番外編① 花音はどこへ行く
番外編では、読者の方に募ったお題をもとに短編を掲載してゆきます。
今回のお題は亜鉛ちゃんさんから頂きました。
お題は「たまたま帰り道で見かけた花音ちゃんがいつもと違う方向に帰るのを不審に思って尾行するくらりおちゃん」です!
その日の花音は普段と様子が違っていた。
やけにそわそわと落ち着かない出で立ちで、解散前の連絡事項に耳を傾けている。
「じゃ、今日の練習はおしまいね。お疲れ様でした!」
「お疲れ様でしたー!」
部長の締めの言葉に、管弦楽部の部員たちは立ち上がって斉唱する。刹那、花音が素早く音楽室のドアに目をやった。里緒も釣られてそちらを見た。
ずいぶん珍しい。いつもの花音なら、部活の終了を宣言されるや否や一目散に里緒のもとに飛んできて「一緒に帰ろ!」と腕に絡まるのに。
「どうしたの? 用事?」
思わず訊くと、花音は肩を跳ね上げた。
「あ、えと、うん。ちょっと野暮用!」
「そ、そうなんだ。珍しいね」
「でしょ! だから私ちょっと今日は先に帰るねっ」
ちぐはぐさの抜けきらないやり取りを早々に切り上げ、花音は里緒の脇をするりと抜けて音楽室の扉に殺到した。ドアを開け、飛び出し、閉める。一瞬の早業にろくすっぽ対応することもできず、里緒は唖然と立ち尽くすばかりだった。
「……それは確かに珍しいな」
手元に広げた文庫本サイズの単語帳を閉じた紅良がつぶやく。ぱたん、と弾む音に心が萎むのを感じながら、隣の座席でうつむいた里緒は「うん」と両足の膝を揃えた。オレンジの電車を降りてきたばかりの乗客たちが、今しがた里緒の足の置かれていた場所を雑多に踏みつけながら歩いてゆく。
花音の足取りは本当に早く、行方はあっという間に分からなくなってしまった。仕方なく花音を欠いた仲間たちと国分寺駅に向かい、下り電車のホームに立ったら、たまたまそこに紅良がいた。図書館で勉強に励んでから帰宅する途中だったらしい。
「あの子が里緒を放り出してどこかに行くなんて、何かよっぽどの事情でもあるんじゃないの。部外者はそっとしておくのがいいよ」
「それは……そうだけど」
「誰しも詮索されたくない秘密くらい抱えてるものでしょ。もしも話してもいいようなレベルの事情なら、花音だったらとっくの昔に里緒に話してる」
さして関心も高くなさげに、スマホをいじくりながら紅良は里緒を諭しにかかる。里緒の胸には反論のひとつも浮かばなかった。当の里緒とて、かつて経験したいじめや母の自殺のことを、あまり好きこのんで周囲に言いふらす趣味はない。
「でもなぁ……。そんな重たい事情がありそうでもなかったのにな」
後ろ髪を引かれる感覚を言葉に出して表すと、底に沈んでいた本心の色がようやく露になった。
ああ。私、ただ置いていかれて寂しいだけなんだな──。そんな素朴で幼い感情に気づいて恥じ入りつつ、きっぱり花音の一件は忘れようと心掛けることにした。紅良の言う通り、自分の都合で花音の私生活に介入するのは好ましくない。
紅良は相変わらず、退屈げにスマホの上で指を踊らせている。間もなく二番線に下りの特快が到着するようだ。乗り込む列に並ぶべく、席を立って痺れを伸ばしつつ、何気のない所作で里緒は対岸の上り線ホームに目をやった。
そこに、花音がいた。
「……あれ」
無意識に落ちた感嘆を紅良が拾い上げた。「何?」と尋ねられたので、里緒は上り線の発着する三番線ホームを指差した。
弦国の制服は上着のパイピングで学年が判別できるようになっている。彼女が着ているブレザーの上着に入っているのは、里緒たちと同じ代を意味する青色のパイピングだ。加えて彼女の髪は二つ結び、前髪の流れ方もそっくり。ぱっちりと開いた黒の瞳が、花音のものと同じケースを装着したスマホを熱心に眺めている。
「花音っぽいな」
目をこすった紅良は、「いや」と眉根にしわを寄せた。同じ違和感を抱いているのに気づいて、里緒の肩からは少し、力が抜けた。
疑うのも無理はなかった。向かいのホームに立つ花音は、やけに可愛らしい化粧を顔に施している。
「あの子、化粧なんてしてきてたっけ」
「最後に音楽室を出ていった時点ではしてなかったと思うけど……」
「そもそも化粧とかしなさそうな子よね。わざわざ道具とか学校に持ってくるようにも思えない」
