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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
207/231

E.196 二度目の取材

 




 西成満がコンサートを開くようだ。──そんな耳寄りの情報が日産新報社に舞い込んできたのは、二月の上旬に差し掛かった冬の日だった。

 折しも新本社ビルが大手町に完成し、文化芸能部は立川オフィスからの移転作業に追われているところだった。これは、楽器コレクターとして名高い西成に取材を持ち込むチャンスだ──。取手雅はすぐに電話をかけ、西成に取材交渉を挑んだ。

 会場は豊島区の区立芸術交流センター『せぴあすぽっと』、開催期日は二月二十四日だという。一年前にストラディバリウスのヴィオラをオークションで競り落として以来、音楽界隈での西成への注目度は急速に高まりつつある。そもそもは都内屈指の大手不動産会社・東上ビル株式会社の創業者でもあるので、財界での知名度は元より抜群だ。きっと興味深い話を聞けるに違いない。

 念のために紬にも取材への同行を持ちかけたが、


「豊島区は私たち立川多摩支局の担当エリアじゃありませんし……」


 と、渋い顔で断られた。

 他に同行者を探すのも面倒だったので、たったひとりで取材に向かった。二月十九日、コンサートまでは残り一週間を切っていた。




「毎回毎回、あなた方マスコミはいったいどこから情報を仕入れてくるんです。コンサートの告知など、ポスターを貼る程度のことしかしとらんかったはずですが……」


 呆れと感心の混濁したような表情を水面(みなも)に映しながら、西成は湯飲み入りの茶を出してくれた。

 とんでもなく広い応接室だった。装飾品の並べられた豪華な部屋の天井を、雅はただ茫然と見上げた。個人の邸宅とは思えない立派な空間である。あまつさえ、途中で通りかかった廊下の一角にはガラス張りのショーケースが設置され、そこには何本もの高級そうな楽器が艶を放ちながら眠っていた。


「あれもすべて、ご自身で収集されたんですか」

「ええ。譲り受けたものも幾らかありますが、基本的には購入したものが過半ですかね」


 さすがのコレクター魂に雅は声も出なかった。収集癖のない雅には、これほど熱心に何かを集める人の気持ちは分からない。


「他に金の使い(みち)が思い付かないんですよ。大切にしていた妻も、もうこの世にはいないのでね」


 雅の当惑を見透かしたように小さく笑った西成は、湯飲みの盆をテーブルの片隅に置いて、二人の対岸に腰かけた。


「それで、今回はコンサートの件を取材しにいらしたんでしたかな」

「それもあります。どちらかというと、このたびのコンサート開催を機に、西成さんがこうして音楽への傾倒を深めるに至った経緯をお伺いできればと思いまして」


 切り出しざま、ポケットから取り出した手帳に雅はペン先を突き付けた。

 一介のコレクターでありながら、西成のもとには多くの“弟子”が集まって楽器の練習に励んでいる。今度のコンサートは西成のみならず、西成を師と仰ぐ何人もの奏者たちによって成り立っていると聞いていた。いったい何が彼らを西成に惹き付けたのだろう。西成の大層な経歴などよりも、そちらの方が雅の知的好奇心をくすぐって逃がさなかった。


「経緯ですか。そんな大仰なものはありませんよ」


 西成は笑みをこぼしながら眉を傾けた。「ご謙遜を!」と雅も笑ったが、彼の表情は特に変化を見せなかった。


「もともとクラシックを好んでいたのは妻だったんです。仕事をしていた当時も、よく合間を縫ってはコンサートを聴きに行っていました。けれども五十に差し掛かろうという頃になって、妻が病気で寝たきりになりましてね。コンサートに出掛けるのが難しくなってしまって」

「それで、ご自身が演奏をなさるように?」

「ええ。妻が特に好きだったのはオーボエでした。ご存知の通り、オーボエはこの世で最も吹奏の難しい楽器だ。毎日とはいきませんでしたが、必死にカルチャースクールへ通って腕を磨いたものですよ」


 不動産会社の経営という重責を担っていた彼にとって、日常生活や仕事とオーボエの練習という両輪を維持するのは難儀だったことだろう。「なるほど」と相槌を打ちながら、仕事と育児の両立に苦心する紬の横顔を雅は想起した。

