E.197 お掃除組の絆 【前編】
三月二十日、弦巻学園国分寺高等学校は卒業式を挙行した。計三五〇人の三年生たちは、登壇した鹿角校長から卒業証書を授与され、高校生の身分から解き放たれて自由になった。
注目度が高かったのは野球部三年生の宇都宮誠太郎である。長い検討の末、宇都宮は高卒でのプロ球団への入団を決断した。入団先に選ばれた『北海道八王子製紙フライアーズ』の在する札幌市では、市民総出の歓迎ムード一色で宇都宮を待ち受けていると伝わる。各マスメディアは卒業式のタイミングを何としても撮影したかったようだが、里緒の一件を経て部外者の扱いに敏感になっていた弦国は、彼らの校内への立ち入りをいっさい許さなかった。
厳かな空気の中で卒業式は行われた。管弦楽部からは元部長の大津はじめ以下、引退済みだったメンバーも含めると十人の三年生が、卒業証書を授与されて弦国を卒業し、未来へ旅立っていった。
管弦楽部は涙に暮れている間もなかった。卒業生の入場曲と退場曲、校歌、そして卒業証書授与中のピアノ演奏も含め、式中の音楽はすべて管弦楽部が演奏を担うのだから無理もない。指揮は京士郎、ピアノは美琴が全面的に担当し、合奏は美琴を覗いた十九名の部員によって行われた。
音の厚みが減っているのは明らかだった。
きっと部員の誰もが、講堂に響く旋律の弱々しさに愕然としていたことだろう。
おそらくそれを最も実感していたのは隣の菊乃だった。休憩中、膝にフルートを据えた菊乃は、繰り返される卒業生の登壇を遠目に睨みながら、しみじみと決意をこぼしていた。
「部員、頑張って増やさなきゃな……」
白石舞香は菊乃の横顔を見つめた。新部長の重責を担う彼女の眼差しは鋭く、静かだが、覇気はあっても確かな強さを感じ取ることはできなかった。そこには菊乃らしからぬ緊張があり、怯えがあり、深い危機感が滲んでいる。先月まで部長を務めていたはじめとは、存在感の質量がまるで違っていた。
今にして思えば、何があっても動じない冷静沈着なはじめは、部長として相当に頼り甲斐のある人物だった。ひるがえって新部長の菊乃はどうだろう。頼れる先輩を失った痛みから未だ逃れられないかのように、どことなく精悍さを失った面持ちで部員の先頭に立っている。まるで、先導者の役目を懸命に果たさんと力むように。
──この人について行って、本当に大丈夫だろうか。
一瞬、口の奥に爛れた一過性の不安を、舞香はつばの浮いた吸気もろとも喉めがけて落とし込んだ。
菊乃は三年生たちの後押しと公認を受けている。不安を覚える必要なんてない、大丈夫だ──。
そう、強く、強く、自分に言い聞かせた。
その日の部活動には、卒業したばかりの三年生たちが顔を出してくれた。
全員ではない。来たのは五人ほどで、フルートパート三年生の香織の姿はそこにはなかった。落胆の苦味を飲み込みつつ、三年生たちの最後の姿を焼き付けようと舞香は目を凝らした。
「先輩ぃ……! 卒業なんかしないでくださいよぉ……っ」
「俺ら何でもしますからぁ……!」
「そんな懇願されたって、もう卒業証書は受け取っちゃったし。ほら、涙で楽器が濡れたらどうするの」
半泣きで寄っていった佐和や智秋にハンカチを押し付け、はじめは終始、鬱陶しげに苦笑いを浮かべたままだった。その左胸には赤い花のコサージュが煌めきを放ち、彼女が弦国生ではなくなったという事実を声高らかに証明していた。
とても練習に打ち込める空気ではなかったが、それでも春の入学式に向けて練習は積まねばならない。菊乃の音頭で部員たちは三々五々、セクションごとの教室に散って練習を開始した。三年生たちも自分の属していたセクションに向かい、旧交を温める最後のチャンスを存分に楽しんでいたようだ。
「里緒ちゃんのクラが聴けなくなるの、残念だなぁ……。こんなことなら一般受験なんかしないで部活に残ってればよかった」
クラリネットパートの片隅では、三年生唯一のクラ吹きだった岩倉逸花が不貞腐れていた。「後生だからやめてください」と美琴が冷ややかに窘めたが、彼女はいっこうに聞く耳を持たない。当の里緒もすっかり困って、珍しくへろへろと弱気な音を垂れ流していた。
