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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
211/231

E.200 墓参り

 




 三月。

 高松大祐が仙台市を相手取って起こした国家賠償請求訴訟は、和解の形で終結を迎えた。

 もとより被告に不利な裁判との下馬評ではあったが、決定打になったのは二月になって第三者委員会の提出した最終報告書だった。報告書を通じて、第三者委員会は里緒に対するいじめの存在を明確に認めたうえ、佐野中学校の怠慢が事態の著しい悪化を招いたと断定したのだ。

 報告書が提出されるや、被告の仙台市は速やかに和解を提案してきた。過去にも市内でいじめ事件が相次ぎ、対策に熱を上げていた市にとって、報告書の内容はよほどショックだったのに違いない。

 和解条項の内容は、学校側が自らの安全配慮義務違反の事実を認め、いじめ被害者である里緒の前で謝罪すること。および、校長ら上層部で今後いじめの事実が隠蔽されることのないよう、再発防止の策を講じること。さらに和解金として二五〇万円を支払うこと。──判決にまで至らなかったとはいえ、和解の内容を考えると、学校側の全面敗訴にも等しい結末だったと言える。むしろ、慰謝料の額面に頓着する気のなかった高松家の二人にとって、学校側の当事者からの謝罪を引き出せたのは僥倖でさえあった。


 四月一日。大祐と里緒は、和解条項に則って学校側の謝罪を受けるため、教育委員会の置かれている市役所の分庁舎を訪れた。

 街には雪が残っていた。泥で汚れた雪の塊を踏みしめ、庁舎を目指した。制服の上にコートを羽織り、マフラーで首をぐるぐる巻きにした里緒は、さらに口元をマスクで覆って徹底的な防御態勢を取りつつ、大祐の隣を決して離れようとしなかった。

 むろん、それは寒さを恐れているのではない。里緒が最も警戒していたのは、幼い彼女を二年にわたって苦しめ続けた悪意の塊だ。

 案の定、応接室に集まった校長たちの姿を認めた瞬間、瞳孔の縮んだ里緒は足をすくませてしまった。手を握って、そっと包んで、足を縛る氷を大祐の体温で融かしてやった。待ち構えていた報道陣が一斉にシャッターを切り、大祐に成り代わってフラッシュの嵐を校長たちに撃ちつけた。

 謝罪そのものは至ってシンプルだった。校長たちは横一列に並び、腰かけた大祐と里緒に向かって深々と頭を下げた。


「──このたびは誠に申し訳ありませんでした」


 仙台市長、教育長、佐野中学校校長、二年次の担任、そして三年次の担任。揃った五つの雁首を大祐は順に眺め、彼らのくたびれたスーツに嘆息した。彼らが多忙なのは認めるが、しわくらい伸ばして来てほしいものだと思った。

 謝罪といっても所詮、形ばかりのものではある。真の意味で彼らに効くのは、多額の慰謝料と、今後言い渡されるであろう市からの懲戒と、それから大祐たち当事者の言葉くらいのものだ。それだってどれほど響くか怪しい。

 謝って終わるわけではないと釘を刺した上で、今後のいじめ対策についての要望書を手渡しで提出した。弁護士の瑞浪と細かな検討を重ね、数日をかけて書き上げたものだった。渋い顔の鳴瀬校長が「しかと受け取りました」と唸ったので、そこでようやく大祐は、隣のソファに沈む里緒へ囁いた。


「里緒。何か言ってやりたいことはあるか」

「……私が何言っても届かないよ。あの頃だって、聞いてもらえなかったんだから」


 うつむきがちに里緒が首を振って、校長たちの顔はたちまち赤黒く濁った。里緒(被害者)のこぼしたささやかな諦念は、目の前の被告一同にひときわ強いパンチを見舞っていたようだった。

 何はともあれ大きな混乱もなく、謝罪の場は幕を下ろした。

 退出する際、三年次の担任だった男が何気なく視野を横切った。思い出したくもないが、橿原とかいう名前の男だった気がする。彼も例外なく悲痛な面持ちだったが、その眼差しが大祐の一歩前を歩く里緒に向けられ、どことなく朧げに明るい光を宿していたのが、その後もいやに印象を引いている。






