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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
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E.189 ピクニック

 




 折り畳み式の弁当箱を開くと、ぎっしりと詰まった昼食が姿を現した。身を乗り出した拓斗が「おいしそう!」と真っ先に声を上げ、ふりかけ色のおにぎりを取ろうと手を伸ばす。


「こーら待ちなさい、手を拭いてないでしょ」

「えー、たべたいたべたいたべたい!」

「ほんのちょっと我慢するだけなんだから。ほら、おてて開いて」


 懸命に右手で制止をかけつつ、開いた左手でカバンからおしぼりを探す。だが、闇雲に手を突っ込んだのが災いして、なかなか指先におしぼりが引っかからない。

 見かねたようにポーチを開いた里緒が、自分のおしぼりを差し出してくれた。


「これ、使ってください」

「いいの?」

「大丈夫です。私、まだ何枚か持ってるので」


 致し方なく、厚意に甘えることにする。逃げる拓斗の手を捕らえて拭きにかかっていると、「大変ですね」と大祐が苦笑した。恥ずかしい場面を見せてしまった紬は恐縮するばかりだった。

 空は一面の晴れ。

 涼しい秋風が陽光に絡まって木々の合間を抜け、頬を叩いて消えてゆく。

 十月二十七日。神林家と高松家の四人は、やや季節外れのピクニックを開いているところだった。




 十月末の昭和記念公園は、おおむね普段通りの人出で賑わっていた。その中心部には、延べ十一ヘクタールもの広大な面積を誇る芝生の広場『みんなの原っぱ』がある。日当たりのいい北側の端を選んでレジャーシートを広げ、陣取った。差し込む日の光は夏に比べて弱くなったが、多少の厚着をすれば屋外でも寒くはなかった。

 弁当箱の中身は全て里緒と大祐が用意したものだった。おにぎりが二種類と玉子焼き、アスパラガスのベーコン巻き、ミニトマト、サニーレタス。彩り豊かな食材を前に、嫌でも口腔の唾液が甘くなる。

 昼食の用意を任せてしまったのを詫びると、里緒と大祐は顔を見合わせて、「いつものことだから」と頬を緩めた。二人とも人並み程度には料理の能力を持ち合わせている上、ともに多忙で家を空けることの多い二人にとって、戦力に余裕のある方が弁当を用意するのはごく自然な分担なのだという。


「神林さんのところはお子さんの朝の支度で手一杯でしょう。気兼ねする必要はないですよ」


 風の掻き上げた髪を撫で付けながら、大祐はとりなしの穏やかな声で紬を包んだ。

 里緒のコンクールを境にして、大祐は紬の前でも明るい表情を見せてくれるようになりつつある。その変化を喜ぶべきか、喜ぶ資格が自分にあるのか、まだ紬には答えが出せない。だからひとまず「そうですよね」と苦笑いを返して、遠慮しながら昼食を頬張った。塩味の絶妙に効いたおかずはどれも美味で、進みすぎる箸を自制させるのに苦労した。

 まったく自制していなかったのは隣の拓斗だ。


「おいしい!」

「もういっこ食べたい!」

「これぼくの! それとあれとこれもぼくの!」


 と、気に入った味のおかずを片っ端から口に放り込んでゆく。アスパラガスは口に合わなかったようで、代わりに紬が引き取っるのを心掛けた。高松家の二人は「好きに食べてくれていい」と心を配ってくれるが、さすがに拓斗の手前、その善意に素直に従うのは紬のプライドが許さなかった。

 さんざん食べ散らかした挙げ句、拓斗は幸せそうな顔で横たわったかと思うと、紬の膝を枕にして眠りに落ちてしまった。後片付けはこちらでやると里緒や大祐に止められたので、紬は身動き一つも許されないまま、目の前で撤去されてゆく弁当箱をぼんやりと眺める羽目になった。

 こんな厚遇を受けてしまって、そのうち天罰でも下されるのではなかろうか。


(何から何まで世話になっちゃったな……)


 浮かんだ無力感と不甲斐なさ、それからついでにいたたまれなさを、紬は口に含んだ紅茶で喉まで洗い流した。きっと二人が何よりも嫌がるのは紬の暗い顔だろうと、直感的に予想がついていた。




