C.019 新天地の日常【Ⅱ】
四日目。芸術選択の結果が公表され、同時に初めての芸術の授業がスタートした。初日に京士郎からの説明があった通り、各一年生たちは【音楽・美術・書道・工芸】のうちから一科目を選び、一年間にわたって履修することとなっている。
ふたを開けてみると、里緒、花音、紅良の三人は、揃って音楽の授業を選択していた。
「げ、イチャモンロングがいる」
選択結果発表の紙を覗き込んだ花音が苦々しい声で言い放ち、さっそく周囲の子たちの失笑を買った。二人の対立に巻き込まれる立場の里緒は嘆息を隠せるはずもなかった。お願いだからもう少し、もう少しだけ、平和的なあだ名で呼んであげてほしいのだけれど。
名付け親の花音に言わせれば、『イチャモンロング』というあだ名の由来は『何かと突っかかってくる長髪だから』なのだという。昨日は授業中に居眠りをして怒られたクラスメート・翠のことを『居眠りちゃん』、さらに転じて『ねむりん』と名付けていた。花音の名付けセンスは独特だと思う。その毒牙にかかったら何と呼ばれてしまうのだろうと思うと、里緒に与えられた『里緒ちゃん』という現状の呼び名はずいぶん平穏な部類に感じられるのだった。
そんな“花音式あだ名付け”の毒牙に真っ先にかかったのは、D組担任にして音楽教諭の京士郎であった。曰く、『キョンシー先生』らしい。出会ったばかりの生徒に手酷いあだ名をつけられていることも知らず、指揮棒を手にした京士郎は音楽室に勢揃いした一年生の面々を前に、今、咳払いをひとつ落として表情の繕いを済ませているところだった。三時間目、第一回目の音楽の授業の時間である。
「さて、今日の授業は初回だ。委細についての解説は配布した講義要綱に譲るが、この授業では合唱や合奏といった実技、ならびに音楽的知識や教養の享有を通して、芸術としての音楽の楽しさや表現の可能性を学んでもらいたい。一学期の授業内容としては、実技面では楽譜の読み方の練習や合唱・歌への親しみ、学習面では身近な音楽について各自に調べてきてもらったことの発表を考えている。音楽は初心者という諸君もいるだろうが、楽しい授業にできるように配慮してゆきたい。──ああ、ところで歌の練習に当たっては楽譜を用いようと思っているんだけれど、君たちはもちろん小学校や中学校で楽譜をもとにリコーダーを吹いた経験があるだろうね。楽譜の読み方がまるで少しも分からないというのはまずいからね。恐らくは小学校でソプラノリコーダー、中学校でアルトリコーダーを使っていたと思うけれども、そもそもリコーダーには重低音のサブ・サブ・コントラバスリコーダーから超高音のクライネソプラニーノリコーダーまで実に十種類以上のタイプが存在するんだがそれらの中にもいくつかの仕様の違いがあって例えばソプラノリコーダーとアルトリコーダーは『C』の音を発する時に指で塞ぐ孔の位置が────」
生徒の傾聴度が著しく落ちていることにも心を配らず、京士郎は8の字を描くように歩き回りながら好き勝手に話し続ける。授業開始からすでに五分。さっそく飽きを覚えた生徒たちが、小さく身体を動かしたり潜めた声でしゃべったりしているのが、里緒の座る最前列の席から見ても一目瞭然だった。
死体妖怪かどうかはともかく、実によく口の回る先生だと思う。対照的に会話全般を苦手とする里緒にとって、それは必ずしもマイナスの評価ではなかった。
(リコーダーか……。懐かしいな、中学まではよく吹いてたっけ)
合成樹脂の軽い手触りが特徴的だった茶色の縦笛を、見上げた音楽室の天井に思い描いてみた。思えばクラリネットと比べて、リコーダーという楽器とは音楽の授業以外できちんと向き合ったことがない。
学校教育でお馴染みの縦笛・リコーダーは、“エアリード楽器”に分類される。管体はプラスチックでできていても、リコーダーはクラリネットと同じ木管楽器の仲間なのだ。昔、母の瑠璃からそう教えてもらったことがある。
