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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
210/231

E.199 もうひとつのコンクール

 




 音楽におけるコンクールは、なにも大楽団ばかりを対象にするものとは限らない。少人数のアンサンブルや室内楽、独奏(ソロ)、声楽、オペラ、作曲に至るまで、さまざまな種類の審査対象を持つコンクールが日本中に存在する。中でも扱いが圧倒的に多い楽器はヴァイオリンとピアノだ。多くの国際音楽コンクールで独奏(ソロ)の審査部門が用意されているのみならず、ヴァイオリンやピアノだけを専門的に取り扱うコンクールも複数あるほどで、その人気度と普及度の高さは他の楽器を決して寄せ付けない。

 そんなヴァイオリンとピアノが、ともに手を携えて舞台に立つ音楽の形態がある。複数楽章からなる二重奏曲・ヴァイオリンソナタである。ヴァイオリンとピアノのどちらが主役を張るのかは作曲年代によって傾向が異なるが、いずれもヴァイオリンの華やかで優美な旋律にピアノの気高い低音伴奏を調和させ、極めて単純な楽器構成ながら美しい音楽を成しているのが特徴的だ。

 異なる楽器を持つ二人の奏者を有するため、ヴァイオリンソナタは室内楽の一種に分類される。数十人規模の楽団による壮大な合奏と比べれば、確かに地味な側面は否めない。けれどもそこには間違いなく、室内楽でなければ表現できない深みのある情緒がある。おまけに楽器がわずか二つともなれば、実力差も如実に表れるものだ。そんなわけでひとたびコンクールが開かれれば、多くの奏者たちが集っては繊細な音の積み重ねを競い合い、評価を求め、自慢の音楽を盛大に披露して去ってゆく。

 そこで追求されるのは、舞台上の誰もがうなずくほどの“すてきな音”。

 人の声に近い楽器と称されるヴァイオリンと、オーケストラにも匹敵する万能性を持つピアノ。それらが真に融合した場所で生まれる音楽の素晴らしさ、凄まじさ、そして美しさを、彼らは身をもって深く知っているのだ。






 何べん見返しても、いっこうに耳が名前に馴染みを覚えない。郵送されてきた当日のタイムテーブルを確認しつつ、その最上段に記されたコンクールの名前を茨木美琴は読み上げた。


「ルミナス国際音楽コンクール、ね……」

「なんか違和感のある名前だよね」

「カタカナだからじゃないの。日本のコンクールっぽさが感じられない」

「言えてる。それかも」


 ドレスの背中を直してもらいながら、ヴァイオリンを構えた佐和がしきりにうなずく。美琴のドレスは黒、佐和は赤である。せっかくなので管弦楽部の衣装係に意見を仰ぎつつ、互いの担当する楽器の色に合わせてデザインを統一したつもりだった。

 その衣装係の片割れ──直央が、「よし!」と叫んで佐和の背中を離れた。背後に回り込んでドレスを見やった京士郎が、満足げに口元へ手を置いた。


「松戸くんは茨木くんと違って客席に背を向けないからな、そう神経質になる必要もない。ま、これなら心配ないだろう」

「よかったぁ……。せっかくの晴れ舞台だってのに、ドレスごときで恥かきたくないですよ」


 ほっと吐息をついた佐和の顔色は、上気しているのか普段よりも赤みが深い。今は赤色のドレスを合わせているので、実際はもっと顔を火照らせているのだろう。しかしながら中学の三年間、コンクールの舞台に立つ人間を拝み続けてきた美琴にとって、それは誰もが浮かべる緊張の域を出ない自然なものでもあった。


(私も赤くなってたりしてな)


 張りつめた頬をつねって、ついつい色合いを確かめたくなる。緊張しているのを客席から悟られたら恥ずかしい。「何してんの」と直央が笑って、慌てて美琴は指を離した。我に返ると、いつしかリハーサル室への移動時刻は数分後に迫っていた。




 ルミナス国際音楽コンクール。

 年に一度、三月の末に東京で行われる、その名の通り世界中の奏者を対象にした音楽コンクールである。

 開催は今年で十四回目。まだ歴史の浅いイベントだが、国際都市東京が舞台であるだけあって数多くの挑戦者が門を叩く人気大会でもある。ピアノ部門、弦楽器部門、室内楽部門、リサイタル部門の四つが用意されており、それぞれがアマチュアを審査対象とする部門Ⅰ、プロ奏者を審査対象とする部門Ⅱに分かれている。特に人気の高いピアノと弦楽器に関しては、キッズの部から一般の部に至るまで年齢別に八つの部門が設定され、各年代の能力に従った評価を行う態勢が整えられているらしい。

