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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
199/231

E.188 野球観戦

 




 十月二十日。

 弦国の野球グラウンドには、見慣れないユニフォームをまとった男子高校生たちの姿があった。

 胸には【都立立国】の文字が刻まれている。誇らしげな校名のフォントとは引き換えに緊張の面持ちで白球を掲げた投手が、腕を一閃、バッターボックスめがけて球を放った。

 対して打席に立つのは弦国の野球部員だ。鋭い目で投球を睨み、コースを見切った彼は、バットを振ることなく球を見送った。ミットへの着弾とともに審判が「ボール!」と叫び、投手の少年は愕然と肩を落とした。

 バットを投げ出した選手が悠々と一塁へ向かい、空になったバッターボックスを次の選手が埋める。その交代劇をひとしきり眺めていたら、すぐ隣に立つ富田林が「面白くない試合だ」と嘆いた。


「一進一退どころか弦国(われわれ)の一方的な快勝じゃないですか。実力差なんてたかが知れているだろうに、なんでまた親善試合なんか」

「まあまあ。親善試合を申し込んできたのは都立立国(むこう)の方らしいですからな」


 組んでいた腕をほどきつつ、とりなすように天童が愛想笑いを浮かべる。「そりゃそうでしょうが……」と、富田林は相変わらず納得いかなさげだ。

 須磨京士郎は腕時計の示す時刻を確かめた。午後三時。弦国と都立立国の野球部による一騎討ちは、すでに試合時間が一時間を越えて五回の裏を迎え、弦国が圧倒的な点差で都立立国相手に勝利を収めようとしていた。




 天童の言う通り、今度の親善試合は都立立国から持ちかけられたものだった。上手なチームの戦い方を研究し、実際に対戦を経験することで、チームの危機感をあおらせるとともに実力向上を図りたい──という意図の申し出だったようだ。そもそも親善試合である以上、互いに勝敗にはこだわっていないという側面もある。

 二十日は日曜日で、大半の生徒は登校していない。こと教師に限っても、校内にいたのは副校長の天童と音楽の京士郎、保健体育の富田林、そして養護の対馬の四人だけという有り様だった。


「さすがに誰も見に行かなかったら彼らが憐れですし、どうです。四人で試合を見るというのは」


 書類の片付けを終えた天童の提案に、すぐさま富田林や対馬は賛同を示した。自分ひとりが異なる反応をするのも気が引け、京士郎は小首を垂れた。


「……僕も行きます」

「四人とも揃いましたね」


 どこか嬉しげに天童は応じてくれた。

 行くと答えはしたものの、京士郎には野球のルールはまったく分からない。辛うじて攻守やポジションの区別がつく程度である。富田林には「あれだけ管弦楽部を率いて甲子園の応援に行かれてたのに?」と驚かれたが、あのとき関心の的にあったのは応援の演奏であって野球ではなかった。だいたい、何が悲しくてあんなに小さな球を投げ、それを互いに打ち合わねばならないのだろう。そこには音楽と違い、必然の作り出す美しさは存在しない。運と力量差による勝敗が生じるのみだ。


「私も野球のルールはさっぱりですけど、弦国(うち)の子たちがグラウンドを元気に走り回る姿を見てると、なんだか理屈抜きに元気が出てきますね」


 ベンチに腰かけた対馬がほのぼのと感想を述べた。少なくとも京士郎の目には、グラウンド上を走り回る選手たちの姿は鋭い爪を押し隠した猛禽のように映った。本気を出せば都立立国の野球部など一回表のうちに揉み潰すだろう。元気が出る、とかいう可愛い次元の話ではない。


「運動部の子たちは大変ですね。野球部もそうだし、富田林先生のところのサッカー部なんかもそうでしょうけど、学校の看板を背負って戦うなんて並大抵のことじゃないだろうに」


 ため息の入り交じった言葉で目の前の部員たちを評すると、「お互い様じゃないですか」と富田林が笑った。


「背負うものが大きいのは管弦楽部も同じでしょう。よその学校の吹奏楽部じゃ、運動部以上に過酷な練習と規律で生徒を縛り付けて(しご)く、なんて話もザラに聞きますよ」

「ああ、まぁ……。吹コンの強豪校になるとそういうこともあるみたいですが」

「須磨先生のところの管弦楽部も、今年はコンクールやら何やらでずいぶん頑張っていたみたいじゃないですか。弦国の看板を背負って立った彼らのこと、もっと誇ってあげたらどうです?」