 結局、拓斗は三十分ほどで目を覚ました。


「これやろっか」


 ピンク色のやわらかなボールを里緒が見せると、跳ね上がった拓斗は「やるー!」と叫んで靴を引っ掛け、レジャーシートを飛び出していった。園児の持つ瞬発力は侮れない。くたびれたアラサー真っただ中の紬には、彼の真似など絶対に叶わない。

 拓斗たちは二十メートルほど離れた場所でキックパスを始めた。あらぬ方向へ全力でボールを蹴る拓斗と、園児のレベルまで力を落として付き合う里緒。少なくとも端から見ている分には、その姿はまるで年の離れた実の姉弟のようだった。


「拓斗くんはずいぶん慣れてるんですね、うちの里緒に」


 胡座(あぐら)をかいた大祐がつぶやく。紬は無意識にうなじを掻いた。


「慣れているというか、一方的にじゃれついているだけだと思います……。里緒ちゃんの迷惑になっていなければいいんですけど」

「まさか。私からしたら逆の言葉をかけたいくらいですよ」

「逆の言葉?」


 ええ、と大祐はいささか身を起こした。透き通った二つの瞳は、転がっていったボールを懸命に追いかける愛娘の背中に、そっと静かな焦点を結んでいた。


「あの子が誰かと夢中になって遊ぶ姿なんて、今も昔もなかなか見る機会がなかったですから。あの子は引っ込み思案で、自発的に声をかけて友達を作るのが昔から苦手だったんです。積極的に近づいてきてくれる拓斗くんのような子は、里緒にとっては貴重な存在でもあるんじゃないかと思って」


 十六年にわたって里緒の横顔を見つめてきた父親の言葉だけに、大祐の里緒評は実に重みがある。

 自分は迷惑をかけることにアレルギーが強すぎるのかもしれない。崩した正座の重心を前に移しながら、紬は膝の上で両手を組み、もてあそんだ。

 別に、誰彼構わず迷惑をかけたくないわけではない。雅のように保護者同然に立ち回ってくれる人の前では、どう頑張っても素が出てしまう。結城のように迷惑をかけてきた人間に関しては、むしろ自ら迷惑の報復を仕掛けてやりたいほどだ。残念ながら紬はそんなに出来のいい性格の人間ではない。


「……私、正直、びっくりしたんです。私の提案にお二人が乗ってくださって、こうしてピクニックを開けていることに」


 膝を見つめながら吐露すると、大祐の振り向く衣擦れがゆったりと響いた。気づかないふりをして紬は続けた。


「大祐さんとは何度も個人的にお会いしてますし、里緒ちゃんとも何とか和解を果たしました。……でも、だからといって、ここまで気軽に遊ぶ用事を入れていただけるほど心の距離が縮まっているとは思っていなかったんです。ご本人の前でこんなことを言ったら失礼かもしれませんが」


 実は、今度のピクニックを提案したのは紬だった。といっても提案らしい提案をしたのではない。もとをただせば一週間前の夕方、いつものように多摩川の土手で里緒のクラリネットに耳を傾けながら、紬が何気なく放った独り言が発端だったのだ。『いつかピクニックにでも行けたらいいのにな』──なんて。そんな拾う値打ちのない発言を律儀に拾い上げた里緒は、家に持って帰って大祐と日程を合わせ、こうしてピクニックを実現させてくれた。

 里緒は果たして今、かつてのような親近感を神林親子に感じてくれているのか。

 その答えを里緒が口にすることはない。口にされないものは予想するしかないが、こういう時、プラスの予想をすると往々にしてマイナス方向に裏切られることを、紬は我が身をもって知っていた。

 視界の端で大祐の身体が動いた。曲げていた足を前に投げ出し、自由な姿勢になった大祐は、小石のような吐息をレジャーシートに転がした。


「里緒も同じようなことを言ってましたよ」

「え?」

「『ピクニックやってみたいけど、神林さんの迷惑にならないかな』って」


 その段になって、紬はようやく目の高さを引き上げることができた。大祐の目は相変わらず遠くに注がれていた。力いっぱいボールを蹴り飛ばす拓斗や、それを楽しそうに受け止める里緒の向こうで、爽やかな秋晴れが立川の空を埋め尽くしている。