 美琴と佐和がこのコンクールに挑むのを決めたのは、昨年の十二月半ばのことだった。いつものごとく放課後の居残り練習に励んでいたとき、ふと、佐和が言い出したのだ。『せっかくまた演奏できるようになってきたんだし、コンクールか何かに出られたらいいのにな』──なんて。

 かつて菊乃のコンクール参戦計画に誰よりも反対論を唱えていたのは佐和だった。苦笑しながら、『それも悪くないな』と返したのを覚えている。九月に里緒たちと舞台に立ったこともあるし、少なくとも美琴自身はコンクールに対する抵抗感をそれほど持ち合わせていなかった。

 すると佐和はスマホを取り出して、ルミナス国際音楽コンクールの参加概要を美琴に示した。


『こんなの見つけてきたんだけど、どうだろ』

『私と松戸が二人でやるならヴァイオリンソナタか。室内楽部門、十五分以内の自由曲演奏ってなってるな』

『私も、茨木も、せっかく昔の縛りを取っ払って大好きな楽器に復帰したんだしさ。その……いっぺんくらい何か結果を出してみたいって思わない?』


 やけにもじもじと佐和は身体を小さくしていた。彼女としては、たった二人の自主的な参加であれば管弦楽部に迷惑もかからず、学校も巻き込まずに済むから気楽にやれるというのが大きかったようだ。

 ものは試しのつもりで曲を決め、一月の半ばまで丹念に練習を積んだ。それから、予選応募用のデモ演奏を収録し、応募規定に従って動画投稿サイトにアップロードした。美琴のピアノは往時の腕を取り戻しつつあったし、佐和のヴァイオリンも直央や洸の徹底的な指導でずいぶん磨きがかかってきたので、予選落ちしたとしてもそれなりの善戦はできるだろうと卑小な期待をかけていた。

 ところが蓋を開けてみると、二人は予選を高得点で通過してしまった。結成から一ヶ月と経っていなかったにもかかわらず、美琴と佐和のデュエットは見事に審査員の心を射止めてみせたのだ。

 かくして今、美琴はルミナス国際音楽コンクール本選の会場に立っている。

 会場は江東区の区民公会堂『フラワリーこうとう』大ホール。一二〇〇人を収容可能な、音楽用途専門のコンサートホールである。全国学校合奏コンクールのような席の埋まり方はしていないものの、すでに客席前方には多くの聴衆が詰めかけ、世界を股にかける奏者たちの出番を心待ちにしている。




 直前になって佐和が不安を訴えたので、リハーサル室では通し練習に打ち込むことにした。用意されていたピアノの前に腰掛け、「いいよ」と佐和に合図を送った。彼女は緊張のしわを隠しもせず、ぎこちない動作で首肯した。


「いいかい、大切なのは(はや)らないことだ。いつか演奏した〈クラリネット協奏曲〉と同じで、この曲では演奏の技巧よりも雰囲気の演出が重要になる」


 腕を組んだ京士郎が、美琴と佐和の顔を伺った。

 京士郎に師事をあおいでピアノに打ち込み始めてからというもの、この端正な顔立ちを何べん至近距離で拝んだか分からない。京士郎と直央にはつくづく世話になった。黙って結んだ唇をそっと解き放ち、美琴はつぶやいた。


「悲嘆からの目覚め……ですよね」

「そう、テーマは“悲嘆からの目覚め”。四人で話し合って固めた曲のイメージを覚えているだろう。『大切なものを失った痛みに耐えながら、それでも懸命に涙を拭って、前を見上げて立ち上がろうとする夜明けの歌』──」


 ピアノの譜面台に広げた楽譜には、“K.304”の文字がある。ケッヘル番号を伴っていることからも明らかなように、今回、美琴たちが演奏するのもモーツァルトの楽曲だ。

 〈K.304 ヴァイオリンソナタ第二十一番・ホ短調〉。モーツァルトの母・アンナが亡くなった時期に制作された曲とされ、彼の紡ぐヴァイオリンソナタの中でも珍しく短調(マイナーキー)が用いられており、物悲しく優美な旋律が特徴的な曲だ。全二楽章で構成され、超絶技巧を必要としない音色重視の曲であることから、初心者からの支持が篤い作品としても知られる。


