番外編⑤ 入れ替わってる!? 【後編】
さすがに中身の入れ替わっている状態で互いの家に帰るわけにはいかない。無理を承知で、里緒は大祐に連絡を取ってみた。
【今夜友達が泊まりたいって言ってるんだけど、大丈夫かな】
大祐は紅良や花音と会ったことがないので、入れ替わりの事実に気付くこともないはずだ。しかし大祐は思いのほか深い気配りを見せてくれた。【外泊しようか?】と提案してくれたのである。
大祐が外に泊まってくれるのなら心配は要らない。ただちに里緒は提案を飲んだ。
「とりあえず今夜は三人で私のうちに泊まろう。いつまでこの状態が続くか分からないし」
そう声をかけると、「やった! 里緒ちゃんち泊まってみたかったんだ!」と紅良がはしゃいだ。再三になるが、今の紅良の中身は花音である。
「里緒の家、私たちは入り口までしか行ったことなかったしね。楽しみだな」
「へへーん、勝った! 私は玄関までなら踏み込んだことあるよ」
「そんなことでマウント取ってどうするっての」
呆れ気味の花音(紅良)も存外、久々の外泊に満更ではないらしい。着替えはひとまず高松家にあるもので賄うことにして、三人で立川を目指した。本当は管弦楽部や国立WOの練習もあったのだけれど、授業中ですら誤魔化すのが難しかったことを考えると、練習に参加するのはあまりにもリスクが大きいので断念せざるを得なかった。
道すがら、これまでに判明した情報を整理した。
紅良も花音も今朝早くに登校し、教室でしばらく時間を過ごしている。その後、なんらかの目的で階段を降りようとしてつまずき、紅良が下になる形で転倒した。入れ替わりが生じたのはその前後だと考えられる。
放課後まで証言を集めた結果、勉強中に花音がトイレに立ったこと、紅良が一つ下の階のトイレから出てくる姿をクラスメートが目撃したことも判明した。里緒たちの教室の位置する階のトイレは工事中で、先週から使えない状態が続いている。
「さっき、花音ちゃんのお母さんに電話した時、花音ちゃんの今朝の様子も聞いてみたんだ」
モノレールの吊革を握りながら里緒はノートを開いた。花音本人がしゃべると思わぬボロが出そうなので、千明に外泊許可を求める電話は里緒がかけたのだった。
「朝の時点では普通に花音ちゃんだったみたい。登校前の証言も考え合わせると、入れ替わったのは階段で転んだ時でほぼ確定だと思う」
「つまり、入れ替わりの原因は階段ですれ違った時に転んだこと?」
「ただ転んだだけで入れ替わるっていうのも無理のある話じゃないかな……。個人的には、二人がくっついたりなんかして繋がったせいなんじゃないかって思うんだけど」
二人が同時に転ぶなどとは考えづらい。自然に考えれば、花音の転倒に紅良が巻き込まれたということになるだろう。であれば転倒後の最低数秒間、紅良と花音は無意識に身体を密着させているはずだ。
「でもそれだと、私と里緒ちゃんなんか毎日のように入れ替わることになっちゃわない?」
毎日のように抱き着いてくる紅良(中身は花音)が首をひねった。
その点には里緒も思い当たっている。違いになるのは、意識の有無ではないかと思われる。
「その……二人が昨日のこと思い出せないのって、頭をぶつけた衝撃で記憶が飛んじゃってるからだと思うんだ。記憶喪失になるほどのダメージを受けたら、普通は脳震盪とか起こして気絶するものだと思うの」
「身体が密着した状態で意識を失った結果、入れ替わった──ってこと?」
花音が訝しげに眉をひそめる。しかし状況証拠からして、入れ替わりの経緯はそうとしか考えられないのも確かだった。
物は試しである。高松家についたら、ひとまず実行に移してみるしかない。
「えー、やだ。すっごいやだ。自分の顔した西元とくっつくなんて気色悪い……」
紅良がぼやくや、すかさず花音が「可愛い可愛いって自分の顔を褒めてたのはどこの誰よ」と皮肉る。自分が当事者だったら花音以上に嫌がっていたに違いないと、車窓に映る冴えない自分の顔を眺めながら里緒は嘆息した。
里緒と入れ替わって喜ぶ人間なんているのだろうか。
運動音痴で体力もなく、スタイルも悪く、おまけに顔だって少しも可愛くない。
しかし中身が花音や紅良に入れ替われば、素体の質が多少悪かろうが可愛く、あるいは格好よくなりそうに思える。自尊心や自信をまったく欠く里緒よりはましだろう。人間、大事なのは外見や能力よりも中身なんだな──。そんな真っ当な真実を、思わぬ形で思い知った気分になった。