聞けば、岩倉は私立医科大の頂点である慶興大学の医学部に現役で合格する快挙を成し遂げ、医師を目指して進学するという。弦巻大学には医学部がないので、内部進学を選ぶなら医師への道は諦めねばならなくなるところだった。
「美琴ちゃんは将来どうすんの? 普通に内部進学だよね?」
「まだ悩んでます。政治学科あたりを目指そうかと思ってるんですけど、競争率が高くて」
「うわ、茨の道を行くんだな。さすが茨木美琴だ」
「全然面白くないです」
岩倉の冗談に美琴はため息を隠そうとしなかったが、久々に先輩に相手をしてもらえたのが満更でもなかったのか、頬にはわずかな緩みが見受けられた。花音や里緒も巻き込んで未来の話に花を咲かせるクラリネットパートの姿を、舞香は時おり、退屈に続く五線から外した目でぼんやりと眺めた。
──将来、か。
自分は何をしているだろう。
自分は何をしたいのだろう。
(今年や来年のことさえ分かんないのに、何年も先の未来像なんて見据えられるわけないじゃん)
何かにつけて自分の将来像を尋ねられるたび、つくづく舞香はそう思う。弦国ではすでに一年次から進路指導が行われているが、将来のことなど何も決めていない。行きたい学部はおろか、文理の選択すら明確には済ませていないし、そもそも大学への進学そのものだって決定事項ではない。大学が面白そうな環境であるのは事実だが、こればっかりは自分の興味本位で決めてはいけないことだと舞香は理解してもいた。
未来が見えないのは部活動も同じだった。代替わり後の役職では、直央とともに二人で衣装係を担当することになった。しかし衣装係の出番など、春の定期演奏会や秋の文化祭演奏などのごくわずかに限られる。他の役職と比べ、存在感が圧倒的に薄い。一方で同じ美化係出身の里緒は、今度から緋菜とともに楽譜管理係に配属である。楽譜管理係は仕事量も責任もやりがいも大きい、二年生の中でもっとも華やかなポジションだ。前任の菊乃を傍らで見ていた舞香だからこそ、その事実をよく理解している。
舞香には特別に秀でた能力もなく、楽器の経験だって乏しい。合唱部にいたのを“音楽の経験”とは見なせない。また一年が過ぎて菊乃たちの代が引退した時、果たして舞香は何の仕事を割り当てられるのだろう。何の仕事であれば輝けるのだろう。
(わたしは何になりたいんだろう)
悩めば悩むほどに混乱が深まって、いっこうに答えが見えてこない。
思えば昔から、舞香は場当たり的に関心を持ったものに飛び付き、味わい、飽き、それを無数に繰り返しながら生きてきた人間だった。好奇心の強い舞香だからこそ叶う生き方かもしれないが、そんなものは将来設計の場面ではまともに評価されない。ただの“考えなし”と切り捨てられる未来が見える。
結局のところ、舞香は菊乃たちの指示に従い、その場その場でやりたいことに挑みつつ、流されながら大きくなってゆくしかないのかもしれない。そう思うと、自らの手で選び取った未来へ堂々と旅立ってゆく三年生たちの背中が、舞香にはいよいよ大きく、立派で、切ないほどに遠くに見えるのだった。
美化係の新リーダーに宛がわれたのは恵だった。
『現二年生の誰よりも教室を汚している主犯だから』というのが選任の理由だと聞いている。はじめたち三年生もえげつない人選をするものだと舞香は呆れたが、当の恵は案外けろりとして「のんびり仕事できて楽しそう!」などと宣っていた。お気楽に生きているように見えても、彼女は実にタフな精神の持ち主だ。
新一年生が入部してくるまでの間、美化係は新リーダーの恵と前任の舞香、里緒が担当することになっている。それは無論、卒業式の日の練習も同じである。
午後四時を回ると、すべての練習が終了を迎える。音楽室へ向かう部員たちの背中を横目に流しながら、恵が手を叩いた。
「よーし! 美化係のお仕事、始めよっかー」
「私、今日は雑巾やります」