 ──仙台市佐野霊園は、佐野地区の位置する河岸段丘のさらに上、標高二百メートルほどの小高い山を大胆に切り開いて造成されている共同墓地だ。山のほとんど全域が霊園であるため、面積も広大で園内の標高差も大きい。雪の積もった冬場など、車で園内を移動しないとやっていられない。

 運賃の支払いの済んだタクシーが走り去ってゆくのを見届けると、大祐は一足先に歩き出していた里緒を追いかけた。

 今日の里緒は制服ではなく、冬用の私服に身を包んでいる。白生地にボーダーのセーターと、膝を覆う紺色のハイウエストスカート、その上からはダークグレーのPコート。里緒にしては珍しく、控えめにお洒落を意識した服装だ。たまには可愛い姿を見せてあげたいと思ったのかもしれない。

 青いチェック柄のマフラーに埋もれかけの口へ手を当て、白く萌える吐息を膨らませながら、一足先を歩く里緒は小さくつぶやいた。


「お母さん、こんな見晴らしのいいとこに眠ってるんだね」

「木の葉もみんな落ちてるからな、この時期の見晴らしが一番いい」


 応じながら里緒の横に並んで、傾斜のついたアスファルトの道を降りてゆく。視界の先には盆地を埋め尽くす佐野地区の街並み、川の対岸に連なる山々、そして区界の向こうに広がる仙台市太白区の景色が窺えた。

 佐野地区を見下ろす山の頂上付近、標高一九〇メートルの一帯に位置する、佐野霊園三十一番市民墓地。その南端の一角に、【高松家之墓】と刻まれた小ぶりの墓石が立っている。二年前、ここに大祐は瑠璃の遺骨を埋葬した。透き通った香りを立てて吹き抜ける青葉の風を存分に浴びながら、墓石の下で瑠璃は永遠の眠りについている。


「二年前の葬式の日、実は里緒もこのあたりを通っていたんだけどな。覚えてないか」


 何気なく語りかけると、「そうなの」と里緒が目を丸くした。スマホの地図アプリを起動して、霊園内の道を指で示してやった。


「ほら、園の北側に佐野斎場がある。あの日は駅前の道から霊園に入って、この近くの道を通り抜けて斎場に向かったんだ」

「佐野斎場って、お母さんの身体を骨にしてもらったところだよね」

「そうだな。ま、気づかなかったのも無理はないよ。あの時は夜だったからな」

「……私、ずっとうずくまって泣いてたし」


 自分の口で言及しておきながら、里緒は恥ずかしげに顔を背ける。苦笑して、肩に手を置いた。この半年ほどを経て、里緒の肩は大祐が触れても過激に反応しないようになっていた。

 仙台市唯一の大型火葬場である佐野斎場は、霊園の敷地の一角を占める形で設置されている。瑠璃の死も、捜査も、はたまた葬儀や埋葬も、結果的にはすべてが佐野地区内で完結した。我ながら便()()な土地に暮らしていたものだと思うが、できればこんな形で利便性を享受したくはなかったとも思う。


「どこに置いたらいいかな、これ」


 花束を抱えた里緒が、墓の前に立ってうろうろと視線を回す。高松家は長期にわたって親戚と関係を断絶していたので、里緒にとってはこれが初めての墓参経験に当たるのだ。


「適当にそのへんに置いてくれ。父さんが墓回りの清掃をやっておくから、なんとなく左右の見映えが揃うように二つに分けてもらえるか」

「分かった」


 うなずいた里緒が地面にしゃがみ、花束の分解に取りかかる。その姿を横目に、まずは枯れかけの花を撤去して、それから持参した雑巾で墓石を拭いた。墓石の上には雪が残っていたので、ミネラルウォーターを上から流して洗い落とした。髪を洗ってやっているような気分がして、脊髄の奥にじんと温もりが冴えた。

 空いた花立てに里緒が生花を挿し入れる。はさみを使って見た目のバランスを整えると、お供え用のお茶を傍らに添えて、マッチと線香を取り出した。

 束ねたままの線香を幾本か抜き取って構え、()ったマッチを近付ける。たちまち、線香の先に火が(とも)った。手であおいで炎を消すと、鼻をくすぐる独特の匂いが煙に混じって流れ出した。


