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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
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番外編② 気になる隣の子

今回のお題は華月蒼.さんから頂きました。

お題は「よくくららたんに絡んでくる嫌味セーラーの奏良ちゃんのスピンオフ」です!


 




 今日もまた、苦手なアイツと出会ってしまった。




「…………」


 ノートの端に引っ掛かったまま動かないシャーペンを下ろし、守山奏良は潜めた息をゆるゆるとこぼした。ほんのわずかな油断で、今しがた背後の席に腰掛けた少女に気づかれる気がした。

 この目で確かに見届けたのだ。

 すぐ後ろの席に、西元紅良が着座する瞬間を。

 何しに来たんだ、あいつ──。強張る身体をなだめ、背中をねじって振り返ると、紅良は折しもカバンから出した楽譜を机の上に広げつつ、メニューに目を通しているところだった。

 勉強が目当てではないようだ。

 ほんのちょっぴり、安心した。


(何ひとつ安心じゃないんだけどさ)


 無意識にテーブルに立てた人差し指が、とんとんと貧乏揺すりよろしく軽妙なリズムを刻む。危ない、これでは気づかれる。自覚した瞬間に慌てて音立てを止めた奏良は、店員を呼んだ紅良が注文を済ませる声を耳の縁に感じ取りつつ、自らのテーブルいっぱいに広げられた答案類を見回して、得も言われぬ虚脱感に包まれた。

 憂鬱だ。

 この答案も、西元紅良も。




 かつて紅良は不倶戴天の敵だった。吹奏楽部の思い出をめちゃくちゃに引っ掻き回してくれた、恨んでも恨みきれない悪夢の存在だった。せめて溜飲だけでも下げてやろうと、顔を合わせるたびに悪口を塗り込めた台詞で罵倒していたのが懐かしい。

 けれども今、あの頃と同じことを紅良にしてやりたいとは思わない。

 吹部の楽しい日々を奪われた奏良が紅良に憤っていたように、紅良もまた、奏良を含む有象無象の部員たちに中学の華やかな生活を破壊され、人知れない暗闇で苦しんでいたのだ。新たに入部した高校の吹奏楽部でコンクールのメンバーオーディションに落選し、そのことを巡って周囲と揉めたために、奏良は思いがけず『周囲に理解されない』という苦しみを味わった。かつて紅良もまた、似たような辛酸を舐めさせられていたのだと思う。だから、今の奏良にとって紅良は理解不能な存在ではないし、かつてのような軋轢を実感することもなくなった。

 もはや紅良は奏良の敵ではない。

 そんなことは嫌というほど(わきま)えている。


「お待たせ致しました、ストロベリーソースがけのスイートパンケーキになります」


 ──注文の品を運んできた店員の声で奏良は我に返った。奏良にはそんな贅沢なデザートを注文した覚えはない。したとしたら、背後の紅良である。


「ありがとうございます」


 案の定、紅良が受け取った。店員の遠ざかる音も待たずして、紅良はテーブルの脇に添えられた食器入れからナイフやフォークを掴み、デザートを味わい始める。後ろを振り向く勇気もない奏良は、それらすべての所作を音のみで感じ取った。

 感じ取りながら、罵った。


(西元の分際でスイートパンケーキとか美味しそうなもん優雅に食べんなよ。むっかつく)


 こちとらドリンクバー単品で我慢しているというのに、紅良のせいで要らん食欲が頭をもたげてきた。こういう怒りのことを“理不尽”と言うのだろう。しかし今の奏良には紅良よりも自らの身の上の方が憐れだったので、多少の理不尽くらい当然に許されてしかるべきだと思う。

 紅良は首からイヤホンを下げていた。こっそり背後を窺うと、そのイヤホンを装着したままパンケーキを頬張りつつ、楽譜や教本を熱心に読み込んでいる後頭部が見当たった。何を聴いているのかは知らないが、楽譜の曲でも聴き込んでいるのだろう。いずれにしても奏良(こちら)の声が届くことはない。


「はぁ……」


 やりきれない思いが自然と嘆息に変わって濁る。元の席に戻った奏良は、山と残った手付かずの答案に書き込まれた点数を前にして、またひとつ、嘆息した。テンションが下がっている直接の原因は紅良ではなく、この答案類だった。

 芸文附属は学業に厳しい学校だ。人を魅了する者、人を教え諭す者、教養を疎かにしてはならぬ。そんな校是のもと、各教科の授業では毎週のようにテストが行われ、赤点を採れば解き直しを要求される。奏良の手元に広漠と並べられているのは、そんな解き直し答案の数々だった。

