表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
201/231

E.190 低音の平凡な日常

 




「──すいませんでしたッ!」


 出せる限りの声を尽くした八代智秋は、額を床に打ち付ける勢いで頭を下げた。

 むろん、土下座である。女子ばかりの部活で土下座をすると良からぬものが色々と見えかねないので、土下座の時は決して本人の顔と地面以外に視線を向けないのが智秋流だった。他の流派があるのかは知らない。

 謝罪の相手は嘆息した。智秋の土下座に対する感想は特に漏らさず、彼女は机の上に放り出された小さなストラップをつまみ上げた。


「大事にしてたのにな、これ」

「ですよね……。いや本当、こればっかりはおれのミスです。すいません詩先輩……」

「謝罪は分かったけどさ、いったい何したら首だけ砕けるの? これ」


 智秋は顔を上げて、彼女──詩の指につままれたキャラもののストラップを見上げた。

 小学生から高校生まで幅広い層に話題の“ぷちどろいど”のストラップだ。熊の着ぐるみをかぶった女の子が、身に余るサイズの鮭を抱えている。問題は、その女の子の首から上が折れて割れ、惨殺死体もびっくりの姿を晒していることだった。


「……床に落ちてたのをかかとで踏んづけたら割れました」

「床に落としたのは?」

「おれかもしれないっす。分かんないんすけど……」


 踏んだ瞬間しか覚えがないのだ。知っていることだけを正直に智秋は伝えたが、詩はいっこうに表情を変えてくれない。すぐ傍らの机に投げ出された金色のチューバが、夕陽の色に萎びた無表情な詩の顔を淡々と映し出している。


「あーあ、私のKUMA(くま)ちゃんが……」


 その場に突っ立ったまま、詩は静かに嘆いた。尋問の終幕を予期したのか、それまでやり取りを黙って見守っていた緋菜があわあわと口を挟んできた。


「ほ、ほら、また同じ子をどっかで手に入れられるかもしれないですよ! だから元気出してください! 八代先輩も顔、上げて! 練習に戻りましょうよ」


 緋菜の勧めを無視するのも気が咎めて、智秋はようやく身体を起こした。だが、悄然と立ち尽くしながらチューバを取り上げる詩の横顔を見るにつけ、土下座の熱意が足りていなかったのではないかと不安に駆られた。練習にはちっとも身に入らず、智秋の抱える巨大なファゴットはへろへろと情けない音を垂れ流すばかりだった。




 もとはと言えば、練習の休憩中に詩がトイレに立って、彼女の持ち物が机上に放置されたのが、今回の事件のきっかけだった。弦国管弦楽部の低音セクションは人数が極端に少ないので、休憩は基本的に三人でいっぺんに取っている。

 “KUMAちゃん”は詩の愛用する筆箱につけられていたものだ。それが、いつの間にか床に転がっていて、緋菜と歓談に興じていた智秋の足に引っ掛かり、踏んづけられて頭が割れた。不可抗力と言えば不可抗力だが、それではさすがに誠実さを欠く。


「──まぁ、お前の不注意だろ」


 帰る道々、踏んづけた事件のことを話して聞かせると、コンビニのチキンを片手に宗輔は断じた。相棒のチェロが隣にないと、宗輔の身体は普段の三割増しくらいに見える。巨体の放つ正論に打ちのめされた智秋は、「分かってるよ」と肩をすくめた。


「だいたい、なんで今さら本庄さんを怒らせたくらいでそんなに凹んでんだ。普段の八代なら土下座して一件落着だろ」

「……やっぱお前もそんな風に思ってんの、おれのこと」

「当たり前だ。部員全員、()()()()()でお前を見てる」


 安易に謝罪をふりまく土下座芸人を標榜してきた覚えはあるので、そう指摘されると返す言葉がない。

 宗輔の頬張ったチキンが断末魔の香ばしい匂いを放って、十一月の乾いた空気を漂いながら智秋の鼻を刺激する。しかめ面をした智秋は、すぐにそれをほどいて、地面に転がる小石と吐息を蹴った。


