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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
206/231

E.195 上級生の未来

 




 年が明けて一月十二日。上野の東京文化会館を舞台に、東京都高等学校文化祭音楽部門中央大会が開催された。

 通称、“中音”。弦国管弦楽部の代替わり直前に訪れる、現三年生にとっては最後のイベントである。

 この東京都高等学校文化祭では、弦国の位置する国分寺市は『多摩北地区』に分類されている。中音に先立って十一月に行われた“地区音”──音楽部門地区大会は、各地区に属する高校の生徒たちが一堂に会して互いの演奏を聴き合うという、地区内の交流会としての色彩が強いイベントだった。中音も基本的には同様だが、参加するのは各地区の学校から地区別に選抜された生徒たちで構成される生え抜きの楽団である。

 弦国からは十二人のメンバーが多摩北地区管弦楽団に参加した。内訳は三年生全員のほか、菊乃、美琴、恵、智秋、里緒、緋菜であった。

 見知らぬ他校の生徒たちを前にして、里緒が激しく萎縮していたのは言うまでもない。しかし他校の生徒は皆、コンクールでの八分超にわたる独奏(ソロ)パート演奏の成功によって半ば有名人と化していた里緒のことを、とうの昔に方々(ほうぼう)で伝え聞いていたようだ。楽団仲間たちの温かな手で迎え入れられた里緒は、同じ一年の緋菜の支えもあって無事に東京文化会館の舞台に立ち、クラリネットパートの一員としての役割を立派に果たしてみせた。

 運営補助に回った残りの十四人も、大会の裏側を覗くという貴重な経験を得てそれなりに満足を得られたらしい。かくして何事もなく中音は閉幕し、弦国管弦楽部は年度内の活動日程をすべて終えた。


 中音が終われば、いよいよ現三年生は代替わりを済ませ、弦国管弦楽部を立ち去る。

 六人の三年生が卒業式で演奏することはない。

 手塩にかけて育てた二十人の部員たちの温かな送り出しを背に、皆、それぞれの道へと初めの一歩を踏みしめる。避けて通れぬ別れの時は、早くも二ヶ月後に迫りつつあった。






「……まぁ、規定路線だったんじゃない?」


 新たな幹部の顔ぶれの感想を尋ねられた上福岡洸は、呑気に笑いながら夜空へ視線を逃がした。

 自分では気を抜いて微笑しているだけのつもりが、よく『爽やかな笑みだ』と好意的に勘違いされる。呑気ついでにコンビニで買った炭酸を開封すると、隣に並んだはじめが「そう言うと思った」と濁った息をついた。


「だってそうだろ。滝川さんが部長なのは議論の余地なしの大前提だけど、隣に茨木さんや松戸さんみたいなのがいないと彼女は暴走しかねない。でも、茨木さんには楽器管理係を継続してもらいたいから、すると副部長は自動的に松戸さんに定まる。そんな具合にピースを当てはめていけば、(おの)ずと今の顔ぶれに落ち着くだろうなって」


 代替わりを終えて()部長と()副部長になった二人は、今日も普段と同じように足並みを揃えて駅までの道を歩きながら、その日の反省会を開いていた。一年前の代替わり時から続けている習慣だ。部の幹部ともなると伝達や共有の必要な事項が多くなるので、こうして定期的にミーティングの場を設ける工夫を続けてきたのだった。

 次期部長の菊乃と副部長の佐和は、きっと菊乃と佐和なりのやり方で話し合いの機会を設け、管弦楽部を回してゆくのだろう。洸たちの工夫は所詮、無数に繰り返される部の新陳代謝のほんの一層に過ぎない。三年も経つ頃にはすべてが忘れ去られ、はじめや洸が活躍したことを残す痕跡は掻き消える。


「規定路線……ね」


 愛用のスポーツドリンクを開封しながら、はじめは長い睫毛を二、三度としばたいた。


「私、滝川が半年前のまま変わってなかったら、部長の地位なんか譲ってなかったと思うけどな」

「それはどうだろ。あんなにカリスマ性のある子は他にいないし、結局は滝川さんになってたんじゃないか」

「だとしたら、おっかなくて管弦楽部を引退できなくなるところだった」

「留年でもするつもり?」

「まさか。喩え話よ」


 小さく鼻で笑ったはじめは、足元を埋め尽くす無言のアスファルトの粒に視線を注ぐ。秋の日は釣瓶落とし、すでに夜空のパレットには漆黒の絵の具がどろりと溶けつつある。街灯や商店街の喧騒を浴びた路面は色とりどりに(つや)を放ちながら、行き交う無名の人々を静かに見送っていた。