「こうやって使うんだね、線香って」

「理科の実験くらいでしか見たことなかっただろ」


 首肯した里緒に、大祐は線香の束を手渡した。「私が持つの」と、不安げに里緒は大祐を見上げた。


「そこに平たい台がある。線香皿って言うんだ。寝かせるように置いてみろ」

「……うん」


 おっかなびっくり、里緒は線香を線香皿に横たえる。もくもくと煙る香りが皿の覆いに溜まって、はずみで里緒は()せた。


「それでいい」


 涙目の里緒を見て大祐は笑った。

 墓の手入れは一通り済んでいる。あとはお参りを済ませ、片付けをして帰ればいい。大祐も数本の線香を抜き、点火して線香皿に寝かせる。

 そうして、立ち上がった里緒と二人、墓に向かって手を合わせた。

 冬の風情の抜けきらない風が、吹き寄せた耳介に渦を起こして凍てつかせる。仙山線の走行音が澄んだ空気を高らかに揺さぶり、時間の経過を素っ気なく心に刻んでゆく。果たしてどれほどの時を黙祷に費やしていたのだろう。大祐も里緒も微動だにせず、固く閉じた目の奥で瑠璃に黙祷を捧げ続けた。




 この一年、数多の出来事が高松家を飲み込んだ。一時は大祐も里緒もそろって心を壊し、再起を図る見込みさえ立たなくなった。

 それでも今、こうして二人は仙台の地を踏んで立っている。

 瑠璃の死を乗り越えられたとはいえ、死への悲しみが霧消したわけではない。しかし少なくとも今、二人はきちんと前を向いて、待ち受ける未来を精一杯に生きようとしている。このさき五年、十年と時間が経った時、ほんの少しでも胸の痛みが減っていれば上等だと大祐は思う。なんだかんだと言いながらも寂しがり屋な瑠璃のことだ、悲しまれなくなったら心細い思いをするに違いない。

 寂しがりで、怖がりで、しかし時には勇敢な意思をもって、大切なものを守ろうと懸命に力を尽くす。

 大祐が心から愛したのは、そんな弱さと強さを(あわ)せ持った人だった。

 その勇敢さを大祐は引き継ぐ。成人した里緒が一人で飛び立てるようになる日まで、ふたりの愛が結んだ命を守り抜く。瑠璃との思い出に浸るのは、その役目から解放された後でも遅くはない。今はただ、少しずつ大きくなる愛娘の姿を、ゆっくり隣で眺めていたいと思うのだ。




 残りの線香にも火をつけ、線香皿に置いた。もくもくと温かげに膨らむ煙を横目に、花束を包んでいたビニールを丸め、枯れた花や線香の箱と一緒に袋へ入れて縛る。お供えのペットボトルを拾い上げた里緒が、「これも持ち帰るよね」と大祐に手渡してくれた。

 墓参の後始末は終わった。タクシーを呼び、ホテルに向かおう。大祐はスマホを取り出し、タクシー会社の電話番号を探した。

 学校側の謝罪を受けたのが、ちょうど昨日の昼間だった。昨日から大祐たちは太白区の秋保(あきう)温泉にあるホテルの部屋を取っていて、二泊三日の旅程を終えた明日、新幹線で東京に戻ることにしている。佐野の高松家は寝泊まりできる状態にはなかったし、せっかくだから温泉で羽根を伸ばすのも悪くないかと思ったのだ。

 とはいえ、あの家も、いつまでも廃屋のままにしておくわけにはいかない。


「……里緒」


 墓を見つめながら立ち尽くしていた里緒に、タクシーを呼び終えた大祐は声をかけた。

 振り向いた里緒が(まばた)きをする。十六歳の誕生日に大祐の贈ったネックレスが、マフラーの下に覗く首元で軽やかに踊った。コンクール終わりにレストランで手渡した時、涙までも浮かべながら大喜びでネックレスを受け取ってくれた里緒は、今も大祐との外出時や友達と遊びに行く時、必ずと言っていいほど着用してくれている。


