番外編③ 不都合な思い出
今回のお題はKさんから頂きました。
お題は「須磨先生の過去の出来事」です!
──ファイルや教本の束を抱えて音楽室の前に立つと、近頃は少しばかり息が上がる。階段の昇り降りが原因でないことは、自分自身、なんとなく理解していた。
扉の向こうからは喧嘩らしき言い争いが聞こえている。
この部では最近、喧嘩を目にする機会が増えた気がする。また少しばかり強張った肩をほぐしつつ、京士郎は扉の取っ手に指をかけた。重たいスライド音が否応なしに響き渡り、中の部員たちが一斉に入り口を振り向いた。
血眼で向かい合っている二年生たちの姿がある。取っ組み合いにまでは発展していないようだ。
「──須磨先生」
「どうしたんだ。トラブルか」
なるべく平素と同じ声色を装いつつ、後ろ手に扉を閉めて室内に踏み込んだ。部員たちは一様にうつむき、ほうぼうへ視線を散らせる。唯一、部長を務める三年生の女子が、遠慮がちな口ぶりで事情説明を始めた。
「■■と■■■ちゃんが、ちょっと。……演奏番号Cの出だしのところ、ペットがいつもタイミング外して怒られてたじゃないですか。あれ、■■■ちゃんの練習不足じゃないかって■■が咎めたら、揉め事になっちゃって」
弦国管弦楽部は折しも文化祭に向け、発表曲の練習に励んでいる最中だった。四ヶ月前の立川音楽まつりでは、生徒に曲選択をさせてみたら難易度の極端に低い曲を選んできたので、今度は京士郎がやや難しめの曲を提示し、部員たちもそれに従って練習を進めている。しかしながら如何せん練度が及んでいない。合奏のたびにボロが十ヶ所単位で散見され、京士郎の方でも厳しめに現状を憂えていたところだった。
「そりゃ、練習不足なんて言うのは簡単ですよね」
責められていた側の子は声を震わせ、眼前の少女を血走った目で睨んでいる。自慢のポニーテールが今日は萎びて見える。視界の外の顧問にも聞かせるように、「でも」と彼女は呻いた。
「あたしだって毎日のように居残りでやってんですよ。最近なんか朝練だって始めました。練習法だって須磨先生に習った通りに進めてる。これ以上いったい何をすればいいって言うんですか?」
「だからその練習が足りないっつってんでしょ!? あんたにはできなくてもうちや■っちにはできてんだよ! ペットパートの足引っ張ってる自覚を持ってよね!」
「具体的に何がどう足りないっての!? ひとつひとつ挙げられなきゃ分かんないよ!」
手厳しい反論にポニテの少女が激昂し、またも喧嘩が再開しそうになる。半泣きで対峙する二人の間に強引に割って入った京士郎は、「まあまあ」と控えめに宥めの文句を発した。音楽を教えることに一家言はあっても、人間関係のいざこざを収めることについては京士郎はまったくの門外漢だった。
「言い合いしたって何も解決しないだろう。■■■くん、本当にやれることは全部やってるのか?」
唇を噛んだポニテ少女が、涙の粒を振り撒きながらうなずく。ボブカットの髪を振りかざし、「やってないですよ!」と相手の子が叫んだ。
「■■■はただ漫然と練習してただけです! 本当に必要な練習が何なのかも見極めようとしないで、先生に与えられた練習メニューを受動的にこなしてるだけ! そんなので上手くなったら誰も苦労しないし!」
「待て待て、今のは聞き捨てならないぞ。僕は僕なりに最適な練習メニューを考えて……」
「それじゃ足りないから■■■は足を引っ張ってるんじゃないですかっ!」
彼女の咆哮は突風のようだった。怯んだあまり京士郎は息を詰まらせ、反駁の端緒を開くことさえできなくなった。
言われてみると確かにその通りだ。
