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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
202/231

E.191 新入団員

 




 ラックタイムス・フィルハーモニー交響楽団は、十一月半ばに十五回目の定期演奏会を開催した。

 披露した曲数は十二にも及んだ。仙台ラックスの応援歌を皮切りに、洋の東西を問わず楽しげな有名曲を集めて練習を重ねてきた。会場に選んだ一二〇〇人収容のホールは観客でいっぱいに埋まり、ラックス楽団の人気の高さを改めて裏付けた。プログラムの内容もつつがなく完遂でき、大成功のうちに演奏会が幕を下ろしたのは言うまでもない。

 だが、ラックス楽団の立ち回りが忙しくなるのはここからである。


「僕たちと同じステージに立ちませんか!」

「初心者大歓迎ですよ! 私もパートリーダーも元は初心者でした!」

「今なら先輩団員たちの熱い初心者向けレッスン付き! 生活に余裕の出てきた今が入団のチャンスっすよ!」


 ──翌日からラックス楽団は本社オフィスを舞台に、大規模な勧誘活動を開始したのだ。

 十一月と言えば、研修を終えた新入社員が各部署に配属されて業務に従事し、いくぶん仕事内容を理解するようになってきた頃合いである。入団者の数が例年もっとも多いのは、このコンサート後のタイミングなのだった。

 チューバパートの新発田亮一もまた、精力的に社内でアピール活動に勤しむ団員の一人だった。


「なぁ、お前、趣味って持ってるか?」


 企画課に来たばかりの新入社員──永平寺(えいへいじ)(おさむ)の肩を豪快に叩くと、哀れ、彼は「ひっ」と飛び上がった。顔を思いっきり近付けた亮一は、全力の笑顔で彼を動けなくしたところに、眼前へ団員募集ビラを押し付けた。


「か、課長?」

「仕事ばっかに追われてるとロクな大人になれねぇぞ! これ、俺が参加してる楽団なんだけどな。なんと初心者大歓迎で新入団員を募集中なんだよ」

「あ、いえ、その、おれは……」

「もったいぶるなって! お前なんか足腰もしっかりしてそうだし、でけぇ楽器も十分に扱えると思うんだよな。どうだ? 興味ねぇか? 興味ねぇなら見学だけでも──」

「新発田くん」


 傍らを通りかかった経理部長が冷ややかな声をかけてゆく。亮一は「へへ」と誤魔化しの笑いを浮かべ、腰を上げた。この一週間ばかり同じように強引な勧誘を各地で繰り返しているので、そろそろ本格的に咎めを受けてもおかしくない。しかしすべては楽団の未来のためである。


「怖がらせて悪かったな」


 怯えて小さくなった永平寺の頭に二、三度と手を置きつつ、ちゃっかりビラだけは置き去りにして自席に戻った。こんなことでパワハラだの何だのと訴えられるわけにはいかない。そろそろ攻め方を変えるべきかな──。凝った肩を回しながら難しい顔をしていたら、「あの!」と背中に声が当たった。


「あの、おれ、本当にまったくの初心者なんですけど……。音符の読み方すら分からないんすけど」


 すぐさま亮一は椅子を回した。永平寺が席から立ち上がり、亮一の広い肩を一目散に見つめている。

 一瞬ばかりのためらいを飲み、彼は問うた。


「おれでも入団できるんですか?」

「大歓迎だと言っただろうが」


 亮一は会心の笑みで応じた。






 結局、今年は十二人の社員たちが新たにラックス楽団の仲間となった。経理部からの新入団員は二名。そのうち一名は、亮一が企画課の中から引き抜いた例の永平寺である。華やかな金管楽器に関心を示した彼はトロンボーンに抜擢され、意気揚々とスライドを握りながら初心者練習に打ち込み始めた。

 残りの一人は誰かというと──大祐だった。コンサートを機に、大祐は古巣のホルンパートへ正式に復帰したのだ。なので厳密には再入団だが、手続き上は新入団員とまったく同じ。勧誘終了後の初顔合わせでも大祐は他の新入団員と並ばされ、ご丁寧に『()()()です』とアナウンスされた。


「ひとりだけ新入りのふりした経験者が混じってるぞ」

「新入団員があんな大音量のホルン吹けるかよ!」

「あれで三年もブランク空いてたとか、冗談が過ぎるんじゃないですか?」


 復帰草々、大祐は周囲の団員たちからさんざんにいじられ、冗談のネタにされていた。素直な反応は見せなくとも、彼らは古株の復活が嬉しくてたまらなかったようだ。いじることさえしなかったが、亮一の本音も彼らに同じだった。