無簧というのはリード楽器の仲間で、本来リードを使って行われる空気振動の発生を管自体の構造によって行うもの。シングルリード楽器に該当するクラリネットは、言わばリコーダーの遠い親戚なのである。ただし、意外にもリコーダーの方が数世紀ほど早く登場しているので、さしずめクラリネットは甥か姪に当たることになるか。
中学の時のリコーダーは東京の家まで持ってきていただろうか。あとで段ボールの中、見てみなきゃな──。
思いふけっていたら背中が丸くなってしまった。慌てて背筋をぴんと伸ばした里緒の耳を、前の席に座るクラスメートたちのひそひそ声が打った。
「あたしリコーダー超キライだったなー。なんかピーピー甲高く鳴っちゃうしさぁ」
「それ分かるー。合奏で迷惑かけるのイヤだなぁ」
「Dの高松さんとかぜったい演奏上手いよね。中学のとき吹部の子が言ってたんだけどさ、クラリネットって初心者だと音すら出せないくらい難しい楽器なんでしょ?」
「そうらしいよねー。リコーダーなんかオモチャでしかないんじゃん?」
里緒のクラリネットの噂は他クラスにまで伝播してしまっているようだ。当の“Dの高松さん”が目の前に座っていることに、果たして彼女たちは気付いているのだろうか。
里緒は耳に栓でも詰め込みたい気分になった。同時に、ようやく業を煮やした様子の京士郎が、手を叩いて生徒たちを鎮めにかかった。
静まり返った音楽室を再び見回した京士郎は、隅に積み上げられていた大量の紙を持ってきて、順番に配り始めた。
「あ、楽譜だ」
誰かが紙の正体を口にしたのが聞こえた。里緒も受け取った紙に目を落とした。数多のおたまじゃくしを引っ掛けた五本の線が、横向きに何行も並んでいる。
「そうだな、楽譜だ。曲目は〈さくらさくら〉──。知らない者はいないだろう、春の風情を謡った名曲だな」
配り終えて余った楽譜をかざしながら、京士郎が説明を加えた。〈さくらさくら〉は、江戸時代に箏という和楽器の練習曲として作られたとされ、多数の編曲版や替え歌を生み出した、作曲・作詞者不明の一曲である。
こうして楽譜が配られたということは、もしや……。
授業の展開を察したのか早々に数人が顔を引きつらせていたが、京士郎は指揮棒を指先で捏ねくり回しながら、なおも話を続けた。
「一学期は歌唱を中心に実技を行うが、伸びやかな歌声を発するためには正しい呼吸法、すなわち腹式呼吸が欠かせない。いきなりだが、これから全員に一人一人、ここに出てきてこれを歌ってもらい、各人の呼吸法の完成度を確認しようと思う。メロディは楽譜の示す通り。万が一にも譜面が読めないという者がいたら、一旦飛ばして後からマンツーマンで教えてやる。さあ名前順で始めるぞ」
案の定、悲痛と非難の声が音楽室にあふれたが、京士郎はどこ吹く風とばかりに指揮棒を机上に放り出し、さっさとグランドピアノの前に座ってしまった。その指揮棒、何のために持っていたんですか──。喉まで出かかった疑問を、里緒はぐっと飲み込んで胃で溶かした。
「いきなり私なんて嫌だ! 先生提案です、くじ引きで順番を決めませんかっ!」
「面倒だ。はい青柳くん、前に出てきて」
「そんなぁ……! 私、公平性って大事だと思う!」
「選び方に関係なく先頭はみんなそう言うもんだ。ほら、伴奏始めるぞ」
名前順先頭の花音が健気な抵抗を試みていたが、梃子でも動かない京士郎の勝ちに終わってしまった。すごすごと舞台に向かう花音を眺めつつ、教師を前にしてもキャラのぶれない花音の頑丈さに里緒は秘かな感動を覚えた。
同時に、緊張が波のような勢いで押し寄せてきた。
みんなの前に立つ。この声で、歌わされる。
自己紹介失敗のトラウマが猛烈な勢いでぶり返してきた。
(無理……!)