里緒は曖昧にうなずいた。実際問題、花音はそれなりに容姿に恵まれているので、化粧の必要に追われる心配とは無縁に見える。いくら化粧で顔の印象を変えられようとも、素の顔立ちが整っていることには敵いようがない。
しかし紅良の推論通りなら、花音が足早に音楽室を退出したのにも納得がいく。
「……もしかして花音ちゃん、メイクに不慣れだったから、私たちのこと置いて音楽室を出たのかな」
「だとしたら“野暮用”ってのはメイクのことだったことになるよね」
腕を組んだ紅良が続けた。いつしか彼女はスマホも単語帳もカバンに突っ込み、花音に目線を奪われている。
いずれにしても、花音はなぜメイクを施した上で、帰宅の方角とは異なる上り線のホームに立っているのだろう。
不意に、警笛を鳴らしながら特快の電車が滑り込んできた。「うわわ!」と慌てて飛び退いた里緒は、背後に立ち上がった紅良と思いがけず隣り合った。──普段の部活終わりなら、この距離には花音がいる。人前構わず甘えこそすれ、あんな具合に色気の乗った顔で里緒に迫ってくることはない。
「……気になるね、あれ」
耳元で紅良がつぶやいた。
里緒にはそれが紅良の敗北宣言に聞こえた。
急いで階段を駆け上がり、上り線のホームに向かう。間もなく上り三番線のホームには東京行きの特快が到着した。花音は先頭車両に乗り込んだので、後を追った里緒と紅良も、勘づかれないように一号車へ潜り込んだ。
こうして近くに寄ってみると、花音の表情はずいぶん奇妙だった。時おりスマホに目を落としては、浮かんできたメッセージの内容に口元を綻ばせている。大きな瞳が宿しているのは花音らしい好奇心いっぱいの光ではなく、むしろ妖艶で、うっとりとして、抱き締めたものに粘っこく絡むような色だ。
「私たちに気づきもしないね」
囁くと、紅良も複雑な面持ちで首肯した。思いがけない花音の変貌に戸惑っているのは、どうやら紅良も同じのようだった。
「メイクを施すのだけが“野暮用”とは思えないし、きっとこれから何かをしに行くんだろうけど……。メイクの必要な用事っていったい何だろう」
「しゃ、写真撮るとか? プリクラとか」
「あの花音がわざわざプリごときのためにメイクすると思う?」
「……しなさそう」
でしょ、と紅良が嘆息する。
揃いの格好で吊革に揺られながら、二人して一生懸命に花音の様子を伺った。けれども花音は特に妙な行動を起こすこともなく、スマホを見てはにやつき、また淡々と外の景色に視線を投げるのを繰り返した。電車が分岐器を通過して激しく振動するたび、里緒も、紅良も、静かな動揺をちょっぴり高まらせた。
一駅先の三鷹で特快を降りた花音は、ホームの反対側に停車していた快速電車に乗り換え、さらに先を目指してゆく。忍者の物真似で姿を隠しつつ、里緒と紅良も電車を乗り換えた。このままどこまで行く気なのだろう──。不安な思いが募り始めた矢先、次の吉祥寺で花音はあっさり電車を降りてしまった。慌てて里緒たちも花音の背中を追い、一号車最寄りの東口改札から外に出た。
立川ほどの隆盛はないにせよ、吉祥寺もまた多摩地区有数の繁華街だ。叩いてもあふれるほどの歩道の人波を、すいすいと花音は滑らかに泳ぎ進んでゆく。それは明らかに、この街に慣れた者の歩き方だった。どこからどれくらいの人が湧いて出るのか、すべて分かっている風に避けて歩く。
家電量販店、銀行、ディスカウントストア、大型駐車場、オフィスビル。四方八方どこを見上げても、首の痛くなるような高い建物ばかりだ。
「繁華街なら立川の方が近いのに、なんでわざわざ吉祥寺まで……っ」
必死に追いかけながら紅良がぼやいた。里緒も里緒で、逆向きに押し寄せる帰宅客の波を掻き分け、紅良の後をついて歩くので精一杯だった。
ようやく花音の背中を捉えた時、彼女は突き当たりのT字路を右に折れ、細い都道をすたすたと歩いてゆくところだった。すでに繁華街の中心部を外れ、道は吉祥寺東町の住宅街に突入してゆく。バレないように物陰に隠れ、歩き、また隠れ、また歩きながら、里緒たちは尾行を続けた。
花音は歩きながら熱心にスマホを見つめている。
普段の花音なら、歩きスマホなど絶対にしない。
(そんなに連絡を取りたい相手がいるってこと?)