「……おれさ、今回みたいな怒らせ方したのは初めてなんだよ」

「物を壊して怒らせた、ってことか」

「土下座なんておれの悪ふざけが原因なのが大半だからさ、おれがきちんと謝りさえすれば済むんだよな。でも、今回はそうじゃないんだ。まるっきりおれの不注意であって故意じゃないし、しかも大事にしてたものを壊して実害も与えちまったし」

「…………」

「おれ、今度こそ詩先輩に嫌われる気がする。……本気で」


 身体を暴れ回る悪寒に耐えながら、不安の形を正直に吐露した。宗輔は何も答えないまま、チキンの残りの欠片を口に放り込んだ。

 日頃、いたずらやちょっかいで緋菜を困らせ、あるいは詩を怒らせるたびに、智秋は土下座で場をやり過ごしてきた。それが通用していたのは、智秋のいたずらが致命的な不快感を二人に与えていなかったからだ。智秋とて、やりすぎのボーダーラインはきちんと認識している。ここまでなら大丈夫だと計算しながらちょっかいを出しているし、挽回のための努力は常に欠かしていない。

 しかし今度は事情が違う。壊したストラップは取り返しがつかないのである。


「あの“KUMAちゃん”、限定品なんだってさ。めったに見つからないって詩先輩が言ってた」


 力なく笑いながら、取り出したICカードを駅の自動改札に押し付けた。「代わりを手に入れるのは無理ってことか」と応じながら、一歩遅れて宗輔が改札を通過してきた。

 その通りだった。宗輔の口にした冷酷な事実が、智秋の失望をいや増しにする。


「ま、仕方ないだろ。同じキャラを使ってるグッズでも見つけてお詫びに差し出すしかない」

「……だよな」

「それと、お前の話を聞いてる限り、本庄さんは八代が思ってるほど怒ってはいないと思うぞ」


 宗輔の言葉紡ぎがあまりにも滑らかだったものだから、危うく智秋はその台詞を聞き流しかけた。「なんでだよ」と宗輔を振り返ると、彼は傾いた通学カバンを肩にかけ直した。


「それは本人にでも聞いてみろ」

「聞くのが怖いからお前に相談してるんだろ……」

「どうせ明日も明後日も、顔合わせて一緒に練習するんだ。いつまでも怖いとか言ってられるか」


 またも正論である。情けなく丸まった智秋の背中に優しさをかけることもなく、宗輔は黙々と歩いて智秋の横に並んだ。

 戸田宗輔という男は無口だ。眼前でどんな言い合いが繰り広げられていようとも、自分の意見や制止の言葉は滅多に口にしない。無愛想の度合いで言えば美琴にも匹敵する。だが、美琴がそうであるように宗輔もまた、沈黙の裏で周囲の動向を冷静に観察している。必要とあれば仲裁に入るし、こうして相談にも乗ってくれる。五月に菊乃がコンクールへの参戦を提案した時、舞台に立つことに反対しなかったのも、自分(チェロ)が加われば曲選択の幅が広がると考えたからだという。バランスを見るのが得意なのだ。


