガチャーで装着するの」
受け取ったリードをマウスピースの先に挟み込み、両側から金属金具で固定する。これで準備はできた。
「身体の力を抜いて。下唇は下の歯にちょっとかぶせて、その状態でマウスピースをくわえてみて。上唇は歯を覆うようにするといいかな。──うん、そんな感じ。その正しいくわえ方のこと、アンブシュアって言うの」
ようやくクラリネットが花音の口に収まった。飲み込みの早さに感謝しつつ、里緒は先を促した。
「腹式呼吸って覚えてる?」
「キョンシー先生が言ってたやつ?」
「……う、うん。あれを使って息を出せば、ちゃんと音になってくれると思う。お腹に力を入れて、吹いてみて」
奇天烈なあだ名に説明が引っ掛かってしまいそうになったが、何とか、言い切った。
こくっと黙って首肯した花音が、大きく息を吸う。
そんなに吸ったら口の端から漏れちゃうんじゃないか──。里緒の心配は彼女には伝わらず、花音は膨らんだ腹部から息を勢いよく送り出した。
「悪かったのはぜんぶ私なんだ」
▶▶▶次回 『C.022 些細な諍い』