 しかし再入団から数週間も過ぎると、当の大祐が居心地悪そうに振る舞う姿が目につき始めた。

 いつも練習開始ぎりぎりに駆け込んできては楽器を組み立て、吹き、練習が終われば足早に練習場所のカンファレンスセンターを後にする──。それが大祐の楽団での過ごし方だった。大半の団員たちは練習終わりの時間を雑談に費やし、賑やかな余暇を過ごしているのだが、大祐は明らかにそれらを避けているようだった。

 ホルンパートリーダーの水戸は、その姿を前にして密かに気を揉んでいたらしい。ある日の帰り際、亮一は眉間にしわを寄せた水戸に呼び止められた。


「高松くん、前からあんな感じだったかね。もっとゆっくり過ごしていく人だと思ってたが……」

「事情の変化が理由じゃないんですか。俺はそう思ってましたけど」


 会議室の一角に集まって和気あいあいと盛り上がる新入団員たちの姿を横目にしつつ、ひそひそと亮一は応じた。彼らが仲良くしているのは、大半が今年入社の同期社員だからでもある。あの輪の中に大祐は混じれないし、本人だって望みはしまい。

 大祐は今、不登校にまで陥った不安定な娘を抱えている。練習のない日は定時を守って帰宅し、里緒と一緒に夕食を囲むようにしているそうだ。いつまでも楽団仲間と油を売っているわけにはいかないのだろう。それらの事情を話して聞かせると、「しかしなぁ」と水戸は白髪を掻いた。


「もともと楽団の活動のある日は帰宅だって深夜になるし、一目散に帰るのは娘さんのためだけってわけでもないと思うんだがな……」


 水戸の言うことにも一理ある。「まぁ……」と亮一は唸った。唸る以外に返答のしようがなかった。

 思い返せば、東京本社への復帰後も大祐は長らく楽団に顔を出そうとしなかった。居づらくなれば再退団などと言い出すかも分からないし、あまり悠長に笑ってもいられない。苦笑の余力もないのか、憂いの差した顔で水戸が迫ってきた。


「何が気にかかって早く帰宅してるのか、新発田くんの方でそれとなく聞き出せんかな。新発田くんほど信頼を置かれてるとも思えんし、我々は迂闊に高松くんのプライベートには踏み込めそうもない」

「置かれてないんですか、信頼」

「どうだろうね。娘さんのコンクール観戦に誘ってくれた時といい、以前よりも心は開いてくれているような気がしてたんだがね……。蓋を開けてみればこれだからな」

「とりあえず、俺も何かできないか考えてみます」


 眉根に寄ったしわを解しながら答えると、「助かるよ」と水戸は顔を綻ばせた。

 大祐は繊細な男だ。サポートの役目を担えるのは親友たる自分しかいないと、亮一は勝手に自負していた。その程度には、大祐と自分の仲は深いと思っている。


(仕事終わりでも狙ってみるか)


 戦略を練ろうと思案を始めたところで、チューバパートの同僚が「新発田さん!」と駆けてきた。聞けば、パート内の新人の歓迎会を開きたいという。


「おう。やろうじゃねぇか」


 すぐさま亮一は笑顔で応じた。

 この崩れる隙のない笑顔こそ、亮一の誇る最強の武器だった。






 機が熟したのは二日後のことだった。いつも忙しなく退勤してゆく大祐が、その日は定時が過ぎても制度連結課のオフィスに残っている。


「暇か」


 呑気に声をかけに行くと、「何しに来た」と大祐は鬱陶しげに睨み返してきた。


「お前こそ珍しく何してやがる。六時は過ぎたろ」

「今日は急いで帰る必要ないんだ。明日までにまとめる資料があるから、手をつけようかと思って」


 今夜は一人娘の里緒が部活の仲間たちと外食するため、帰宅しても食卓を囲む相手がいないのだという。そう聞き付けるや、すかさず亮一は大祐の肩に腕を回した。「暑苦しい」と大祐が顔をしかめた。