モノレール駅沿いのスーパーで夕食を買い込み、三人で食卓を囲んだ。初めての高松家に花音も紅良も興奮気味だったが、当の里緒は終始、散らかっているのを見られるのが気恥ずかしくてならなかった。興奮の勢いでさっさと風呂にも入ってもらい、その間に手早く洗い物や洗濯物の片付けを済ませた。用意した着替えは恐ろしく地味なものばかりだったし、自分以外の人に袖を通されると思うと、不気味な高揚感で身体中が痒みを覚えた。
三人揃って寝間着に着替えれば、いよいよ入れ替わりの再現チャレンジが始まる。
推定される入れ替わりの発生条件は、『身体接触』と『昏倒』である。
「その、まずは普通にくっついてみよっか」
敷いた布団の上に二人を並べて指示すると、紅良も花音も嫌そうに顔を歪めた。少し考えて、「相手を私だと思って」と促すと、嫌々ながらも紅良が花音に手を伸ばした。
指先が触れ合って、おっかなびっくり絡みながら落ち着き場所を探そうとする。出会いたてのカップルを彷彿とさせるもどかしさだが、案の定、変化はない。
「やっぱり昏倒も必要かな……」
つぶやいたら、「どうやってやるわけ」と花音が顔を青くした。階段からの再度の転落を想像したようだが、そんな痛い真似をする必要はない。昏倒──つまり意識を失っている状態を、擬似的に再現できさえすればいい。
「意識を失うだけなら眠るのでもいいんじゃないかな。くっついたままぐっすり眠れば、階段で倒れて意識を失った時と同じ状況になると思うんだけど。ハグしながらとか……」
提案しながら早くも、これは嫌がられるだろうな──と予感がまたたいた。思った通り紅良も花音も「そんなの無理!」と叫んだ。
「西元とハグ!? 無理ぜったい無理! 里緒ちゃんとだったらいい!」
「私もハグはさすがにちょっと……。もっと他にやり方は思い付かないわけ」
「気持ちはわかるけど、その、これが一番確実だと思うから」
わざわざハグを指定したのは、睡眠中に二人の身体が離れて実験が失敗する危険性を減らすためでもある。その旨を説明してもなお、紅良と花音の暗い顔は揺らがなかった。
が、最後には結局、折れた。
「……仕方ないか」
諦め顔の花音が来客用の布団に横たわり、紅良のためにスペースを空ける。初めて海に浸かる人のような顔をしながら、紅良が隣に寝転んだ。里緒が上からそっと掛け布団を乗せてやると、布団の中で二人はもぞもぞと向かい合い、互いに手を伸ばした。目を必死に逸らしているのが里緒にも分かった。
ただ傍観しているだけの里緒にも、この光景はかなり恥ずかしい。当人たちも顔を真っ赤にしながら相手を抱き締めにかかっている。
「うわ……西元めっちゃ熱い……キモい……」
「残念ながら花音がキモい呼ばわりしてるのは花音自身の身体よ。てか、蒸すな、これ……」
「うぇー……里緒ちゃん替わろうよ、こっちおいでよ……」
「里緒まで混じったら話がややこしくなるじゃない……」
「ややこしくなんてならないもん、私のハグの相手が里緒ちゃんになるだけだし」
「そしたら花音と里緒が入れ替わってややこしくなるでしょうが、バカ」
「うわー! またバカ呼ばわりした! 自分の顔に言われるとますますむかつく!」
「その発言そっくりそのまま返させてもらうから」
やはり姿が変わったところで、二人の口論の調子になんら変化はない。しかし紅良が紅良の声で甘えようとしてくるのはなかなか不気味だった。冷徹なセリフ回しの花音もだいぶ怖いし、これはしばらくトラウマになる気がする。寒気を覚えながら電気を消して、里緒も自分の布団に収まった。
紅良と花音はそれからもしばらくぎゃあぎゃあと言い争っていたようだ。
次第に眠気が強まってきたので、口論がどのように終結したのか里緒は知らない。「おやすみ」の一言を口にするタイミングを逸しているうちに、いつの間にか二人の言い合いをBGMにしながら里緒は寝落ちてしまった。気の休まらない一日だったせいか、身体も、心も、くたびれきっていた。
運命の翌朝、里緒は真っ先に目を覚ました。
壁掛け時計は午前五時を差している。いつもの癖で早起きしたらしい。寝ぼけ眼を擦りながら上半身を起こし、あたりを見回すと、隣の布団にくるまる人影が見当たる。人影の正体が大祐ではなく紅良と花音であることに気づいた途端、昨夜の出来事を里緒は一瞬で思い出した。
そうだ。
二人の中身は入れ替わってしまっていたのだ。
「んん……?」
花音が寝言らしき何かを漏らした。抱き枕よろしくしっかりと紅良を抱き寄せつつ、満足げな表情で眠りに就いている。
昨夜あれだけ文句を垂れていた割に、ずいぶんな寝付きのよさである。甘えたがりの花音らしい無邪気な寝顔に、思わず口角が持ち上がるのを里緒は覚えた。
(……甘えたがり?)
