C.020 新天地の日常【Ⅲ】
五日目には、入学以来二度目の体育の授業があった。
授業の時間ではあるが、この日のカリキュラムはガイダンス時から予告されていた体力テストの実施である。体力テストは種目が多く、一日で全てをやりきることはできないので、五日目に当たる四月十二日の実施種目は一○○○メートルの持久走、長座体前屈、反復横跳び、上体起こし、握力、そして肺活量測定と決まっていた。
校庭や体育館にはそれぞれの種目に応じた設備が整えられ、全校生徒たちが代わり番こにテストを実施してゆく。体育祭のそれにも似た熱気の漂う校内は、平時にも増して賑やかであった。
「運動は得意!」
──などと開始前から息巻いていた花音だったが、実際のところ彼女の自負は限りなく真実だった。長座体前屈では計測員が引くほど腰を曲げてみせ、上体起こしではハイペースを見せつけすぎて足を押さえていた相方の子が「もう無理!」と叫び、握力計測器は花音が気合いを入れた途端に不穏なクラック音を立て、反復横跳びでは悠々とクラス内最高記録を打ち立てながら余裕の笑みすら浮かべる始末である。
極めつけが持久走であった。一戸とか言ったか、部活の勧誘が始まったその日に陸上部に入ったという筋金入り陸上女子のクラスメートを、並ぶ観衆たちの前で花音はあっさり抜き去ってしまったのだ。こちらも無論、暫定一位で推移している。
「典型的な体力バカよね、あの子」
里緒とペアになった紅良は、八○○メートル地点を越えて疾走する花音を眺めながら冷めた声でそう評した。
体育教師・富田林先生の指示で『運動能力が近い者同士で』各自がペアを組むシステムだったのだが、人見知りを全力で発揮してしまった里緒は最後の最後まで誰にも声をかけられず、仕方なく紅良が応じてくれたのであった。
「……うん」
体育座りの膝に顔を埋めながら、里緒はうなずいた。
腹の疼きがようやく静まりつつあるのを感じる。乱れていた息が言葉を返せる具合に落ち着くまで、ずいぶん時間を要してしまった。
先に走った里緒と紅良のタイムは、ともに五分ゼロ秒台前半。おおむね平均的なものと言ってよい値に収まった。ただし、紅良が終始表情を変えずにスムーズな走りでゴールしたのに対し、里緒は走り終えた途端に痛みに耐えかねてコース上にうずくまってしまったので、実際の体力は間違いなく紅良の方が上のはずだった。
無論、持久走以外の種目の結果は散々で、とても花音や紅良と比べられたものではない。持久走では少なからぬ無理をした自覚があった。
花音が一位を守ったままゴールインした。さしずめ、元テニス女子の本領発揮といったところだろうか。喝采を浴びた汗だくの髪が陽光の中で輝くのを虚ろな目で見つめていると、ふと、紅良が沈黙を破った。
「正直、高松さんがこんなに速いなんて思わなかった」
「……そう、かな」
「だってその体格じゃない。筋肉とか付いてなさそうだし」
里緒の脳裏には二日前の身体測定が蘇った。肉付きはおろか、脂肪付きさえよくない己の身体の輪郭を、抱えた太ももの面にひしひしと感じる。せめて胸にはもう少し脂肪が付いてくれてもいい、と思う。切実に。
「けっこう無茶してたでしょ」
紅良がつぶやいた。隠し立てをする意味も感じられず、里緒は首を縦に揺らした。
「……うん」
「無茶なんかしないでもいいのに」
「だ、だって、手を抜くわけにもいかないし」
「私は抜いてた」
「抜いたって速く走れるならいいけど……。私が頑張らなかったら、私のタイムはちっともよくならないよ」
指先で地面に絵を描きながら里緒は小声で答えた。小声だったが、本心からの信念を吐露したつもりだった。
自分のための努力は自分でしなければならない。勉強だって、運動だって、楽器の練習だって、人間関係の問題解決だって。
いくら泣いて助けを求めようとも、他人にできることには限界がある。中学校の三年間では、嫌というほどそのことを学ばされた。
しばらく反応が返ってこなかった。紅良は後ろ手を地面について、空を見上げていた。
「私、持久走以外の種目は嫌い」
「な、なんで?」
「だって持久走だけでしょ、“自分のペースで”息を吸って、頑張ることが許されてるのは。反復横跳びやら上体起こしやら、タイマーに急かされて頑張ってるような気がして気に入らない」