込み上げそうになった衝動を、すんでのところで飲み込んでやり過ごした。考えてみると、楽譜を読み、自分の声で音色に変える練習なら、里緒はこれまでに幾度となく積んできていた。読譜訓練と呼ばれる、もっとも基礎的な楽器の練習法のひとつである。
上手くなくたっていいのだ。最後まで、音だけは外さずに。それだけでいい。
花音の上ずった歌声が音楽室を跳ね回っている。深呼吸をして腹式呼吸の調子を確かめながら、その合間に胸の中の臆病な自分へ里緒は言い聞かせた。
全員が歌い切った頃には、授業も終了間際の時間に到達していた。「よろしい、次回以降は腹式呼吸についても詳しい話をしていこう」──。そう言い残して立ち去ったあたり、京士郎としては不本意な出来だったらしい。
さながら連続公開処刑のような時間の中で、最も美しい歌声を披露していたのは誰かと問われたら、おそらく生徒たちの大半は同じ人名を挙げただろうと思われた。他でもない、紅良である。
名を呼ばれてステージに降りてきた紅良は、長い髪を手で梳くや、京士郎の伴奏に身を任せるようにそっと目を閉じ、そして歌い出したのだ。その表情と声色は最後まで冷静そのもののまま、
『さくらさくら 野山も里も 見わたす限り かすみか雲か 朝日ににおう さくらさくら 花ざかり──』
音程、響き、ビブラート、どれを取っても完璧だった。最後まで緊張をほぐすことができず、力んだ末に声のかすれてしまった里緒などは、まるで比較になりそうになかった。
「君は、うん……ずいぶん上手いな」
ピアノを弾き終えた京士郎は、それまではダメ出しや改善点の指摘を繰り返していたのが一転、狼狽えたように口にするばかりだった。席に戻った紅良も、周囲からの密やかな称賛を浴びていた。
「別に、上手くなんてないよ。特別な練習だってしたことないし」
どの問いかけにも澄ました顔で紅良は答えていたが、滅多に見られない笑みが口の端にちらりと覗いていたのを里緒は見逃さなかった。顔の素材のいい紅良のこと、らしくない笑みも十分に魅力的に映る。思わず、浅いため息を吐いた。
紅良も中学の時は吹奏楽部に在籍していた。特別な練習はしていないと言っていたが、彼女は里緒同様にソルフェージュを経験しているはずである。楽譜読みの練習はクラリネットに限らず、あらゆる楽器奏者に不可欠なものなのだ。
(ソルフェージュ……ううん、歌って、いいな。クラリネットほど場所を選ばないし、どんな人とも一緒にできる)
授業が終わってもなお歌声のよさを褒められ続けている紅良を眺めていると、そんな考えが頭骨の内側で瞬いた。
声は、歌は、万人に共通の楽器。羨ましいとは思うけれど、クラリネット以外のものがすべて不得意な自分のことを完全に否定してしまいたくはなくて、少し、笑みを繕った。管弦楽部に入れば、たくさんの奏者や様々な楽器とともにクラリネットが吹ける。“どんな人とも一緒にできる”のである。──もちろん、里緒がそうしたければ、という条件付きで。
十分間の休み時間はすでに始まっている。生徒たちは続々と音楽室を出て、自分たちの教室へ向かいつつある。
「……戻ろ、里緒ちゃん」
この上なく不機嫌な花音の声が降ってきて、里緒は紅良から視線を剥がした。先発一番目を任され、思いきり声を裏返らせて派手な大失敗を遂げた花音は、キョンシーのような出で立ちでファイルを手に突っ立っていた。
里緒は怖々と笑った。このあとの昼休みは、花音の愚痴に付き合わされるだけで終わってしまいそうだった。
「私が頑張らなかったら、私のタイムはちっともよくならないよ」
▶▶▶次回 『C.020 新天地の日常【Ⅲ】』