「おたくの里緒ちゃんが外食してる間、俺たちも外食と洒落(しゃれ)()もうじゃねぇか」

「なんだよ急に。新発田にだって家庭があるだろ」

「俺は高松と違って大食らいでな、外食した後でも嫁の夕飯を美味しくいただけるんだよ」

「そんなことは聞いてない」


 言葉尻にこそ棘が混じっているが、大祐の断り方は大人しい。気性の穏やかな大祐は、こういうとき決まって直接的な拒否を嫌がる。

 有無を言わさずパソコンの電源を落とし、通勤カバンもろとも大祐の首根っこを掴んでエレベーターまで連行した。ドアの前で箱の到着を待っていたトロンボーンの永平寺が「うわっ」と()()った。


「な、仲いいんですね、先輩方は」

「当たり前よ! こいつと俺は仕事仲間であり楽団仲間であり、心を交わした戦友よ。お前もこういう仲間を持てよ」

「持たなくていいからな」


 すぐさま大祐が不機嫌な調子で口を挟んだ。




 馴染みの居酒屋『きずな』は六本木駅前の雑居ビルに入っている。いつか再会を喜んで囲んだカウンター席で、大祐に裁判の起こし方を尋ねられたのが懐かしい。あれから早くも半年が経ち、大祐の起こした裁判は中盤の証拠調べ手続きに突入している。

 道すがら、裁判の経過はどうかと尋ねた。大祐はうつむきがちに「そこそこ順調だよ」と答えた。相変わらず、日産新報をはじめとするメディアや世論からの支持も大きい。電話で学校側に解決を求めた際の録音データなど、ありったけの証拠を集めて提出したので、学校側の安全配慮義務違反は十分に立証できそうだという。


「里緒ちゃんとはどうだ。元気でやってるか」

「そっちもまぁ、変わってないよ。里緒はすっかり元気になった。友達とも上手くやってるみたいだ」

「なら、なんでお前はそんなに元気のない顔をしてやがる」

「それは新発田が無理やり俺を拉致するから──」


 勢いをつけて背中を叩くと、衝撃で大祐は台詞を喉に詰まらせた。

 馴れ馴れしい自覚はある。けれども、こんな絡み方をする相手が他にいるかと言えば、いない。亮一にとって大祐は数少ない親友級の同僚で、それは大祐がいくら疑おうとも揺るがない事実なのだ。


「また一人で何か抱え込んでるんじゃねぇだろうな、お前」


 詰ると、大祐は亮一から目を反らした。


「何の話だ」

「楽団の話だ。水戸さんもずいぶん心配してたぞ。高松が楽団に居着いてくれない、何か心配事でも抱えてるんじゃねぇかって」

「…………」

「そりゃ、お前は確かに新入団員だけど、同時にお前はうちの古株でもあるだろ。変に周りに気を遣う必要なんてねぇし──」

「──そうじゃない。深い理由なんてないよ」


 大祐が遮った。半端に残った言葉を飲み込んだ亮一を前に、大祐はカバンの持ち手を握り替えながら空虚な笑みを吐いた。


「新発田は人気者だな。いつも周りが声をかけにくるし、お前も積極的に周りへ気を配るし」

「それがどうした」

「俺には真似できないってつくづく思うよ。俺がホルンパートの席に座っていても、誰からも声なんてかからない。練習終わりの雑談も聞き役に徹するだけだ」

「…………」

「前に水戸さんから『高松くんのサウンドが抜けた穴は大きかった』って言われた。俺が三年間あそこを留守にしたことで失われたものって、本当にその音量(サウンド)だけだ。改めて見学から始めた時、俺がいなくてもホルンパートは十分に楽しそうだったし、今は新入りの子が大事にされてる。長居したところで面白いことは何もない」

「……だからさっさと帰ってるってことか」

「深い理由はないって言ったろ」


 吐き捨てたきり大祐は口をつぐんだ。情けなさげに唇を縫う横顔を、呆気に取られた亮一は無言で眺めた。水戸たちの話していたこととは真逆だ──。真っ先に心を衝いたのはそんな感想だった。

 ホルンパートにも今年は新入団員が宛がわれている。初心者ともなればパート全体が付きっきりで寄り添っているだろうし、そこに大祐が自分との格差を感じたとしても不自然ではない。要するに、大祐が苦しんでいるのは疎外感なのだ。

