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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
212/231

E.201 春よ、来い

 




 弦国は今年も入学式を迎えた。

 二年生に進級した里緒たちは、今日からは校内の勝手を知る上級生として、新入生たちの前に君臨することになる。

 入学式の演奏を手掛けるのはもちろん管弦楽部である。準備や直前の練習もあって、入学式の当日は朝早くに集合がかかっていた。花音と国分寺駅で待ち合わせていたら、偶然にも紅良が通りかかったので、三人で仲良く弦国の校門を目指した。

 カレンダーの日付は四月六日。一年前に続き、桜の季節は早くも過ぎ去りつつある。けれども、ふんわりと眠気を誘うような春独特の陽気は朝の街を余すことなく包み込み、輝く明日を夢見て目覚めた若人(わこうど)たちの背中を、そっと穏やかに暖めていた。




 弦巻学園国分寺高校の生徒になって、気づけば一年が経った。見慣れた校舎一号館の壁を目でたどりながら歩くと、坂道の向こうに校門が見えた。見上げるような大型の看板が掲げられ、その表面には【入学式】と筆で大書されている。


「春だねぇ」


 花音がのんびりと独り()ちた。「花音でも春の情緒は理解できるのね」と嘲笑した紅良が、憤慨した花音に何事か噛み付かれていた。今となっては二人の(いさか)いに動揺を覚えることもない。

 高松里緒は唇を真一文字に結んで、漂う街の香りを鼻腔いっぱいに嗅いだ。

 どことなく緊張する匂いだ。朝の空気は肌に厳しくて、触れた場所から身がきりりと引き締まる。クラリネットのケースを握る右手に自然と力が入って、気づくと視線が落ちていた。綻びのある路面が恥ずかしい過去を想起させる。慌てて顔をあげ、行く手の坂を見た。


「一年前を思い出すなー」


 たっと駆け出した花音が、坂の中腹で立ち止まって、かかとを器用に回しながら振り向いた。彼女の所作は相変わらず、妖精みたいに軽やかで危なげない。


「ここで里緒ちゃんが転んで、たまたま通りかかった私と西元がハンカチとか絆創膏を貸してあげて、それが私たちの出会いだったんだよね。なんかさ、今にして思うとすっごくドラマチックだったことない? 小説みたいな!」

「有り得なくもないでしょ。事実は小説より奇なりって言葉もある」


 脇腹を押さえながら紅良が応じた。さっき言い合いの末に花音に小突かれたようだ。弁の立つ紅良に口論で敵わない花音は、このところ紅良の悪口に鉄拳制裁で対抗する知恵を身につけようとしている。いや、力づくでの解決を()()とは呼べないか──。ともかく紅良のクールな毒舌と花音の激しい罵倒返しは、両方セットでD組の名物になっていた。

 追いかけて早足になった里緒は、カバンを抱えながら「一年か」と照れ笑いを浮かべた。

 一年という時間は短いようで、その気になりさえすれば多くのことに取り組める。だからこそ、里緒はこうして大きな変貌を遂げ、陰鬱な過去を振り払って新たな人生のスタートラインに立てた。


「あれからちょっとでもいいから成長できてたらいいのになぁ、私」


 組んだ両手を天高く突き上げ、花音はしなやかに伸びをする。あふれた活力を持て余す彼女の仕草に、春爛漫の華やかな朝に相応しい陽気を感じ取っていたら、「あ!」と叫んだ花音は二人の元まで駆け戻ってきた。


「ね、聞いて! 私こないだ体重測ったらね、なんと三キロも増えてたんだよ! でも私べつに太ったわけじゃないし、これはきっと身長も伸びてるってことだよね? ねっ! 身体測定すっごく楽しみになってきたんだけど!」

「悪いけど身長は伸びてないから。気づかない間に太っただけでしょうね」


 紅良の突っ込みは徹底して辛辣だったが、残念ながら今回は里緒も紅良に同意見だった。目線の高さの差が一年前と変わっていない。花音が露骨に悄気(しょげ)たところをみると、本人にも多少なりとも肥えた自覚はあるようだ。