「この半年で誰より大きな変化を遂げたのは、うちの部員じゃ間違いなく高松だろうね。そんで私は、二番目は滝川だと思ってる」


 スポーツドリンクの蓋を閉じたはじめは、ボトルを胸元に(かざ)しながら空を仰いだ。


「昔、あの子は自分の見据えた夢にガンガン邁進する牽引型のリーダーだった。個人より全体、周囲より自分の論理を優先しちゃう子だった。だからって悪いわけじゃない。特に運動部あたりじゃ、ああいうタイプのリーダーは重宝される。だから、あれはあれで天賦の才だったんだと私は思う」

「同感だな。あのカリスマ性は誰にでも発揮できるもんじゃない」

「そうね。でも、六月の終わりに高松が目の前で()()()()()のを見て、多分、あの子は気づいたんだ。それまで気にも留めていなかった視界の外で、自分たちのために思わぬ犠牲が生まれていたことに」


 滝川菊乃のリーダーとしての素養は自他ともに認めるところだ。牽引力のある彼女に欠けていたものはたったひとつ、ついて来られない周囲に対する思いやりと心配りだった。けれども、フォロー抜きには一人で立てない里緒という少女と出会って、菊乃は大きく変貌した。部内最強のクラリネット奏者が音を喪失するという非常事態に直面し、周囲と一から向き合うことを余儀なくされた彼女は、次第にそれを自分自身の能力として取り込み、牽引しながらも周囲を(おもんぱか)れる部長適格の存在に昇華していった──。それが、一年間にわたって菊乃の適性を吟味し続けたはじめの見立てだという。

 相変わらずの観察眼の鋭さや丹念さに、洸は舌を巻かざるを得ない。


「もしかして二年生全員分、今みたいな分析をして役職に宛がったのか?」

「そんなことしたら頭がパンクするでしょ。やったのはほんの一部だけ。滝川と茨木と松戸、八代、戸田、高松、青柳、白石、浪江……」


 それだけやっていたら十分だ。手を振って列挙を遮った洸は、「さすがだよ」と天を振り仰いだ。

 大津はじめという人物は、その賢い観察眼と分析力であらゆる物事を見極め、時には冷徹に判断を下しながら部を導く存在だった。だが、その冷徹さに時として耐えられなくなる子も出てくる。この一年を通じて洸が演じてきたのは、そんな“怖い部長”をサポートしながら部員たちのフォローもして回るという、“優しい副部長”の役割だった。こうして一年を終えてみると、その役回りは概して上手くいったと評価できそうだ。

 人にはそれぞれに得意不得意、得手不得手がある。今度の代替わりでは、二十人の後輩たちそれぞれの特性を見極めながら、最適の仕事に任じてやることができたと自認している。


「次の代も上手くやっていけるかな」


 炭酸の抜ける音を聴きながら疑問を放ると、はじめは「どうだろうね」と突き放した。声色だけは至って淡々としていた。


「高松の件みたいなイレギュラーが起こらないとも限らないし、確たることは何も言えない。最善は尽くしたと思うけど」

「イレギュラー、か……。確かに、毎年あんなことが起きてたらたまらないな」

「私たちだって乗り切るのに苦労したでしょ。反対を押しきって急に合宿を開いたりもしたし、練習のスケジュールだって色々と調整したし。コンクールには結果的に部員総出で参加したわけだし」


 去年の夏、部の運営は完全に自転車操業と化していた。次第に薄れゆく苦心の記憶を掘り返しつつ、「まぁな」と洸は半笑いを浮かべた。こうして平和な空気を噛みしめながら部を退くことができるなんて、きっと当時の洸たちは予想もできなかった。


「お互いの不都合を能力と余力でカバーし合って、みんなで部活を支えていく。私たちはそうやって高松のトラブルを乗り切った。今の二年と一年は、その成功体験を手に管弦楽部を運営していくんだ」


 だから、と台詞を()いだはじめは、手にしたスポーツドリンクを空高く放り投げた。


「──何があっても多少は上手くやっていけるよ、あの子たちは」


 夜の光を吸い取って輝いたペットボトルは、重力に従ってはじめの手のひらにすっぽりと収まる。「上手いね」と眉を持ち上げたら、はじめは満足げに唇を染めた。

 その横顔こそが、洸の問いかけに対するはじめの返答だったのだろう。

 洸の結論もはじめと同じだった。似た思考回路の持ち主でもないのに、こういうところで洸とはじめは不思議に気が合う。円滑な部の運営には、部長と副部長の相性の良さも多少は寄与していたのかもしれない。