 オーボエは扱いの困難な楽器といわれる。リードを二枚も消費するダブルリード楽器で、しかも使用するリードは自作が基本だ。クラリネット以上にキイが複雑に絡み合っているため、運指(フィンガリング)の難易度も高い。おまけに音が出やすい構造をしているため、かえって息の調整が難しいという問題もある。それでいて、実際の演奏では美しい音色を買われてソロを引き受ける場面が多い。『世界で一番演奏の難しい木管楽器』としてギネス世界記録に名指しで認定されるなど、その難しさは折り紙付きなのだ。


「難しい楽器とは聞きますが、オーボエの放つ透き通った音色は大変美しいものですよね。奥様が好まれたのも納得の気がします」

「妻も同じようなことを言っていましたよ。あの音色は至高だ、どんな疲れも癒してくれる──。それが彼女の口癖だった」


 立ち上がった西成は歩いていったかと思うと、間もなく一本のオーボエを手に戻ってきた。クラリネットと同じグラナディラを素材に持つオーボエの管体は、黒々とした円錐に白銀のキイが無数に巻き付き、複雑怪奇な絡繰(からく)りの様相を呈している。


「それが、西成さんの使っておられた?」

「現在進行形で使っておりますがね」


 西成は苦笑した。「失礼しました」と頭を下げたが、彼は気を悪くした様子もなく、うっとりとオーボエに指を這わせて撫でた。


「練習を始めて二年も経つ頃には、私の吹奏で妻は眠りについてくれるようになった。それがひどく嬉しかったものです。私の奏でた音は妻に確かな癒しを与えているんだ、私の音は妻に認められた──。そんな風に思えてね」


 西成の瞳は遠くなっていた。手にしたオーボエではなく、その管体に映る誰かを見つめるように、彼はそっと細めた目を丁寧にしばたかせた。


「命の灯火が落ちる前に、もっとたくさんの音を聴かせてあげたかった。……なんて、今さら悔いてもどうにもなりませんが」

「今も演奏を続けていらっしゃるのは、それが理由ですか?」

「綺麗事に聞こえるでしょう。でもね、私が生きて、こうしてオーボエを手にしている限り、天国で妻も喜んでくれているのではないかと思ってしまうんですよ」


 綺麗事などと卑下するが、それもまた死者に対する立派な敬意の払い方なのではなかろうか。ほんのりと温まった胸で吐息を()しながら、雅は眼前の年老いた男を見つめた。西成が単なる一介のコレクターで終わらないのは、こういう実直な楽器との向き合い方に理由があるのだろうと考えた。

 大切な人を失った時、自分はこの男のように弔いに力を尽くせるだろうか。何気ない疑問が雅の胸をかすめて消えた。一般的に見て、女性は男性よりも長生きだ。いつか雅も西成と同じ立場に陥るのかもしれない。そんな視点で西成を見上げると、彼の人柄に透ける寡黙な崇高さが際立つように思った。


「今度のコンサートでも、オーボエを?」


 話題を換えようと思い立って、尋ねた。西成の表情はいくぶん明るくなった。


「ええ。ベートーヴェンの〈ピアノ協奏曲第五番〉というのがあるでしょう」

「ピアノ協奏曲ですか? オーボエソロの出番はないのではないですか」

「はは、私が主役を張る必要はありませんよ。今回は色々と楽器を集められそうだったので、思いきって大がかりな曲をやろうという話になってね」


 にこやかに切り返され、雅は穴を掘って地面に埋まりたくなった。主催者は主役でなければならない、などという発想は幼稚が過ぎたようだ。

 〈ピアノ協奏曲第五番〉は、大作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが十九世紀初頭に書き上げた曲である。演奏時間は延べ四十分近くにのぼり、伴奏を担う楽団の規模も大きい。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット等、多彩な楽器が出番を持つ。初演の人気は奮わなかったものの、現在ではベートーヴェンの生み出した名作としての地位を確立させている曲だ。