 あの元気さはどこへやら、肩を丸めながら花音は嘆き始めた。


「はぁー……。どうせ私は成長してないもん。太っただけだもん」

「…………」

「いいよなー二人は。西元はどんどん背が高くなるし、里緒ちゃんはどんどん血色がよくなるし」


 唐突に出てきた自分の名前に里緒がうろたえたのは言うまでもない。


「わ、私そんなに血色よくなった?」


 急に自分の名前を持ち出されたことに慌てたら、「当たり前じゃん!」と花音は目を()いた。抵抗の間もなく、花音は里緒の右腕を掴まえて袖をまくり、現れた腕を揉みながら視線を絡める。


「ほら、こうやって揉むときちんと肉の感触があるもん。七月の初めなんかちっとも血の気が感じられなかったのに、こんなに肌色になったし筋肉もついてる」

「そ、それこそ成長したんじゃなくて太ったってことなんじゃ……」

「何言ってんの、里緒ちゃんの場合はそれが成長なの! ね、西元もそう思うでしょ」

「同感。太ったんじゃなくて成長よ」


 紅良の反応はここでも端的で迅速だった。喜びと羞恥心の狭間に追い詰められ、里緒は顔を真っ赤にしながら立ち尽くした。褒めてくれるのはありがたいが路上で腕は揉まないでほしい。

 痩せすぎで二人を心配させていた昨年の夏頃と比べ、今は状況も大きく変わった。一人で食卓を囲むことのなくなった里緒は食欲も回復し、平均的な女子高生並の栄養を摂取するようになりつつある。健全な精神は健全な肉体にしか宿らないというから、今までも、これからも、適切な食事と運動で丈夫な身体を作り上げる努力は怠れない。その成果がほんの少しでも表れていたなら、それはやっぱり、嬉しいことだ。


「も、もういいでしょ。揉むの……」


 浮き上がる心を強引に落ち着かせ、里緒は花音を引き剥がしにかかった。校門前の衆人環視であることを忘れてもらっては困る。だが、花音は「やだ」と突っぱねたきり、いっこうに離れようとしない。


「やだなー、新入生が入学してくるなんて()だ。そしたら管弦楽部にも後輩ができて、里緒ちゃんが誰かの指導担当になるかもしれないわけでしょ。私だけの里緒ちゃんじゃなくなっちゃう。こうやって好き放題に甘えたりもできなくなるのかな」

「花音が私物化しようとしてることの方が大問題だとは思わないわけ?」

「思わないよーだ。だって私が里緒ちゃんの一番の友達だもん」

「そういうのを私物化って言ってんのよ。友達の地位を独占する気?」

「勝手に名乗ればいいじゃん。何人いたって私が一番だよ、だって花音様だから!」

「駄目。みんなのもの」

「だめ! 私のもの!」


 腕にしがみついたまま花音は頑固に抗弁する。業を煮やした面持ちの紅良が、花音の抱えていない方の腕を引っ張り始めた。里緒は吊り橋よろしく両側から引っ張られる格好になった。思いの外、痛い。おまけに公衆の面前で恥ずかしい。すぐ傍らを通りかかった新三年生の女子生徒たちが、物珍しげにクスクス笑いながら通り過ぎてゆく。


「も、もう行こう! 私は誰のものでもないよっ」


 いいかげん付き合いきれなくなった里緒は、胸が痛むのを承知で、赤らんだ顔を伏せながら両脇の二人を振り払った。『誰のものでもない』などと無意識に恰好のついた台詞を放ってしまったが、本心だったし、たとえ誰のものでもなかったところで、花音や紅良に対する向き合い方が変わるとも思わなかった。