進言した里緒が率先して掃除用具入れに向かい、ちり取りや雑巾を取り出す。一年間の“お掃除組”の任務を通じて、里緒はずいぶん主体的に動くようになった。手を挙げた恵が「わたし机の整頓ね!」と名乗りを上げた。
「んじゃ、わたしはちり取りか」
つぶやいて里緒のもとに向かおうとした舞香は、──不意に開いた扉から覗き込んだ顔を目の当たりにして、声の素をみんな床にぶちまけた。
「あ、長浜先輩」
恵が嬉しそうに名前を呼んだ。そこにいたのは、左胸にコサージュをつけた香織だったのだ。
今日は来ないのではなかったのか。ぼうっと立ち尽くす舞香の隣から、「来られないのかと思ってました」と里緒が喘いだ。香織はそっと微笑して、カバンを机に置いた。
「ちょっと野暮用があってね。遅くなっちゃったけど、大事なお掃除組の後輩の勇姿を最後に見届けようかと思って」
「ゆ、勇姿だなんてそんな……」
「ごめんね恵ちゃん。今日だけ、私に美化係のリーダーを戻してもらってもいい?」
唐突な依頼を受けた恵は、一瞬、きょとんと真顔で思案に浸ったが、すぐに顔色を切り替えて「いいですよ」と口角を上げた。しかし当の舞香も里緒も、香織の意図が分からなくて身体が動かない。
ウィンクを刻んだ恵が教室を後にするのを確かめ、香織は改めて二人に向き直った。
「さ」
彼女は恵と同じように手を叩いた。
「お掃除、やろっか」
「ふ……普通にお掃除ですか?」
「普通じゃないお掃除って何よ。机を整頓して、拭いて、ほこりを掃いてきれいにしよう」
呆気に取られる舞香たちを尻目に、さっそく香織は配置の乱れた机を持ち上げた。本当に美化係のリーダーに復帰した気でいるようだ。
かくなる上は、普段通りに職務を遂行するしかない。里緒から受け取ったちり取りと小ほうきを手に、訝りながらも舞香は床のほこりを狙い始めた。ほのかな萌黄の匂いが窓の外から流れ込んで鼻をくすぐり、別れの春の到来を嬉しげに謳っている。時おり不安になって香織の姿を探したが、何べん繰り返そうとも、ほこりの燻る向こうには何の変哲もない先代の美化係リーダーの姿があるばかりだった。
この一年、香織の果たしてきた役割は大きかった。美化係のリーダーという地味な役回りでありながら、口汚くて遠慮のない舞香と、臆病で心の壁の分厚い里緒という二人の問題児を、いっぺんに相手して育ててみせた。
合宿期間中には四日間にわたって里緒に寄り添い、一度は失われた里緒のクラリネットを見事に復活へ導いた。夏休みの宿題を忘れていて途方に暮れた舞香と里緒を、勉強会を開いてまで救ってくれたのも香織だ。コンクールの本番終了後に舞香がもらい泣きしてしまった時、そっと優しく目元を拭ってくれたのも香織だった。思えば舞香は里緒ともども一年間、ありとあらゆる場面で香織の世話になり続けた。
その香織は今、一枚の分厚い卒業証書を手に、三年間を過ごした弦国の学舎を旅立とうとしている。進学先は弦巻大学の文学部だという。暖かくて穏やかな人柄を武器に、きっと新天地でも香織は多くの味方や友人を得て、舞香の知らない幸せな日々を生きてゆくのだろう。
寂しくてたまらない。
そう口に出すのは容易いことだ。
だが、いくら引き留めたくとも香織の卒業は止められない。そうであってみれば、『行かないで』などと訴えるのは舞香の手前勝手なエゴに過ぎない。香織を困らせこそすれ、喜ばせることはできない。
だから、言えない。
(意地でも言わない。香織先輩を笑顔で送り出すんだ)
代替わりを迎えた日から、舞香はそんな決心を胸の奥で秘かに守り続けてきた。
けれどもいざ香織を前にすると、笑顔を浮かべる余裕など短時間で消耗して、蝋人形さながらの無表情でちり取りを握るばかりだ。決心を守るのは簡単でも、決心を実践するのは簡単ではない。そんな単純な理屈を受け入れることもできないほど、まだ、舞香は心の中で香織の卒業に戸惑い続けていた。
「──私たちがいなくなっても、二人は今までみたいに楽しくやっていける?」
▶▶▶次回 『E.198 お掃除組の絆 【後編】』