「心の距離と仲の良さはイコールではないと私は思うんです。里緒がどうかは分かりませんが、少なくとも私はまだ、神林さんのことを完全に許せたわけじゃない」


 こちらを見ないまま、大祐は淡々と言葉を繋ぐ。横から窺う顔色は、声色ほど平坦ではなかった。


「許せたわけではないですが、同時に、神林さんは信頼に値する人だとも思うんですよ」

「わ、私が、ですか」

「神林さんは私との約束を果たそうと尽力してくれたじゃないですか。我々の側の意見発信に手を貸してくれたし、その過程で約束通り、里緒を取材に巻き込まないでくれた。だから、あなたは信じられる人だと思うし、これからも信じていきたい。それは許せるか否かとは別の次元の話だと思います」

「…………」


 紬は大祐から目を背けた。こんなにも大らかな受け止め方をされると、些細なことにこだわって二人からの拒絶を恐れる自分の卑小な心が、急にひどく惨めに思えてきた。


「……私は」


 夢中で束ねようとした心が声を紡いで、無意識に口を転がり落ちた。


「私はまた、あなた方を裏切ってしまうかもしれないのに、ですか?」

「お互い様でしょう」


 大祐は笑った。自嘲混じりで純度の低い、しかし確かな温度と湿度を持った笑い声だった。

 視線を外したまま、じっと紬は黙り込んだ。草木を撫でる風の音が心地よく、大祐のくれた温もりはもっと心地よかった。黙っているといつまでも漬かっていられてしまう。

 大祐と里緒からの信頼だけは、何がなんでも失いたくない。──温もった胸を指の腹で押しながら、確かに、そう願った。それは罪滅ぼしのためばかりではない。紬自身の意思で、そうありたいと心の底から思ったのだ。

 芝を踏みしめる音が断続的に響いたのはその時だった。


「ねーねー、ママとおじさんもやろうよ」


 拓斗の声だった。ボールを両手で抱えた息子と里緒が、レジャーシートの手前に戻ってきている。


「二人だと物足りないんだって」


 眉を下げて微笑んだ里緒が、そのままの表情を紬に向けてきた。振り返ると、「そうだな」と一足先に大祐が腰を上げている。すっかり出遅れた紬は、慌てて不参加の言い訳を組み立てかけた。


「わ、私はほら、荷物番もあるから……」

「盗難の心配なら要らないでしょう。すぐそばにいるわけだし」


 大祐が畳み掛けてくる。遠慮の余地を見失った紬は、仕方なく「そうですね」と口を持ち上げた。

 厚意はともかく、好意を提示されたのなら積極的に受け入れた方がいい。変な裏を疑うべきではない。そう考え直すべきだと思った。


「やったー! ママもだ! ママもだ!」

「ここだと狭いね。もうちょっと向こうに行こっか」


 狂喜する拓斗の手を引いた里緒が、芝生を踏んで遠ざかってゆく。一瞬ばかり二人きりになったレジャーシートの足元に、そっと、大祐が声を置いた。


「あの、神林さん」

「はい」

「その、一人称……“俺”でもいいですか。さっきから“私”だとしゃべりにくくて仕方ないんで」


 思ってもみない提案だった。紬は一時ばかり、返答も言葉も忘れて立ち尽くした。


「……私のことは下の名前で呼んでくださって構わないですよ」


 つい調子に乗って、余計な条件を加えてしまった。それでも大祐は笑ってうなずいてくれた。

 それから頭を掻いて、うつむいて、付け加えた。


「何て言うか……。これからも俺と里緒と仲良くしてください、紬さん」


 大祐の意図をとっさに汲むことはできなかったが、少なくとも紬にとって、こんなにも心を動かされる提案は他になかったと思う。ぽかぽかと暖炉のように温かな日の光を浴びながら、紬は今度こそ、無条件で大祐の言葉にうなずき返した。




 時刻は午後二時。

 四人で過ごす秋の長閑(のどか)な休日は、ようやく中間地点を折り返そうとしていた。








189話のゲストは神林紬、神林拓斗の2名でした!


▶▶▶次回 『E.190 低音の平凡な日常』

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