 奏良は努力が好きだ。

 さりとて勉強が好きなわけではない。

 特に数学や国語が嫌いだ。いくら努力を積もうとも、センスがなければ高得点は伺えない。場合の数や確率の問題にはずいぶん苦戦させられた。今でこそ多少なりとも問題の趣旨を()めるようになったものの、それ以前の段階では小テストで零点すら連発する悲惨さを誇った。

 眺めていても課題は減らない。仕方なく、手前にあった数学の小テストをめくり上げ、間違えている問題に丸い印を刻んで目立たせる作業に勤しんだ。──十八点。惨めなものだ。


(西元はずるいよな)


 計算用紙に問題文の式を写しながら、恨みがましい邪念が胸のうちへ膨らんだ。

 中学の頃、紅良が学校のテストで苦戦していた場面なんて見た覚えがない。芸文附属より偏差値の高い難関校の弦国にも悠々と合格してみせた。あまつさえ、吹奏楽部でクラリネットを取り回している間も、初歩的なミスや覚えの悪さを露呈させることなど一度もなかった。

 奏良が秀才肌ならば、紅良は天才肌だと思う。紅良が奏良をどう思っているのかは知らないが、奏良の目から見れば、紅良にできて奏良に真似できないことなど山のようにある。

 無用な苛立ちが募るのも、きっとそのせいだ。


(あーあ……。こんなの早く終わらせて遊びたい、クラ吹きたい)


 などと嘆く時間ももったいないが、嘆かずにはいられない。それでも嫌々ながらに解き直しを五分ほど進めた。あっという間に頭が煮詰まったので、空のグラスを口実のつもりで掴んで席を逃げ出した。


(私が西元だったら、たったこれだけの時間で解き直しの一問や二問は終えてるんだろうにな)


 ぼやきながら氷を()ぎ、適当にジュースを選び、流し込む。せっかく手にした休憩の名目は、あっという間に崩れて終わった。

 重たい足を引きずって席に戻りつつ、こういうときだけ『紅良と仲良くしておくべきだった』と後悔する己の弱さを奏良は恥じ入りたくなる。別に、仲が悪いわけではない。和解を果たした今は時おり、街中で再会しては遊びにいくことさえある。

 ただ単に癪なのだ。

 あの憎き紅良に頼るのが。


「…………」


 髪を掻き(むし)った手でグラスを手に、自席へ戻った。席を立ったときに手でも突いて動かしてしまったのか、答案の向きが変わっていた。


「三番、正弦定理を使えば解ける」


 何気ない調子のアドバイスが、どこからともなく飛んできた。正弦定理って何だっけ──。教科書に載っていた図を思い返しながら、ずっと解けずに残していた三番の問題へ奏良は目を通した。複雑怪奇な紋様の図形のなかに、正弦定理の応用できそうな三角形が確かに見当たった。


「あ、これか」

「その三角形の外接円を描くと、外心Rと点Cを結ぶ線の長さが求まるでしょ。あとは線分RCに平行する線を点Bから伸ばすと、そこに相似の三角形が……」


 言われるがままに問題の図をいじってゆくと、難解な図の構造はみるみるうちにほどけ始めた。各線と点の配置の意味が手に取るように分かり、こんぐらがった奏良の脳内を体系的に整頓してゆく。

 すごい。

 できる人ってこんな感覚なのか。

 いささかの感動すら覚えた奏良だったが、その瞬間、感じないふりをしていた違和感が激しく脳裏で明滅した。──背後から声がする。おまけに聞き覚えのある声だ。奏良がドリンクを取りに行っていた間に、紅良が席を立ったとも思えない。


「──解けたじゃない。あとは求める線分xの長さを三角関数で算出するだけ」


 淡々とした説明口調がようやくピリオドを打つ。彼女が奏良に興味をなくす前に、立ち上がった奏良は背後を勢いよく振り向いた。

 背もたれの向こうから紅良がこちらを見ていた。

 奏良が叫んだのは言うまでもない。


「ってなに見てんの!? 変態! 人が勉強してるとこ後ろから覗くとかどういう神経してるわけ!? マジで有り得ないんだけど!」

「意地でも私を罵倒したいんだろうけど、そんな怒ることでもないと思う」


 呆れ気味に紅良が口を挟んだが、紅良の言い分に耳を貸す気など奏良には毛頭なかった。だって、勉強に悪戦苦闘しているのを見られた。知られた。知られた時点で紅良は有罪だ。無茶を言っている自覚はある。