「なーんか最初は正直、こんなのどう想像しながら演奏するんだよ! って感じだったよね。別に美琴も佐和っちも、親を亡くしてるわけじゃないしさ」


 後頭部に回した両手を組んだ直央が、情けない形に頬を丸めて笑った。


「でも結局うちら、実感したよね。大切なものを失った人の気持ち。モーツァルトがこんな悲愴な曲を作りたくなるのも分かる気がする」

「……三年生、みんないなくなっちゃったからね」


 覇気の乏しい声色で続けたのは佐和だ。

 菊乃を補佐する副部長の座についた今も、佐和の心配性はちっとも治る気配がない。むしろ悪化した気配さえある。思えば、かつてコンクールへの無謀な参戦に反対したのも、今度のコンクール参戦にあたって周囲への迷惑を気にかけていたのも、すべては佐和が心配性であることに由来する言動だった。佐和の価値観は今も昔も首尾一貫している。

 二人が二人とも沈んでいるのはよくない。美琴は反対に淡白な声を装った。


「ま、おかげで曲への入れ込みが進んでよかったでしょ。それにモーツァルトと違って死別したわけでもない」

「まぁ、そうなんだけどさ……」

「そんなことより今は通し練習だから。ほら、やろう」


 急かすつもりで鍵盤に指を乗せると、佐和も大人しく弓を弦に当てた。

 改めて楽譜を見据え、注意点を確認する。──第一楽章冒頭のユニゾンは弱音(ピアノ)のままではなく、激しい悲しみを聴き手に覚えさせるように。第二楽章のメヌエットは、メヌエットであることを意識せずに淡々と三拍子を維持。途中のホ短調からホ長調への転調は、鮮明に境目を描いて違和感を掻き立てすぎないように、なるたけ穏やかに、安らかに。全体を通じて緩急をわきまえ、強く、鼓動のように鍵盤を打つ。


「始めようか」


 スマホのストップウォッチアプリを起動した京士郎が号令をかけた。

 ヴァイオリンを構えた佐和とうなずきあって、タイミングを図る。一、二、三、四──。(はじ)いた指の先から通じたハンマーが弦を叩き、ヴァイオリンの嘆きとぴったり重なる形で響板を打ち鳴らした。






 この一年を通じて美琴が失ったものはいくつも数えられる。自信、部内でのクラリネット奏者としての地位、名声、ピアノに対する抵抗感。──それから、里緒に抱いていた莫大なコンプレックスも。

 同じ楽器を奏でていれば、必ず同じ音が出るわけではない。独奏(ソロ)を得意とする里緒が、一方で合奏に極端な苦手意識を持っているように、美琴には美琴のアイデンティティがあり、美琴にしか奏でる(演じる)ことのできない(役割)がある。

 ピアノといい、クラリネットといい、美琴が得意とするのはもっぱら伴奏だ。誰かの奏でる主旋律(メロディ)に絡みつき、寄り添う形で対の音を発し、豊かな音色の広がりを編み出す。

 それはもちろん簡単なことではない。場合によっては主旋律を担うよりも難しい。だが、正しいやり方をもって積み重ねた練習の成果は、決して美琴を裏切らない。美琴にとって“音楽を楽しむ”こととは、演奏を通じて自らの成長を実感することでもある。

 かつて挑んだコンクールの一幕を通して、美琴はそれらの境地を自然と受け入れられるようになっていた。


(努力の分だけ未来は動くし、なるようになる。それは音楽も、学業も、部活の運営だって同じだ)


 美琴はそう思うし、だからこそ菊乃の率いる管弦楽部に不安を抱いていない。たとえ彼女や佐和が頼りなくても、この手を横から差し伸べればいい。里緒たち一年生部員も、今や単なるひよこの集まりを越えて、部を支える力と意思を持った頼れる集団になろうとしている。

 伴奏者に徹することを決めた美琴は、今、未来を悲観していない。可能性に満ちた新学期を迎えるのを恐れない。

 己の行く手に不安を覚えなくなるという道筋をたどったのは、〈ヴァイオリンソナタ第二十一番〉を書き上げた当時のモーツァルトも同じだったのではないかと思う。第二楽章の終盤、それまで短調だった曲は急にホ長調へ転調して、それまでの陰鬱な空気を拭い去るのだ。母の死という逃れられない絶望を割り切り、前を見つめて歩み出す──。わずか十五分の曲には、モーツァルトのたどった感情の移ろいが一連のストーリーを成して投影されている。