導き出された結論は里緒の胸によく刺さった。落ち着いてよ、それこそ誰と仲良くしようが花音ちゃんの勝手なんだし──。高鳴る左胸に手を押し当てて動悸を鎮めた里緒は、急に背後の紅良が「あ」と声を上げたのにびっくりして立ち止まった。
花音も立ち止まっていた。
彼女の左手には公園がある。ぱっと面構えの華やいだ花音は、小さく手を振ったかと思いきや、公園の中に飛び込んでいった。花音の目的地はこの公園らしい。
抜き足差し足、紅良と一緒に公園の入り口を伺う。『宮本小路公園』という名前のようだ。園内の奥は森になっていて、手前の広場には小ぢんまりとした四阿が建っている。そこには男の子の姿があり、ちょうど花音が彼の隣に腰掛けたところを二人は目の当たりにした。
「……誰だろ、あれ」
そばの生け垣にしゃがんで姿を隠しながら、紅良が目を細めた。
見たところ、同い年くらいの男子高校生の姿をしている。背格好は花音を少し上回る程度だろうか。学ランのおかげで体格が分かりにくいが、どうも痩せ型で引き締まった身体の持ち主のようだ。その彼とぴったり身体を密着させる形で、花音はのびのび足を投げ出しながら何事か言葉を交わしている。
さすがの里緒も、その距離感が意味するものに気づかないほど鈍感ではなかった。
「まさか、ね……」
紅良の声が静かに震えている。しかし目の前の状況は、そのまさかこそが事実なのだと雄弁に語りつつある。示された事実に抗うすべを、里緒と紅良は何も持たなかった。
青柳花音には恋仲の相手がいたのである。
それも、里緒や紅良の与り知らぬところで。
(知らなかった)
里緒は目の奥がツンと痛むのを覚えた。置いてゆかれた寂しさよりも、今は大切な関係を秘密にされたショックの方が大きかった。花音は里緒に心を開いている、きっと話してくれるだろうと思っていたのに──。
だが、もしも里緒が花音の立場なら、言い出すのが怖くて秘匿を貫こうとしてしまう気もする。
「……“野暮用”の本命はこっちだったわけね。そりゃメイクもするわけだ」
ため息混じりの台詞を吐き捨てた紅良は、生け垣の縁に手をかけながらカップルの様子を見つめる。なんだかんだと言いつつ、彼女も花音の動向に興味津々である。こんなにも醜くて、愚かしくて、胸の鳴るような興奮を覚える興味も珍しい。里緒も紅良もすっかり無我夢中で、花音の観察に勤しんだ。
と。
花音と彼氏は立ち上がった。
しっかりと握られた互いの手を前に、里緒の掌はじわりと汗ばんだ。そのまま、二人は公園の奥にある薄暗い森の中へ立ち入ってゆく。すでに日も落ち、森の木立は鬱蒼とした沈黙にまみれている。背後の都道を走る車の音の波間に、二人が草木を踏みしめて歩く靴音が漂う。
ごそごそと紅良が身動ぎをした。里緒は首をすくめた。眼前で何が起ころうとしているのか、なんとなく予想がついた。
果たして。木々の狭間で向かい合った花音と彼氏は、抱き合うそぶりを見せながら互いの肩や腰に手を回し、唇を重ね始めた。
薄暗いおかげで細部は何も窺えない。が、見えなくとも十分だった。見えていたら発狂したかもしれない。そのくらい里緒はキスシーンを眺めることに耐性がなかった。おまけにカップルの片割れは里緒の親友である。生々しいことこの上ない。
花音たちは向きを変え、重ね方を変えながら、延々と互いの愛を交わし続ける。
「うわうわうわ」
手を宛がった口から身悶えの声が溢れ出した。強張った肩が痛みを放ち始めた。生け垣にかじりつくような姿勢でむこうを伺う紅良が、「進んでるな……」と静かに喘いだ。
どうしよう。
もっと近くで見たい。
けれども顔は見たくない。できれば知らないままでいたい、知らんぷりを決め込みたい。
この気持ちの正体はいったい何だろう。見当もつかないが、ともかく刻一刻と深まる困惑の渦の中で、里緒は確かに自覚した。──少なくとも羨望が微かに混じっているのは確かだ、と。
「あれ? 何してるの?」
背骨を貫いて届いた誰かの声に、里緒はいっとき、心臓が止まったかと思った。
それは聞き慣れた花音の声だったのである。
「誰……!?」
慌ただしく振り向いた紅良が声を失った。
恐る恐る真似をした里緒の目に映ったのは、今しがた木々の向こうで濃厚な愛を交わしていたはずの花音だった。花音は小首を傾げ、覗きの格好で公園の中を窺っていた里緒たちに訝しげな眼差しを注いでいる。