 改札が近づいている。駅の南北を結ぶ自由通路の階段を上りながら、きらびやかな駅ビルの電飾に洸は目を細めた。──この光景を拝む日々も、残すところ二ヶ月だ。


「上福岡は明日以降も部に顔出すんだっけ」


 はじめが尋ねてきた。ヴァイオリンのケースを握り直して、洸はうなずいた。


「池田さんや松戸さんたちに教えたいこともまだまだあるしね。それに自分の練習もある」

「未来の音大生は大変だな」

「入学が決まってるだけでもありがたい身分だけどな」


 本当ね、とはじめが静かに嘆息した。すでに世間は大学入試の季節に突入しているが、管弦楽部を引退した三年生たちの苦戦は洸たちの耳にも届きつつある。やはり一般受験は一筋縄ではいかない。

 洸は昨年十一月末、芸文大学音楽学部を一般公募推薦入試の枠で受験し、十二月上旬に合格を勝ち取っていた。入学先は器楽科のヴァイオリン専攻だ。音大の受験には専攻楽器や副科ピアノ、新曲視唱などの実技試験が必須なので、一般受験組でありながら例外的に管弦楽部に残って練習に励んでいたのだった。残りの三年生五人は全員、系列校の弦巻大学への内部進学組である。


「大津さんは文構志望だったっけ。内部進学組の進路には疎いんだよな、僕」

「そう、文化構想。あとは生駒が政経の経済、長浜が文、本庄が創造理工の建築、芽室が国際教養」

「本庄さん理系志望なのか。意外だ」

「あの子は機械の仕組みが好きらしいから。楽器管理係やってたのもそれが理由のひとつだって」

「へぇ、多才だな」


 そうでなくてもあらゆる金管楽器を自在に使いこなす才覚の持ち主だというのに。「音大も視野に入れてくれたらよかったのに」と笑ってみたら、めったに口元を崩さないはじめが苦笑を浮かべた。

 すでに引退した四人の三年生たちは、クラリネットの岩倉逸花が慶興大学の医学部、トランペットの今治志緒が神田橋大学の社会学部、トロンボーンの川棚明日汰が多摩工業大学理学院の物理学系、ユーフォニアムの大東美月が鈴懸学院大学の文学部を志しているらしい。いずれも都内では一流の名門学府だ。志す甲斐もあろう。

 現二年生ではトロンボーンの佳子とトランペットの丈が、彼らに続いて一般受験を志し、管弦楽部を引退する。またもトランペットとトロンボーンが一名ずつ消える運命をたどるので、どうやら管弦楽部の金管楽器不足は今年も解消されない見込みだ。

 春は誰もが未来を見据え、一斉に動き出す季節。

 四月になれば洸も芸文大学の一員となって、立川市の北部に位置するキャンパスへと通学を始める。忙しなくて、新たな興奮や苦悶や刺激に満ちた世界が、きっと洸を待ち受けている。


「大津さん」


 声をかけたら、はじめが顔を上げた。うっすらと汗ばんだ手に、洸はICカードを握り込んだ。


「大学生、楽しみ?」

「変なこと聞くね」

「たまにはいいだろ」

「私は楽しみだよ。後腐れなく大学生活を謳歌できる自信がある」


 はじめも洸と同じようにICカードを構え、二人揃って自動改札に踏み込んだ。

 重たい音を立てながら、センサーに反応したフラップドア式の扉が洸の進路を開く。扉に巻かれた空気が渦を成して足にまとわる。ほんの一時、足取りが重くなって、洸の爪先は踏み込みをためらった。

 けれどもすぐに「だって」とはじめが続けた。


「……楽しかったからね、高校生活」


 その答えが、洸の行く手を阻む空気の縄を力強くほどいて、消した。


「僕もだ」


 小さく落とした同意はコンコースを転がって、誰にも拾われずに消えてゆく。その頭上を踏み越え、洸は明日へ続く家路をたどり始めた。






 一月十八日。

 一年間にわたり管弦楽部を支え続けた上福岡洸は、執行代としての役目をようやく終えた。







195話のゲストは上福岡洸、大津はじめの2名でした!


▶▶▶次回 『E.196 二度目の取材』

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