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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.001 はじまりの朝




「音楽は自らの人生であり、人生は音楽である」

"Music is my life and my life is music."





挿絵(By みてみん)

 





 ブレザーに袖を通して、よれた襟を整える。

 軽やかに舞って膨らんだ服の首元から、ぼんやりと柔らかな春の空気が流れ込んだ。東京の春は暖かい。油断していると眠気に心をくすぐられるが、だからといっていつまでも悠長に眠っているわけにもいかなかった。

 なぜって。

 今日から幕を開ける新たな日々が、鉄の色をしたドアの向こうで一足先に待っているから。

 鏡の中に立つ左右の反転した自分の顔は、どこかロボット然としてぎこちなく強張っていた。大きく息を吸って、吐いて、足元に置いたカバンを右手に握った。

 それから強張った声を無理に出して、全身全霊に叱咤をかけた。


「行こう」


 狭い廊下の先には薄いほこりの匂いが漂っていた。ローファーに足をかけて()いてしまうと、立ち上がってドアを開いた。晴れ上がった街の空はひどく(まぶ)しくて、一瞬、視力を失ってしまったかと思った。目を強くこすりながらドアを閉め、鍵をかけると、爽やかな四月の風が“やっと出てきたの”とでも笑いたげに足元を吹き抜け、スカートの(すそ)を少し持ち上げた。

 モノレールの高架線路が遠くの空に浮いている。今から急げば、次の七分後の列車に間に合うだろうか。足早に階段を下りようとして──ふと、高松(たかまつ)里緒(りお)は足を止めた。


 心地よい空気の香りを()いで、また、深呼吸に励んでみる。

 大丈夫だ。

 今朝はこんなに気分もいい。

 今日という節目から始まる新しい世界を、きっと恐れることはない。そんなお墨付きをもらった気分がして。


「……うん!」


 止めてしまった足をふたたび、前に振り上げた。






 高松里緒、十五歳。

 首都東京の西郊・立川に暮らす少女は、今日──四月八日をもって高校に進学する。

 午前九時の入学式開始まで、残り一時間ほど。桜の季節はもう過ぎてしまったけれど、ふんわりと眠気を誘うような春独特の陽気は朝の街を余すことなく包み込み、まだ見ぬ明日を夢見る若人(わこうど)たちの背中を、そっと穏やかに暖めていた。





 ◆





 多摩都市モノレールからJR中央線に乗り換えて、混み合う電車に乗ること合計二十数分。里緒の入学する高校は、国分寺という駅の最寄りに立地している。

 私立弦巻(つるまき)学園国分寺高等学校。略称は『弦国(つるこく)』。入学式へ向かう新入生と思われる親子連れの姿が、すでに国分寺駅の改札を通過する時点でちらほら散見された。


(やっぱりみんな、家族で来てるな)


 ICカードを自動改札に押し付けながら、里緒はちょっぴり強めにカバンを握りしめた。里緒に同伴者はいないのだ。同じ屋根の下で暮らしている多忙な父は、朝早くから会社に行ってしまっているから。

 コンコースを北に抜け、駅から高校へ向かう道の途上には、【(祝)新入生 国分寺へようこそ】の垂れ幕が街灯からいくつも下がっていた。毎日のように駅前を通る弦国の生徒は、北口の商店街にとって優れた顧客なのだろう。まだ見慣れない街並みを見上げていると、連なるビルの高さにため息が漏れそうになった。大きい。前に暮らしていた街のそれとは比べものにならないほどに。

 見渡す限りどこまでも広がる、知らない景色。

 知らない人々。

 知らない文化。

 これから里緒は、未知の事柄だらけの世界に足をつけて生きてゆかねばならないのだ。そう思うと急に心細くなって、里緒はまた、カバンを握る手に力を込めた。

 保護者同伴で来ている子たちのことが、つくづく(うらや)ましいと思った。

 新品のブレザーを見せびらかすように、両親の前で嬉しそうに一回転している子がいる。里緒は目線を下げて、足早に彼女の隣を通り過ぎた。

 やがて、交差点の先にガラス張りの建物が見えてきた。生徒数一千人超を誇る西東京有数の進学校、弦国の校舎である。あれだ──。ついてしまった勢いそのままに青信号を渡り、やや高いところにある校門を目指して坂を上った。


 小学校から中学校、そして中学校から高校へ。足掛け十五年の人生の中で、人間関係が丸ごとリセットされるのは今度で二度目だった。

 友達も、先輩も、一から作り直し。これまでの“リセット”は失敗ばかりの繰り返しだった。


()()づかないようにしなきゃ)


 足下を流れてゆく化粧石の模様を追いながら、里緒は唇を噛んだ。


(私が怖がったら何にもならないんだから。関心を持たれる人に、好かれる人にならなきゃ)


 それが何より難しいことなのだと、これまでの失敗経験を通してわきまえているつもりではあるのだが。

 周囲に関心を持たれるためには何が必要になるのだろう。高校受験という学力の(ふるい)にかけられて入学した以上、これから里緒の属することになる場所は、似通った学力レベルの人たちによって占められているはず。学力で差が付きにくいのなら、差別化の要因になるのはやっぱり運動か、それとも芸術か。もしかすると芸術の分野なら……。

 瞬間、整備の悪い場所に足先を思いきり引っ掛けて、衝撃で里緒の意識は現実に引き戻された。しまった、転ぶ!