あてのない空に向かって注がれる紅良の細い眼差しは、あなたも本当はそうじゃないの、とでも問いたげだった。あくまでも自分の価値観を大事にする、紅良らしいと言えば紅良らしい考え方なのかもしれない。
持久走での里緒は、自分のペースを保って走ることができていたのだろうか。きっとそうではない、と思う。過剰な負荷をかけてまで身体を動かすのは、自分の力量を見誤った運動法の典型例である。
(だけどな……)
紅良から外した目を、里緒は砂塵の舞う地面にそっと転がした。
自分のペースを守ろうとすれば、ちっとも前に進まなくなってしまうことだってある。
「いいじゃない、高松さんは」
里緒の煩悶を見透かしたように、紅良は高い空を見上げたまま声をかけてきた。
「クラリネットがあれだけ圧倒的に上手いなら、他の何が苦手でも十分ヒロインになれるんだから。完璧主義は人を不幸にする代物。そうでしょ」
だから意地を張って持久走で無理をする必要なんてない──。紅良はつまり、そう言いたいのだ。
里緒はとうとう返すのに相応しい言葉を思い付くことができず、黙って校庭の彼方に視線を放った。
一躍クラスの運動ヒロインに躍り出た花音が、唖然とする体育教師の前で愉快そうに笑っている。砂ぼこりの向こうで、季節外れの走水が爽やかに揺らめいていた。
里緒たちが新しいことだらけの日々を送っている間にも、管弦楽部の活動は黙々と続いていた。
本来、活動への参加不参加は自由で、実際には週六日の活動日すべてに顔を出している部員はあまり多くないそうだが、春季定期演奏会を間近に控える昨今に限っては例外で、二十人の先輩部員たちは毎日しっかり音楽室に集まって練習を積んでいた。もちろん、そこには新入生向けの活動アピールという側面もあったのに違いない。
その毎日行われる部活動に、花音はすっかり入り浸っていた。持ち前のコミュニケーション能力を遺憾なく発揮した花音は、あっという間に先輩部員たちのお気に入りとなり、里緒も毎度のように花音に連行されて参加していたのだった。
──『里緒ちゃん、管弦楽部の他にやりたい部活とか気になる部活ってあるの?』
──『……ない、です』
──『なら今日も行こうよ! 管弦楽部!』
連行の前には毎度のように意思確認が挟まったが、ほとんど意味を為していなかった。無限の輝きを瞳にたたえる花音の問いかけを前にして、ないものを『ある』と答えることは里緒にはできなかったのだ。
もっとも、所詮は演奏経験のない素人にすぎない花音と、経験者どころではない腕前を持つ里緒とでは、先輩たちからの扱われ方が根本的に違っていた。気になった楽器を演奏している先輩のところを自由に見て回るよう、集まってきた新入生たちには部長からの指示が飛んでいたが、里緒に限ってはむしろ、その先輩の方が積極的に寄ってきた。
──『今まで他に練習してきた曲、どんなのがあるの?』
──『中学の吹部にも一年しか所属してなかったんでしょ? どういう練習してたわけ?』
──『ね、この楽譜読めるよね! ちょっと吹いてみてくれない?』
襲いかかる質問の一つ一つに、里緒は肩を小さくしながら答えていった。童謡とかポップソングを吹いていました、ひたすらロングトーンと運指と読譜と練習曲で基礎を固めていました、はい、読めます、吹きます──。
本当は特別扱いなど受けたくない。初心者の人たちと同じでいいから、ふつうの『一年生』として扱ってほしい。けれども、そんなことを目上の先輩に向かって言えるはずはないので、靄のように煙る本心は繕った表情の裏にひた隠すように心がけた。
もちろん逆らわないのは自分のためでもある。けれども同時に、せっかく自分と行動を共にしてくれている花音の居場所を、そんなことで壊してしまいたくはないという思いもあった。
(気を遣うのには馴れてるけど……)
自分の口からは決して放つことのできない本音を吐息に押し込んで、里緒はクラリネットの口から勢いよく吹き出した。
「緊張とか、不安とか、きっと色んな気持ちがごちゃ混ぜになるんだろうな……。それを乗り越えなきゃ、演奏ができてもステージに立つことはできないんだ」
▶▶▶次回 『C.021 吹いてみたくて』