瓜二つの花音が、あちらとこちらに一人ずつ。
もはや里緒にはどちらが本物か分からない。
「花音……よね?」
ひび割れ気味の声で紅良が尋ねるや、「当たり前じゃん」と花音は唇を尖らせた。その顔にメイクの類いは施されていなかった。
「てか、なんで吉祥寺にいるの? たまたま?」
「たまたまも何も私たち、国分寺の駅で花音を見かけたから、追いかけようと……」
珍しくうろたえた紅良の目が、園内のカップルを探して迷っている。里緒はすぐに二人を見つけ出した。キスですら飽き足りなくなったのか、二人は互いの身体をまさぐりながら妖艶に抱き合っている。顔から火が出そうになったので慌てて目を背けると、ちょうど、ぼっと花音の頬に円やかな赤みが差したところだった。
自分の首に何の嫌疑がかけられていたのかを、花音はようやく理解したようだ。
「うわー! 何! 確かに私みたいな子がいる! 何あれっ! うわ、うわー……!」
ひとしきり興奮を叫んでから、真っ赤な顔のまま花音は里緒と紅良を睨んだ。
「てか、もしかして二人とも、あんな街中でベタベタいちゃいちゃする子と私のこと見間違えてたの? 私なら絶対あんなことしないし! するとしてもその、い、家だし! だいたいあの子、私と違って髪留めのゴムに星がついてないしっ」
言われて目を凝らせば、確かに花音の外見との相違はいくつも見当たった。身長は花音よりもいくらか高いし、元運動部の花音ほど足がしっかりして見えない。それに何より──無節操だ。
取り違えられたショックが大きかったのか、あまりにも花音が不機嫌なので、紅良と二人して「ごめん」と頭を下げた。実のところ、花音でなくてよかったというのが正直な心情でもあった。
「てか、その……花音はなんで吉祥寺に来てたわけ」
おずおずと紅良が尋ねると、途端に花音は表情を固くした。肩にかけたカバンを抱え込みながら、控えめな口ぶりで花音は白状した。
「……んと、私が施設育ちなのは知ってるでしょ」
「うん」
「あの施設ね、このへんにあるの。今日は部活終わりに顔出して近況報告することになってて、今さっき、所長さんと面談してきたとこなんだよね」
かつて花音の在籍していた児童養護施設『ひかりの家』は、ここ吉祥寺東町に位置しているのだという。部活の解散が長引き、予定の時間に遅れそうになっていたので、解散するや否や花音は音楽室を飛び出し、大急ぎで吉祥寺に向かったのだ。それが花音の不審な言動の真相だった。
「施設の人たちとも仲良しだし、私は会いに行くのも楽しみなんだけど、里緒ちゃんに施設のこと話したら余計な心配かけちゃうかな……って思って」
いささか気落ちぶりに背中を丸めた花音は、一転して「てか!」とふたたび憤り始めた。膨れ上がった感情の逃がし方が他に見つからないようだった。
「本当に彼氏ができてたら真っ先に里緒ちゃんに報告するもん! まさか信用されてないだなんて思わなかった」
「私にはしないんだ」
「西元に報告したら嫌味言われそうだからイヤ」
「そんな無粋な真似しないから」
紅良が肩をすくめる。今度の一幕を通じて、紅良も人並み程度に色恋沙汰に関心を持つのだと分かったことが、里緒には未だにひどく新鮮だった。
振り返れば、ようやく欲を満たした顔つきの花音似カップルが、別の入り口から公園を出て夜道に消えてゆこうとしている。小一時間に及んだ盛大な茶番の終幕を告げるように、花音は大袈裟な嘆息を地面めがけて吐いた。そうして天を振り仰ぎながら「あーあ」とぼやいた。
「私も彼氏自慢とかしてみたいなー。天から降ってきて手に入らないかな」
その二言に、いつも通りの花音らしさが余すことなく詰め込まれている。
安堵で胸を撫で下ろした瞬間、無意識に紅良と目が合った。何事もない平穏な日々がもう少し続くらしいことを、目配せの合間に里緒と紅良は密かに喜び合った。
例の花音似の少女が二つ隣のクラスにいること、そして派手な化粧を取ったら花音とは似ても似つかない普通顔になることを里緒たちが知ったのは、その数日以上も後の話である。
「でもまぁ……。これは、これで、いいか」
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