()ったっ!」


 ついた両手と両膝に刺激が走って、(うめ)いた。やっちゃった──。慌てて立ち上がって砂を払おうとしたが、痛みのせいで膝が笑って上手く立ち上がれない。手放したカバンが(かたわ)らに落ちている。拾おうと伸ばした手の先に、見開いた目でこちらを凝視するいくつもの人影を認めて、里緒は曖昧に笑みを浮かべた。笑顔以上に適した表情など思い付かなかった。

 なんと幸先(さいさき)の悪い入学式前なのだろうか。


(とにかく拾って、立たなきゃ……っ)


 校門の前で無様な醜態をさらし続けるわけにはいかない。膝の痛みに顔をしかめながら、それでも無理をして立ち上がろうとしていると、不意に耳元へ声がかかった。


「──あの」


 里緒は弾かれたように顔を上げた。いつの間にか、そこには半端な姿勢の里緒を覗き込む二つの顔があった。

 二人とも里緒と同じブレザーを着て、里緒と同じ通学カバンを手にしていた。その制服(ブレザー)の襟元を彩るパイピングの色は、里緒と同じ一年生であることを示す青色。弦国の制服はパイピングの色で学年が区別されている。


「大丈夫? 痛そうだったけど……」


 恐る恐るといった雰囲気で尋ねてきた方の子は、髪を可愛らしく両耳の下で結んでいた。もう一方の子は艶のある長い黒髪をストレートで流していた。ぱっと読み取れる印象はそのくらいのものだった。

 里緒はすっかり泡を食ってしまった。


「だ、大丈夫です! 大丈夫ですっ」

「血、出てるけど」


 今度は長髪の子がハンカチを差し出した。言われて里緒が足を見ると、スカートの裾からわずかに覗く膝には赤色がにじんでいた。

 痛いのも、怪我をしているのも、傍目(はため)に見れば明らかなのだ。

 固まっている里緒を見兼(みか)ねたように、ずい、と長髪の子はハンカチを眼前に押し出した。二つ結びの子は立ち上がって引き返すなり、数歩先で待つ保護者のところで何かを受け取って戻ってきた。


「拭いて」

「これ、絆創膏(ばんそうこう)! 使っていいよ」


 気遣いの言葉をいっぺんに二つも重ねられた里緒は、思わず、喉元まで出かかった声を飲み込んだ。『申し訳なくて受け取れないです』──。それが本心だったが、初対面の相手に向かってそんな失礼な言葉を吐き出せるはずはなかった。


「ありがとう……ございます」


 結局、顔を正視することも叶わず、うつむきがちにハンカチと絆創膏を受け取って、止血を済ませた。血を拭き取った上から絆創膏で傷を封じると、染み渡るような冷たい痛みも少しは和らいで、鳴りを潜めた。

 これで入学早々、里緒の膝には仲良く二枚の絆創膏が並んでしまった。


「痛くない?」


 二つ結びの子に()かれ、里緒は小さく首を垂れた。


「……大丈夫、です」

「よかった!」


 彼女は笑った。長髪の子は笑いこそしなかったが、ひとまず安堵を覚えたように口元の一文字を少しばかり崩した。

 名前も、出身も、まるで知らない。けれど同じく未知の相手だったはずの里緒のことを、この二人は親切にも気にかけてくれた。

 “とっても助かりました。嬉しいです。”

 “二人もこれから、弦国に入学するんですよね。”

 “私、高松里緒って言います。二人の名前も知りたいです。”

 それらしい繋ぎの話題が弾けるように頭の中へ浮かんできたが、浮かんだそれを里緒が口に出すよりも早く、二人はそれぞれの付き添いのもとへ戻って行ってしまった。ああ、と(むな)しく漏れた声は、背後で発進してゆく路線バスの騒音にさえ掻き消された。


(やっぱり、こうなるな……)


 嘆息した里緒も、カバンを握り直して校門へ向かった。

 今度こそ、転ばずに。









「なんかわくわくするな」


▶▶▶次回 『C.002 新たな世界』

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