 横一閃に引かれた弓が、ヴァイオリンの弦を高らかに揺さぶって叫ぶ。拍子が終止線を踏み越え、演奏が終わった。

 美琴は鍵盤から指を離した。

 八割程度の力で演奏したつもりだったが、耳元には思っていた通りの音が完成されていた。佐和を伺うと、彼女はヴァイオリンを下ろした手を左胸に当てながら、黙って拍動に耳をすませている。


「大丈夫そうですね」

「うん。これなら本番も心配ない」


 直央と京士郎が続けざまに評価を下した。微動だにしない佐和に、「だってよ」と美琴は声を投げかけた。

 なおも佐和は表情を変えない。

 里緒とは違う意味で、佐和も頑固な部分のある子だ。嘆息して美琴は畳み掛けた。


「そんな暗い顔しないでよ、お墨付きだってもらったんだから。自信持って舞台に上がろう」

「……ううん、違う」

「え?」


 ようやく佐和は顔を上げた。そこには高揚の赤色でも、はたまた緊張の青色でもなく、優しく血の巡った穏やかな黄色が次第に染み渡っていった。


「不思議。全力なんか少しも出してなかったのに、今までで一番いい音を出せた気がする。……やれそう。これなら、やれそうだよ」


 いつの間にか彼女は本番マジックにかかっていたらしい。見当違いだったのを悟った美琴は「なんだ」と苦笑した。

 コンクールに挑む直前、舞台袖やチューニングの部屋で奏者が唐突に覚醒し、見違えるように美しい音を放つようになることがある。いわゆる“本番マジック”である。佐和のように心配性な子にとっては、舞台を目前にして実体のある()()()心配と向き合うことが、何よりも強力な不安の解消法なのかもしれない。きっと今、佐和は佐和なりのやり方で、自分の弱点と向き合ってみせたのだ。


「その意気だな。松戸くんは普段からもう少し、楽観的に生きることを心がける方がいい」


 肩の力を抜いた京士郎が眉を持ち上げると、すかさず「そのうち里緒ちゃんにすら負けちゃうぞー」と直央が茶化した。


「負けるって何さ」


 佐和は呆れたように頬を崩した。しまりの取れた表情の筋を見て、最後の懸念が杞憂と化して(つい)えたのを美琴は実感した。──もう、心配は要らない。佐和は舞台の上でも立派に実力を発揮するだろう。

 出番が近づいている。付き添いの二人と別れて舞台袖に向かいながら、誰が聴きに来ているのかを佐和と数え上げた。記憶が正しければ、里緒、花音、菊乃、恵、洸、小萌、それに光貴が『聴きにいく』と約束してくれていた。ひとまず()()の事態を想定して、七人もの仲間が自分の音を聴き届けてくれるのだと胸に言い聞かせた。緊張の増した分だけ、期待が増した。

 高松、菊乃、みんな。見ててよね──。

 無言でつぶやけば、爪の先まで活気が満ちる。

 この指で弾くクラリネットとピアノで、きっと部の行く末を支える最強の伴奏者(アカンパニスト)になってみせる。それは、里緒の前で、管弦楽部の仲間たちの前で掲げる、三年生になった美琴のスローガンだ。




 袖から伺う舞台は目映(まばゆ)い。

 白熱灯の照らす世界は熱い。

 一組前の奏者たちが演奏を終え、拍手にまみれながら退出してゆく。その背中の彼方に、いつか夢見た未来の自分が重なった。彼女は手を振って、美琴のゆくべき場所を声高に教えてくれている。かつてピアノ教室に通っていた頃、息を飲むほど無邪気に憧れ続けた世界が、ふたたび美琴の前によみがえっている。


 ──さあ、おいで。

 きみの望む“すてきな音”を、めいっぱい響かせてごらん。




「行こうか」

「うん」


 美琴と佐和は目配せを交わし、うなずきあった。

 そうして歩調を合わせ、舞台めがけて大股の足を踏み出した。








 茨木美琴、松戸佐和。

 弦国の生んだ新鮮な眼差しのデュエットは、〈ヴァイオリンソナタ第二十一番〉の見事な演奏をもって、ルミナス国際音楽コンクール室内楽部門Ⅰの奨励賞を受賞することとなる。








199話のゲストは茨木美琴、松戸佐和、池田直央の3名でした!


▶▶▶次回 『E.200 墓参り』

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