 しかし、接し方が分からなくて困っているのは、ホルンパートの仲間たちも同じのはずである。


「……そんなことかよ」


 思わず鼻から声が出た。「悪いか」と大祐が怒り心頭の反論を口にしたので、回した手で肩を軽く揉んだ。戦友は顔を歪めた。


「昔からそんなだったよな、お前。孤立したって思い込むとどんどん本当に孤立しやがる。新入社員研修の頃から何も変わってねぇ」

「三つ子の魂百まで……とか言うだろ」

「その三つ子にひとつ教えとくとな、高松はホルンパートの連中からずいぶん気を配られてるぞ」


 大祐は歩みを止めた。


「嘘はついてねぇからな」


 余計とは思いつつ、言い添えた。脳裏に浮かんでいたのは、新人時代の大祐と自分の姿だった。

 二人の関係の始まりは新入社員研修にまで(さかのぼ)る。研修中、亮一と大祐とは同じ部屋の住人だった。当時、大祐があまりにも無口で周囲とコミュニケーションを取ろうとしなかったので、不思議に思って亮一の側から絡みにいったのだ。数週間に及ぶ長いアプローチの末、大祐は誰にも言わない約束を厳重に交わした上で、無口の理由をふたつ教えてくれた。

 ひとつは、単に他者との交流が得意ではなく、話しかける隙をいつも見逃してしまうということ。

 ふたつは、妊娠している彼女のことが気がかりで、他人に構っている心のゆとりがないこと。

 特に後者の方があまりにも意外で驚いたのが懐かしい。けれども、その意外な事実を自分にだけ明かしてくれたという優越感が、ますます大祐への関心と好意を駆り立てたものだ。その後、大祐と亮一は偶然にも同じ課に配属され、十六年の月日を経て今の間柄を築き上げた。だから亮一は、大祐の性格を少なくとも人一倍は知っている。


「なぁ、お前はオケの仲間と仲良くしたいのか? そうでもねぇのか?」


 単刀直入に本心を尋ねると、大祐は眉をいくらか傾けた。


「……したいとは思ってる」

「なら、高松のやるべきことは簡単だな」

「本当に簡単なのか、それ」

「お前が思ってるよりは簡単だ」


 亮一は笑った。確かな自信を持って、鼓舞の言葉を発している自覚があった。

 声や言葉だけが心を交わす手段ではない。同じ空間に腰かけて互いの顔を眺めること。吐息に耳を傾けること。同じ何かを楽しんで泣き、笑い、感情を動かすこと。それらすべてが人間関係の構築に作用する。そもそも音楽だって、一説には感情表現の手段が派生して生まれたものらしい。『感情起源的様式』と呼ばれる、民族音楽学における有力説のひとつだ。

 上手くしゃべって会話をリードする能力がなくとも、心を開いた意思を伝えることはできる。二ヶ月前、大祐は愛娘のコンクールにパートの仲間を呼ぶことで、間接的に親愛の情を伝えていたはずだ。しかし大祐の様子からして、本人はそのことに気づいていなかったのだろう。


「おたくの里緒ちゃん、次は何のイベントに出るんだ?」

「……中音だよ」


 さりげない体を装って聞くと、大祐は素直に答えてくれた。中音のことは亮一も知っている。すかさず、亮一は畳みかけた。


「当然ながら俺たちのことも呼んでくれるよな」

「当然も何も、まだチケットを取るかすら──」

「決まりだな! ホルンパートの連中にも伝えておく」

「おい!」


 大祐が困惑げに叫んだが、無視して亮一は六本木駅の地下道をずんずん進んだ。

 しかし大祐の追ってくる気配はない。仕方なく立ち止まって、だめ押しの笑顔を突き付けた。


「お前が楽団(あそこ)でニコニコしてる方が、俺も楽しい」


 大祐はうつむいた。

 中音──東京都高等学校文化祭音楽部門中央大会の開催は、記憶が正しければ来年一月のはずである。予定を合わせるのに苦労は要らないだろうし、きっとパートの仲間たちも誘いを断らないはずだ。日産新報の記者が大祐を尋ねてきた時といい、今度といい、お膳立ては亮一の得意分野だった。

 帰宅する客の黒山の向こうに、『きずな』の最寄りに出る階段が見える。「置いてくぞ」と声を投げかけたら、ようやく顔を上げた大祐が慌てて後をついてきた。




 大祐が亮一をどう思っているのかは知らない。

 その答えが何であろうが、亮一は自分が社内で一番の大祐の理解者だと断言できる。

 こうして面倒に絡んでは大祐を困らせ、周囲と大祐との距離を埋め、力を込めた手で背中を押してやることが、お節介焼きな亮一には楽しくてたまらないのだ。









191話のゲストは新発田亮一、水戸辰彦、永平寺治の3名でした!


▶▶▶次回 『E.192 ゲーム対決』

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