 痛ましい過去も、それを乗り越える過程で紡ぎ重ねた数々の痛みも、みんな里緒のものだ。里緒自身の細い腕で受け止め、血肉に変えてみせる。

 そう誓えるようになったのも、花音や紅良や大祐や美琴のように、この心をかけて信じられる大切な存在が何人もできたからだった。


「照れてるー」

「照れてるな」


 直前までの(いさか)いはどこへやら、花音も紅良も可笑しげに里緒を眺めている。無視して校門に向かいながら、ちょっぴり熱のこもった肺に両手を押し当てて、息をした。ふわりと温もった吐息が、涼しい春の朝に解けて紛れた。

 出会ってから一年。このところ、花音はスキンシップにいよいよ遠慮がなくなってきたし、紅良は言葉選びが段々と無遠慮になりつつある。でも、それはきっと二人が里緒に気を遣わなくなったことの証であり、里緒が妙な気遣いを必要としない存在に昇華したことの証なのだ。だから、こうして迷惑をかけられたり軽い調子の冗談でからかわれる日常の一端が、里緒は必ずしも嫌いではなかった。




 新学期が始まる。

 大学受験や高等教育を見据え、学習内容はますます高度になる。大人の振る舞いを期待される場面も増えてゆくだろう。二年生になった里緒たちに求められる役割の重みは、めだかの一匹に過ぎなかった高校一年の春頃のそれとは比べ物にならない。

 新年度態勢の管弦楽部で、里緒は楽譜管理係、花音は美琴と同じ楽器管理係を務めることになる。紅良の国立WO(ウインドオケ)内での立ち位置は特に変わらないようだ。だが、すでに新規の団員たちが入団を始めているそうで、紅良はクラリネットパート内の新人の指導を務めることになるらしい。今日、こうして早い時間に登校したのは、まもなく本格化する新人指導の方策を練るべく、つばさや翠たちと話し合いの場を設けるためなのだという。

 個々の能力や得意分野が違うのだから、進む道だって同じではない。里緒は里緒の、花音は花音の、紅良は紅良の役割と楽器を背負って、艶やかに花開いた春の季節を駆け抜ける。

 今なら、胸を張って言えそうだ。

 そんな未来が里緒は楽しみだ、と。




「里緒ちゃん」


 校門をくぐろうとしたところで、追いかけてきた花音が名前を呼んだ。小指を引かれたような感覚に囚われて振り返った里緒の胸に、そっと紅良が呼び名を重ねた。


()()


 心拍数が上がった。下の名前を呼び捨てで口にされると、まだ、少しばかり肌が緊張を帯びる。


「……うん」


 里緒は首をすくめながら応答した。こそばゆくなったうなじが黒髪に隠れ、かすかに体温が上がる。

 すかさず、花音が微笑んだ。


「また一年、よろしくね」


 紅良も同じ顔をしていたように思う。

 たったそれだけのことを伝えるために、二人は里緒を呼び止めてくれた。じわり、心に華やかな声が浸透して(しずく)を打つ。染みた思いの暖かさをそのまま伝え返したかったが、それには『うん』と首肯するのでは物足りないと思った。里緒はきびすを返して、二人と真正面から向かい合った。

 それから、クラリネットのケースとカバンを、温もった手で固く握りしめた。


「私こそ、よろしくね。……花音ちゃん、紅良」


 ほんのりと頬に紅が滲んだ。まだ、この名前も呼び慣れない。いつか一切の抵抗を覚えなくなった頃、きっと里緒は次の『よろしくね』を口にしていることだろう。

 誇らしげに目配せをした二人が、高らかに足音を鳴らして隣に追い付く。前を向いて、肩を並べて、三人一緒に校門をくぐった。

 爽やかに背中を叩いた風が、くすぐったい陽の匂いを襟足にくぐらせて上着のジャケットを持ち上げ、軽やかな足取りで虚空に消えていった。




 春が、来た。


 そのおおらかな腕いっぱいに、新しい世界の光と音を引き連れて。








201話のゲストは高松里緒、青柳花音、西元紅良の3名でした!


続編はこれにて完結となります。

次回からは全5話の番外編をお届けします!


▶▶▶次回 『番外編① 花音はどこへ行く』

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