「だいたい守山、最初は素直に私のアドバイス聞いてたくせに」


 紅良が背もたれに頬杖をつく。「うるさい!」と怒鳴った奏良は、涼しい顔の彼女に指先を突き付けた。


「声かけてきたのが西元(あんた)だって分かってたらアドバイス聞いたりしなかったし! 騙し討ちって言うのよ、そーいうの!」

「あとからなら何だって言えるでしょ」

「うるさいうるさい! てか、私が後ろにいるの気づいてたならもっと普通に声かけろっての!」

「『うわぁ』とかさんざん嫌味なセリフ吐かれた挙げ句に席を変えられる未来が見えてるのに、誰が好きこのんでそんな真似するわけ」


 やりそうに見えるだけに反論も浮かばない。照れ隠しの憤りを口腔内にたっぷり溜め込んだ奏良は、むっと膨らんだ頬を拳で殴って割りながら、紅良のおかげで解けてしまった問題に向き直った。

 不可抗力に等しかったとはいえ、結局、こうして紅良の頭を頼る羽目になるとは。


(……てか、これ、西元は私の苦戦に早い段階から気づいてたってこと?)


 正弦定理のおかげで解法の見えた問題の図を前に、ふとした気付きが奏良の胸を照らした。小テストにはこれが正弦定理を用いる問題であるとは書いていない。幾何の問題とは書いてあるが、芸文附属の数学の学習進度など紅良は知らないはずである。

 するともしや、奏良の気づかぬうちに紅良は問題の内容を伺い、解法の手順を思案してくれていたのだろうか?


「あ……あのさ」


 うつむいたまま声を投げ掛けると、背後の紅良が姿勢を変える音がした。奏良は思いきって、浮かんできた感慨を吐き出した。


「その、教えてくれて、ありがと」

「……うわ、守山らしくもない。鳥肌立つな」


 ぼそっと紅良がこぼす。信じがたい言い草に奏良は顔を真っ赤にした。──せっかく勇気を出して伝えた純情を適当にあしらわれた!


「うっわ。やっぱ西元ないわ。最低! 一瞬でも善人であることを期待した自分がバカだった」

「勝手に期待されて勝手に裏切られる私の気持ちにもなってもらえない?」

「誰がなるかそんなの! ちょうどいいや、御託並べてないでさっさと続きも教えてよ。全問教えてくれるまで逃がさないから!」


 渾身の憎悪を込めて睨み返すと、紅良は暗めの色に沈んだ吐息を唇の端から漏らした。これでも精一杯の無理難題を押し付けたつもりだった。奏良の手元には今、解き直しの小テストが十七枚も溜まっている。せっかくの好意を仇で返された恨みはきっちり晴らしてやる所存だ。

 だが、紅良は嘆息したきり文句も言わず、涼しい顔のまま席を立ち、奏良の隣にやって来た。


「言われないでも教えてあげる気だったけどね」

「は……?」

「困ってるのが分かりきってる人を放っておく趣味はないの。最近、私ちょっとお節介焼きだから」


 うろたえるばかりの奏良など視界にも入れず、紅良はあくまで淡白な顔つきで小テストの束を吟味してゆく。あまりにも奏良が反応を返さないことに決まりの悪さを覚えたのか、紙をめくりながら「その」と彼女はぼやいた。


「……そっくりな態度で勉強を聞きに来る子が、友達に一人いて」


 どうやら素直になりきれていないのは、奏良も紅良も同じだったらしい。

 そのまま本当に紅良が解説を始めてしまったので、致し方なく、奏良も問題に目を戻した。

 高鳴り気味の拍動すら空気を伝わりかねないほどの距離を挟んで、ぴったり隣り合う奏良と紅良。遠ざかりすぎて距離感の分からなくなったこともあったし、急激に近寄りすぎた今もなお、適切な距離の取り方はよく分からない。奏良にも、それからきっと紅良にも。


(でもまぁ……。これは、これで、いいか)


 いつしか居心地の悪さは仄かな熱に変わって、霧消した怒りの代わりに奏良の心を温める。思い直しを新たにした奏良は、深呼吸をひとつ挟んだ。「何?」と紅良が尋ねてきたので、「何でもないですけど?」とつっけんどんに答えてやった。




 こんなぎこちない勉強も、たまには悪くない。










「ずっと言い出したかったんですけど、しばらく私たちに距離を置かせてもらえませんか」


▶▶▶次回 番外編③『不都合な思い出』

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