これまで自分なりに膨大な時間を割き、部員ひとりひとりに適したメニューを示して成長を促してきたつもりだった。むろん今回も例外ではない。ポニテの子にもボブの子にも部長にも、今回の曲を演奏するために必要なスキルを育てるべく、さまざまな形で練習の面倒を見てきている。
それが、役に立っていない。
ポニテの子の技量不足は京士郎の指導不足でもあるのである。
「簡単に言わないでよっ! 誰でも彼でも■■みたいに練習の調整ができるわけじゃないし!」
「はぁ!? できるできないじゃないでしょ、やるんだよ! みんなやってんだから!」
「これでも私生活犠牲にして頑張ってるのに、そんな……そんな言い方することないじゃん……っ! 買い物の時間もなくなって、家でゆっくりする時間もなくなって、学校の休み時間だって休みじゃなくなって……! そのうえ練習の工夫まで自力でやらなきゃならないってわけ? これ以上の何を減らせっていうの!? 日常のすべてをこの部に費やせっていうのっ!?」
ポニテの子の泣き叫ぶ声が音楽室に充満した。睫毛の奥に瞳を伏せた部長が、ついに京士郎からも目を背けてうなだれる。居並ぶ部員たちがうつむいているのは二人を目に入れないためなのだと、その時になってようやく京士郎は理解した。
唾を派手に飛ばされたボブの子は立ち尽くしている。
不意に、彼女の頬にも白い光が燃えた。すくめた首を震える肩のなかに埋めながら、彼女は喘ぐように言葉を紡いだ。
「……うちだって、好きでここまでやってるわけじゃない」
胸を衝かれる感覚が京士郎を襲った。
「コンクールでもないのに厳しい練習に勤しんで、苦しんでさぁ、こんなの望んでるわけないじゃん……。だけどうちが頑張らなかったら音楽は崩壊するし、頑張ってるのはみんな同じだし、だから今まで頑張ってきたんじゃん……。それなのに■■■みたいなののせいで、うちの努力がみんな台無しになるんだ……。泣きたいのはこっちだよ……っ」
にわかには信じがたい発言だった。目の前が曇ってゆくような気分がして、京士郎はうなだれた。あんな言われ方をされては疑いようもない。
──知らなかった。
管弦楽部の生徒たちは皆、自発的に部に参加して、よりよい演奏を何よりも夢見ている人種なのだと思い込んでいた。もう二年間も。
けれども目の前の少女たちはそうではなかったのだ。きっと他にもそういう子がいるのだろう。彼女の口にした涙混じりの本音は、京士郎の固定観念を復旧不能なほど粉々に壊していった。
今度こそ音楽室には不気味な静寂が垂れ込めた。
誰のせいにしたらいいのか分からない危うさの中で、今、管弦楽部はぎりぎりの安定を保っている。こういう場面で顧問たる自分が発信すべき言葉は何だろうと、京士郎は必死に思慮を巡らした。
けれども、受けたショックを和らげることにばかり脳が資源を費やして、それらしい言葉は何一つ浮かばない。
時刻は午後四時になろうとしている。このまま突っ立っていては、今日という一日を棒に振りかねない。背中を押す焦燥感が妙に鮮やかで、促されるままに京士郎は手を叩いてしまった。
「ほ、ほら、口ばかり動かしても現状が変わることはないぞ。とりあえず練習を始めよう」
最悪の一手を打ったことに気づいた時には、すでに部員たちが顔を上げていた。
彼らの視線は豹変していた。まるで、場の空気を破壊した原因を京士郎に求めるかのように。うろたえる間もなく、傍らに立っていた部長がおもむろに口を開いて切り出した。
「……先生。ずっと言い出したかったんですけど、しばらく私たちに距離を置かせてもらえませんか」
京士郎には一瞬、何を申し出られたのか理解できなかった。