「……信じてもいいのかよ、その言葉」


 つぶやくと、「当たり前だ」と宗輔はつまらなそうに唸った。冬の手前だというのに身体がカッカと温まって、ICカードをカバンに放り込んだ智秋は宗輔の肩にじゃれついた。


「何すんだ鬱陶しい」

「お前ってやっぱ最高にいいやつだよ! ありがとな! 借りができた!」

「その借りはどうでもいいから、八代は早く俺の貸した数学のノートを返せ。勉強ができない」

「すいません……」

「いつもの土下座はなしか」

「あれは校内限定なんだよ。でないと色々と見えちまうだろ」

「見えてる自覚はあるんだな」


 鼻で笑った宗輔は、智秋を振りほどいてホームへ続く階段を下りてゆく。その大きな背中を追いながら、近場にあるキャラクターグッズの専門店を智秋はいくつか脳裏に並べた。


 きっと今度も挽回してみせる。

 それは決して義務感からではない。後フォローを忘れないのは智秋なりの美学であり、智秋なりに愛を込めた大切な人との接し方だからだ。






 大事な後輩の前で醜態は晒せない。放課後、急いで音楽室に向かった智秋は、緋菜が来る前に詩を低音セクション用の教室に連れ込み、手のひらほどの紙袋を手渡した。

 戸惑いを隠すこともなく眉を傾けながら、詩は丁寧に整えられた包装紙を破き、外してゆく。するとそこには智秋の選んだグッズが姿を現す。「うわ」と彼女は無意識の声を上げた。


「何これ! かわいい」


 詩の神経を逆撫でする事態は避けられた様子だった。ほっと安堵をこぼした智秋は、ハートマークの浮かんだ瞳で手の中のグッズを愛でる詩の姿を黙って眺め、次の反応を待った。

 “ぷちどろいど”シリーズには複数のキャラクターがいて、智秋が選んだのは“NEKO(ねこ)ちゃん”のストラップだった。猫の着ぐるみをかぶった女の子が、抱き枕よろしく特大のマグロにしがみついている。詩の溺愛していた“KUMAちゃん”と比べると希少価値では劣るが、それでもやはり安定の可愛さで人気の高いキャラクターである。


「ひららもーるの雑貨屋で見つけました。ラスト一個だったんで、もう即断で買った感じっす」

「だろうなー。このシリーズのストラップほんと人気でね、どこに行っても大概売り切れてるんだ」


 興奮気味にストラップを眺め回しながら詩が応じる。

 どうやら智秋はすんでのところで、幸運を手繰り寄せることに成功したようだ。危なかった──。一息をつくと、不要になった焦りと緊迫感がそこへ溶け、泥となって体外へ流れ出していった。ようやく見つけた雑貨屋に“NEKOちゃん”しか見当たらなかった時はどうなることかと思った。

 脱力を深める智秋を前に、くす、と詩は鼻息をこぼした。


「昨日買ってくれたんだ、これ」

「昨日っすよ。もう慌てて慌てて……」

「慌てることなんてなかったのに」

「へ?」


 問い返すと、指先に引っ掛けたストラップを詩は器用に回し始めた。回しながら、ほんのりと赤らんだ頬を指先で掻いた。


「私のこと怒らせたと思って焦ったんでしょ。でも別に私、そんなに怒ってたわけじゃないから。ショックだったのは事実だけど、筆箱を床に落ちるような場所に置いてたのは私の不注意でもあるし。だから申し訳なさそうな顔ばっかりしないで」

「……詩先輩」

「あ、でも、この子は八代の気持ちだと思ってしっかり受け取っておくね」


 智秋は強張った頬が一気に緩むのを覚えた。

 よかった、詩は智秋を嫌ってはいなかった。宗輔の見立ては見事に当たっていたのである。

 それもこれも平素の心掛けが招いたのだろう。悪意を持っていたのではないと伝わったのは、きっと智秋の誠実な謝罪が詩の心にきちんと届いたからだ。急激に高まった嬉しさは熱に置き換わって、智秋の喉に声を押し上げる。


「詩先輩」

「ん?」

「抱き着いてもいいっすか」

「それはダメ。セクハラ」

「すいませんでした」


 いつもの癖で謝ったら、いつもの癖で身体が勝手に土下座した。「ふふっ」と鼻息を放った詩が、腕組みをしたまま智秋を見下ろす。こうして普段通りの茶番を演じられることが、智秋には何よりも愉快で、何よりも幸せだ。心の底からそう思った。


「ひゃ! いきなり何したんですか八代先輩」


 不意に扉を開けた緋菜が叫んだ。目と目を交わして、それからついでに笑顔も交わして、智秋と詩は「誤解!」と叫び返した。








190話のゲストは八代智秋、本庄詩、戸田宗輔の3名でした!


▶▶▶次回 『E.191 新入団員』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