ふと、その五文字が里緒の脳裏を過った。
花音の中身が紅良なら、こんな甘え方はしないはず。ということは、これは──。
「ふぁ」
花音が大あくびをした。早くも不穏な予感を察知した里緒が距離を取ったことにも気づかず、彼女は二度、三度ほどのあくびを経て、目を覚ました。花音が寝覚めのいい朝型少女であることを、今さらのように里緒は思い出した。
「ん…………?」
とろんと溶けそうな眼差しの花音が、たったいま自分の抱き締めているものに目を向ける。
彼女はバッタの要領で紅良から飛び退いた。
「うわ! うわー!? 私なんで西元のこと!? うわー嫌────!」
紅良を“西元”と呼んでいる。これはいよいよ、中身が本物の花音に戻っていると見て間違いない。
安堵を覚えたらいいやら、これから起こる小波乱を警戒したらいいやら、布団にくるまって身を守りながら里緒は思案に暮れた。そうこうしている間も花音は大声で不快感を露にしている。
「……誰よ、うるさいな。朝っぱらから」
花音の声に叩き起こされたのか、当の紅良もぐったりと重たい息を漏らしながら上半身を持ち上げた。話し言葉の雰囲気からして、やはり紅良も元の中身に戻っているらしい。
里緒たちの実験は無事、成功したのだ。
「信じらんない! なんで私西元と一緒の布団で寝てたの!? うわー里緒ちゃんならまだしも! 西元と! 抱き合ってた! 無理!」
「はぁ……? 無理はこっちのセリフよ、バカ」
「しかもバカ呼ばわりしてくるし! 西元なんか嫌い! 私の周囲半径十メートル以内に入ってこないで!」
「この狭い部屋で十メートルも距離を取れる方法があるなら教えてほしいところなんだけど」
ひとしきり騒いだ二人は、そこでようやく寝室を見回し、布団の殻にこもって一部始終を眺めている里緒の存在に気づいた。「おはよう」と曖昧に笑って返すと、花音も、紅良も、首をひねった。
「あれ、里緒ちゃんだ」
「というかここ、どこ?」
「お、覚えてないの? 二人の中身が入れ替わっちゃったから、元に戻すためにって昨日……」
「入れ替わり?」
尋ね返す花音の口ぶりはあまりにも自然だった。知らんぷりをしているようには聞こえない。
里緒の胸には嫌な予感が芽生え始めた。
これはもしや、二人とも入れ替わりの事実を忘れてしまっているのではないか。
「私と花音が入れ替わったってこと?」
「最悪じゃない、それ?」
「紛れもなく最悪ね。私の姿格好した花音とか、頭が悪くなったみたいに見えるだろうし……」
「ふーん、奇遇だね。私も西元の魂が入って知識ひけらかし嫌味女になった私とか見たくないもん」
事実そのような振る舞いを見せていたとも知らずに、紅良も花音もさりげなく相手を罵倒しながら入れ替わりを嫌がっている。そうか、そういえば昨日も入れ替わりの前後の記憶が飛んでたっけ──。記憶喪失の経緯に納得した里緒は、ようやく布団を剥いで立ち上がり、いそいそと制服に着替えた。
あの妙な出来事を覚えているのが自分だけと思うとちょっぴり寂しいけれど、仕方あるまい。中身が戻ったことの方が重要なのだから。
「ちょっと早いけど、朝ご飯にしよっか。なに食べたい?」
キッチンに向かいながら問いかけると、「ご飯がいいな」「パン食べたい!」と二者二様の答えが飛んできた。苦笑しつつエプロンを身につけ、炊飯器とオーブントースターにそれぞれをセットして朝食の準備を始めた。大あくびで最後の眠気を払った二人が、キッチンの入り口までやってきて里緒の手際を眺め始めた。
たまには中身が入れ替わるのも面白いけれど、やっぱり紅良は紅良、花音は花音がいい。
平穏無事な釣り合いを取り戻した世界の片隅で、里緒はつくづく、そう思うのだ。
これにて、本編・続編・番外編の連載は完結です。
次話からはおまけ編をお送りします。ラインナップは以下の通りです!
① 登場人物紹介(全5回。作中キャラクター91名の詳細な解説です)
② 登場用語紹介(作中の架空用語98項目をなんとなく解説してゆきます)
③ 作中年表(作中の出来事を時系列順に並べてみました。本編の復習にはぴったりの内容です)
④ 作中楽曲解説(本編・続編に登場した数々の曲を紹介します)
⑤ 関連作品・参考文献紹介(本作の執筆にあたり先行作品として研究したものや、より直接参考にした本の紹介をします)
⑥ 『クラリオンの息吹』裏話あれこれ(本作に仕込まれた数々の小ネタや裏話、制作秘話などを一挙に紹介します)
⑦ 『クラリオンの息吹』なんでもランキング!(作中に見え隠れする様々なデータを統計にまとめてみました)
⑧ 頂き物イラスト紹介
おまけ編の公開後、あとがき・Postludeを公開し、『クラリオンの息吹』は全編完結となります。