「この何ヶ月か、みんなで考え続けてきたんです。私たち、やっぱり先生とは部活動に対する認識が違うんだと思います。私たちにとって管弦楽部は、肩の力を抜いて音楽を味わえる空間であればよかった。でも先生にとっては、そうではないんですよね」
「お、おいおい待ってくれ。それは一体どういう──」
「毎日遅くまで厳しい練習を重ねて、限界を超えるレベルの曲に血を吐きながら挑む。私たち、そんな部活は求めていなかったんです」
部長の眼差しは真剣そのものだった。彼らは今、京士郎を排除の対象に据え、部内の秩序を取り戻そうとしている。そうと分かっていても京士郎はなお反論できず、部長が何らかの宣告を口にする瞬間を待つしかなかった。宣告の内容にも、なんとなく見当がついていた。
「先生の指導方針も理解しますが、指導を受ける立場の私たちにも、指導の内容の取捨選択をする権利があっていいと思うんです。……もっと自由にやらせてください。私たちなりの部のあり方を探る猶予を、私たちにください」
「…………」
「■■■ちゃんと■■の喧嘩も、それで収まると思います」
だめ押しのごとく部長は続ける。二人とも京士郎の指導方針に反発しているのは明らかなのだから、部長の言葉に嘘はなかろう。
答える代わりに京士郎はきびすを返した。
一度も開くことのなかったファイルがずっしりと指に食い込む。重たい色のドアに向き直り、深呼吸をひとつ挟むと、なんだか京士郎まで涙が出そうになった。部長の拒絶を受けた瞬間、音楽室特有の息苦しさから解放されたことに、最悪のタイミングで気づいてしまったからだった。
「……そうか」
涙を圧し殺して、応じた。
「それじゃ、好きに進めてくれ。……僕は職員室に戻ってるから」
引き留めの言葉が脊髄を潤すことはなかった。とぼとぼと廊下に歩み出て、後ろ手に扉を閉めると、たった数分の間に起こった破滅の一部始終が、ようやく冷静に頭のなかへ読み込まれた。
京士郎は管弦楽部にとって不必要な人間なのだ。
否──たった今から不必要になった。
「もっと自由に、か……」
嘲笑する言葉は虚しく廊下を転がって砕けた。思えば、兆候は山のようにあった気もする。立川音楽まつりの曲選択で簡単な曲を提示してきたのも、当時は単に自信がないのかと思ったが、なんのことはない。あれは難易度を釣り上げたがる京士郎に対する当て擦りであり、行き過ぎに対する警告でもあったのだ。
ともかく廊下にいても始まらない。覚束ない足取りで職員室に向かった。一応、部員の誰か一人くらいは訪ねてくる可能性があるかと考えたが、今しがた彼らの向けてきた視線からして、その可能性は限りなくゼロに等しかった。
外が明るいうちに帰宅の準備をするのは久しぶりだった。茫然とするほどに、懐かしかった。
自分はどこで失敗したのだろう。
どこで道を間違えたのだろう。
考えれば考えるほどに自分が、管弦楽部が、分からなくなる。果たして彼らと自分とはいつからすれ違い、歪んだ関係を保ち続けてきたのか。分かっていたらこんな苦労はしなかった。分からない、分からない、分かるわけがない。こんなに重たい頭で分かってたまるか──。
「──須磨先生?」
聞き覚えのある声が名前を呼ぶ。
夢とも現ともつかない靄の海から、ぐったりと京士郎は意識を持ち上げた。沈み込むまぶたを強引に開くと、正面の窓から燦々と差し込む陽の光に網膜を焼かれる。「う……」と呻いたら、視界の外で「起きたね」と少女たちの声が交わされた。
夢の中で聴いた声ではない。
京士郎は現実に戻ってきていた。
「居眠りですか?」
苦笑したのは現部長の子だった。腕時計を見ると、時刻は午後五時を回ろうとしている。普段の管弦楽部の練習スケジュールなら、すでに全体練習に突入している頃合いだった。