「相談なんだけどな。父さん、東京に家を買おうかと思ってるんだ」

「いま住んでる団地とは別に、ってこと?」

「うん。仙台の家は処分して、あの家に残していたものを東京の新居に持って行こうと思って」


 大祐は丘の下を見つめた。木々や傾斜に隠れて見えないが、視線の先には里緒の中学時代を支えた佐野の家がある。

 高松家の暮らしている都営団地は賃貸物件である。これから先も続く長い人生のことを考えると、やっぱり二人の帰る家は権利関係の安定している分譲住宅がいい。そう考えての提案だった。課題は費用の工面だが、先日の謝罪とともに受け取った慰謝料の二五〇万円については、学費や通塾費のように里緒の将来を支える使い方をしてあげたい。要するに、すべては大祐の働き具合にかかっている。


「……そしたらいつか、あの家に置いてきたものの整理もしなくちゃだよね」


 里緒の声色は明るくなかった。「怖いか」と尋ねると、愛娘はマフラーの片端を握りしめて、白い吐息に顔を曇らせた。


「分からない。怖いような気もする」

「……そうか」

「でも、そうやっていつまでも逃げ回ってちゃダメだなとも思う。ひとりぼっちでやるのは無理だけど、私、お父さんがいてくれればきっと大丈夫だよ。多少の苦しい思いはちゃんと我慢して、引っ越し作業、手伝う」


 睫毛の下に瞳を伏せ、いくらかどもりつつも里緒は言い切った。以前の里緒にはなかった(たくま)しさを垣間見て、「よかった」と大祐は目を細めた。正直に言って、大祐の心境も里緒と同じなのだ。ひとりであの家を片付けると思うと途方に暮れかける。里緒がいてくれるから、勇気が出せる。

 そうと決まればやるべきことは多い。家探し、条件絞り、費用の調達や業者の手配も必要だ。里緒と予定を合わせて片付けを行うタイミングも見計らわねばならない──。さっそく巡り始めた思案を、ふと、大祐は頭の片隅に置いて中断した。

 それからおもむろに手を持ち上げ、里緒の頭に置いた。


「あぅ」


 里緒が変な声を上げた。髪型が崩れないように、ボブカットの黒髪を大祐は優しく撫でた。透き通った甘い匂いが立つ。いつかの瑠璃と同じ、肩までの高さに切り落とされた柔らかな質の髪が、懐かしい感覚と感慨を大祐の胸に呼び起こしてゆく。


「里緒」

「う、うん」

「大きくなったな」

「……最近そればっかり」


 微笑みかけると、里緒は頬に仄かな色を差しながら口ごもった。

 事実なのだから何度だって口にできるし、これからも口にし続けたいと思う。不器用で多くの褒め言葉を持たない大祐は、大祐なりのやり方で里緒を愛してゆきたい。今からでも精一杯に甘やかせ──。いつか同僚の亮一から、そんな乱暴なアドバイスを受けたこともあったか。

 そのまましばらく、墓の前に里緒と二人でたたずんでいた。やがて遠くから車のエンジン音が響き始め、黒一色のタクシーが丘の上の道路に停車した。

 手を離して「行こう」と告げると、里緒は一瞬、右手に広がる佐野の町に目をやった。

 大祐には、深呼吸に励んでいたように見えた。

 まもなく振り返った里緒は、いつものように照れ臭そうな色を浮かべて、ごみ袋を持った大祐の隣に並んだ。タクシーに乗り込み、行き先を告げてシートベルトを締めたら、染み出した二日間の疲労が身体を飲み込んで、いつしか大祐も里緒も後部座席でぐっすりと眠りについていた。






 ふたたび東京に暮らすようになって一年。二人きりの生活は軌道に乗り、瑠璃の姿が見えない日常も当たり前になりつつある。

 しかしそれは決して、瑠璃の存在を忘却しているのではない。高松瑠璃という女性が三十五年の人生を彼女らしく生きたことを、仙台(ここ)に置かれた墓石が永遠(とわ)に証明してくれるから、大祐も、里緒も、後ろを顧みることなく未来を生きられる。


 ここに瑠璃が眠っている限り、(うるわ)しい青葉に抱かれた仙台の街はいつも、いつまでも、大祐と里緒の帰る場所であり、忘れられない心のよりどころであり続ける。









200話のゲストは高松大祐でした!


▶▶▶次回 『E.201 春よ、来い』

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