「他にも知り合いの楽団から共演を持ちかけられたりしましてね。〈韓国幻想曲〉なんかを一緒にやろうかと思っとります」

「確か、韓国の国歌の元になった曲でしたよね」

「クラシックとは趣旨の違う現代曲ですが、ま、色々な種類の曲を混ぜ込んだ方が面白いでしょう」


 西成は白い歯を見せた。この度量の広さも、西成が弟子を惹き付ける一因なのか。雅はまたひとつ西成の人柄に詳しくなった。


「それもこれも、多くのお弟子さんが参加されることで実現したわけですよね……。ここまで来ると、まるでちょっとした私設の楽団みたいですね」

「そうおっしゃっていただけるとありがたいですよ。『高い楽器で釣って人を集めている』なんて、ネットや音楽家の界隈ではお叱りを受けたりもしますがね」

「そ、そうなんですか?」


 思いがけない言葉に雅はうろたえた。変わった嫉妬の仕方もあったものだと思った。


「なに、私が気にしなければいいだけの話です。きちんと楽器として活用してやらないと、せっかく集めた楽器が可哀想ですから」

「そうですよね……。それに、楽器目当てで弟子の皆さんが集まったわけでもないんでしょう?」

「さあ、それがどうかは分かりませんがね。大半の人々は私が高い楽器を持っていることを知りながら来ているので」


 西成の口で否定をあやふやにされると、どんな反応を返せばいいのか分からない。「そうですか」と口ごもったら、狼狽気味に西成が両手を振った。


「あ、いや、『楽器目当ての可能性がないとは言い切れない』というだけですよ。新聞にそのまま書いたりはしないでいただけると嬉しい」


 万が一にも雅の書いた記事を弟子が読んでしまえば、既存の信頼関係が崩れるかも分からないということだろう。「分かっていますよ」と雅は苦笑を噛んだ。長年の経験で、そのくらいの配慮はできる。

 それに、西成が心の底から弟子たちを疑っているようにも見えなかったから。


「……昔、いたんですよ。私のことを本当に何も知らないまま、弟子になるといって慕ってきた人が」


 西成は背中を丸め、膝の上で両手を握った。彼のオーボエはテーブルの上に横たえられている。それを、西成はしわの浮き始めた指先で軽くつついた。


「その人と出会ったのは、彼女が大学を卒業した直後のことだった。高校からのクラリネット経験者で、マイ楽器を買いたいがお金がないというので、クラリネットを一本、貸してあげたんです」

「何年前のことなんですか?」

「もう十七年前です。当時、私は妻を亡くしたばかりの五十八だった」


 オーボエに触れる指先は丸かった。楽器が彼の声を変調しているかのように、優しい音色で彼は雅の問いに応じた。

 西成は六十歳で東上ビルの代表取締役社長を退任しているから、五十八歳の時点ではまだ現役の実業家だった。出会った当時、彼女は目の前の男が大富豪であることを十分に知り得たはずである。


「彼女は私のオーボエを称賛してくれた。私の社会的地位も、高価な楽器を集めていることも何ひとつ知らないままに、その女性は純粋な音色だけで私を評価してくれたんです。そういう前例があるからでしょうかね。私はまだ、弟子の皆さんが私を実力だけで評価してくれているのではないかと、心根の部分で信じたくなる」


 腑に落ちる感覚が鮮やかに起こって、「なるほど」と雅は唸った。西成が弟子を楽器目当てだと考えないでいるのには、それなりに信頼性を伴う根拠があったのだ。


「だとしたら、少なくとも確実に一人はいらっしゃるんですね。西成さんを実力で慕ってくれる方が」


 微笑みかけたら、西成は首を横に振った。


「残念ながら、彼女はすでに亡くなりました」

「えっ……」

「妻も、その女性も、私の音を喜んでくれた人はみんな先に逝ってしまった。数奇なものですよ」


 自嘲気味に口を曲げた西成は、声を失った雅を静かに一瞥して、まぶたを閉じた。西成満という男の背負う運命の冷たさ、そして重さを、ようやく初めて雅は実感した。


「いくら素晴らしい楽器を集め、音を磨いても、大切な人の命は呆気なく燃え尽きる。だから、彼ら彼女らが元気なうちに、私は私の音を届けたい。聴かせたい。大切な人たちの声や音に耳を傾けたい。今回のようにコンサートを催すのはそのためです」


 西成は一言、一言を噛み砕くように丁寧に紡いで、まぶたを開いた。


「これが、音楽に対する私の向き合い方ですよ」


 雅の知る限り、それはもっとも健気で、もっとも儚い、されど強い芯に貫かれた音楽との向き合い方だった。メモを取ることすら忘れて茫然と話に聞き入っていると、手元のオーボエが銀色のキイに照明を反射して、そっと輝かしい(ささや)きを発した。









196話のゲストは取手雅、西成満の2名でした!


▶▶▶次回 『E.197 お掃除組の絆 【前編】』

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