「そうだな、疲れてたらしい……。君たちはどうしたんだ」
悪い夢を見ていたことはひた隠しにしつつ、笑顔を繕って部長を振り返った。部長を含む三人の部員たちは、持参した総譜を京士郎の前に広げた。
「あの、先週末の練習の時、演奏番号Cの冒頭でペットパートがつまづいてたの、覚えてらっしゃいますか」
「ああ。覚えてる。入りの音を思いきって力強く出すように助言したはずだけども……」
「それです! さっき合わせてみたらずいぶん音がのびのび出るようになってたので、先生にも聴いていただきたいなと思って」
彼女たちは進捗の確認を頼みに来たようだ。頭を振って思考の詰まりを解消した京士郎は、「わかった」と応諾した。
「お願いします」
頬に色を差した部長が、さ、と一行を先導する。部員たちに連れられ、資料や総譜をまとめた京士郎は席を立った。
京士郎は今、基礎練を除いて管弦楽部の練習には基本的に顔を出さず、こうして部員からの要請があるたびに職員室と音楽室を往復するスタイルを取っている。今回のように部員の誰かが職員室まで京士郎を訪ねてくるのも珍しいことではないし、一日のうちに三度、四度と呼び止められて指導を仰がれるのもざらだ。部員たちは予想していた以上に、京士郎の存在を積極的に活用している。
これが顧問のあるべき理想の姿なのかと問われれば、京士郎には何とも答えようがなかった。
弦国管弦楽部との間に横たわる今の距離感は、京士郎と部員たちが互いに数年もの期間を費やして見いだしたものだ。よその学校の吹奏楽部で京士郎のやり方が通用するかは分からないが、少なくとも弦国では今、京士郎は部に受け入れられている。
……いや、あるいはそれすらも不確定だ。受け入れられていると感じているのは京士郎だけかもしれないのだから。
もはや疑いはとうに晴れているはずなのに、昔の夢を見るたびに未来が不安になる。
「……なぁ、君たち」
連れ立って音楽室へ向かう部員たちのしんがりを歩きながら、ふと、京士郎は声をかけた。
「なんですかー?」
返ってきた声はあまりにも朗らかだった。一瞬、続きを口にするのが躊躇われたが、思いきって京士郎は唇をこじ開けた。
「もしも……もしもだが、僕の指導のやり方に気に食わない部分があったら、いつでもきちんと話してくれ。管弦楽部の主人公は顧問の僕じゃなく、君たち部員なんだからな」
「えー? 突然なんですか、それ」
「不満ある?」
「うちはないけど」
「あたしもないなー」
互いを見交わしながら部員たちは笑い合う。こちらの懸念が一握りも露見していないことに安堵していると、くるりとかかとを回した部長が「先生って変に控え目な部分をお持ちですよね」と苦笑した。
「悪いか。控え目なのは美徳だろう」
「先生の心配される気持ちも分かりますけど、私たち、先生にはすごく感謝してますよ。いつでも音楽室にいてほしいくらいです」
さも当然の事実を吐くかのような口ぶりで、部長は京士郎の存在を肯定した。
あの胸を衝かれるような感覚が、またも京士郎を襲った。勘づかれることのないように嘆息で痛みを逃がし、染み渡る温かな感情を中和した京士郎は、
「……それならいいんだ」
そう応じて、笑ってみた。
須磨京士郎、三十代。
楽な教師人生ではなかった。遠回りや葛藤に身をやつし、独りで苦しむ夜を幾度も越えてきた。今も時おり当時の夢を見ては、不安に駆られて周囲の安全を確かめる。
だが、かつて管弦楽部との関係を悩み続けた時間は少なくとも無駄ではなかったと、今は胸を張って言えそうだ。
「里緒ちゃん助けてよぅ……! ずっと西元の姿なんてやだぁ……!」
▶▶▶次回 番外編④『入れ替わってる!? 【前編】』