 かく宣う富田林自身、自分の率いるサッカー部の活躍を常日頃から周囲に自慢して回っている男だった。誇ってないわけじゃないんだがな──。もやもやと薄く煙る紫色の感情を、京士郎は黙って奥歯の隅に押し込んだ。

 管弦楽部の今年の頑張りには目を見張るものがあった。コンクールで独奏を務めた高松里緒をはじめ、おのおのの才能を十分に発揮したコンクール組の仲間たちは、その巧みな演奏でゴールド金賞を勝ち取った。彼らの努力を間近で見ていた京士郎にとって、管弦楽部の躍進が誇らしくないはずはない。誇らしいし、頼もしいし、嬉しい。けれどもそうした個人的な感慨を、京士郎は職員室の場で殊更に開陳しようとは思わなかった。

 なんとなく、気恥ずかしい。

 露骨な身贔屓(みびいき)をしているように見えて、そんな自分がたまらなく気に食わない。


「今年は特に積もるものもあったでしょう。私も須磨先生の管弦楽部自慢は聞いてみたいものだ」


 爽やかに含んだ笑いで京士郎の懸念を取り払った天童が、「お」とグラウンドを見つめた。鋭い打撃音がグラウンドを駆け巡り、高々と打ち上がった球が宙を舞う。ファウルボールだ。

 少し茶けた打球は京士郎たちのベンチの近くへ落ち、土煙を巻き上げて転がった。早々に回収を諦めたキャッチャーが、マネージャーの女子部員に「取ってきて!」と指示を下す。彼女は首を振って応諾し、ベンチのもとに駆けてきた。


「はい、これ」


 拾い上げた球を渡してやると、マネージャーは京士郎を見上げ、ぱっと顔を輝かせた。


「わ、須磨先生だ。見に来てたんですね」


 一年D組の小倉莉華だった。甲子園の応援演奏では莉華や同じD組の城島久美子とずいぶん打ち合わせを重ねたので、今や彼女たちは管弦楽部員と同様、すっかり京士郎の顔馴染みになりつつある。


「ちょっとな。先生方の手が空いてたもんで、せっかくだから観戦しようかって話になって」

「うわー! なんかテンション上がりますね! 見ててくださいよ、うちら絶対に勝つんで」

「君がプレーするわけじゃないだろ」


 苦笑すると、「プレーしなくても一心同体ですよ」と莉華は唇を尖らせた。すでに都立立国との点差は七にまで広がっている。この状況で負けはしないだろうと思いつつ、腕を振りかぶって送球する莉華の背中を、どことなく懐かしい思いで眺めた。

 甲子園の西東京大会が始まり、第一試合の直前に野球部と応援演奏の段取り確認をしたとき、莉華が似通った言葉で勝利宣言をしていたのが思い返された。『うちらが管弦楽部を甲子園まで連れてくんで!』──。結局、あの約束が果たされることはなく、甲子園を目前にした西東京大会準決勝で弦国は和大三高に敗北し、涙ながらに球場を後にした。


「君は確か一年のマネージャーだね。どうです、野球部は。もうじき入部から半年が経つでしょうし、色々と大変なこともあったと思うが」


 投げ終えた莉華に天童が柔和な問いかけを放る。「んー」と鼻音で迷いを表現しながら、莉華は器用にかかとだけで京士郎たちを振り向いた。


「うちは少なくとも楽しいです。あ、他の子がどうかは分かりませんけど」

「それはよかった。顧問の先生が喜びそうだ」


 天童は何度もうなずいて安堵を示した。

 高松里緒の一件があって以来、天童をはじめとした弦国の教師陣は、校内に部活関係の不和が起きることに敏感になっている。いじめや暴力沙汰を未然に防止するためにも、あるいはそれらが校内に波及するのを防ぐためにも、生じた校内トラブルをいち早く把握して手を打つ準備をすることは重要だ。里緒を苦しめた仙台のいじめ事件は、思わぬ形で弦国の学校運営にも影響をもたらした。


「正直言って大変ですよ、野球部。練習もハードだし首が回らないほど忙しいし。だけどうち、ここに入部したことを悔いるつもりなんてないです」


 後ろ手を組んで揉み合わせながら、莉華は首を回して野球部の姿を見つめた。のびのびとバットを振る彼らの背中に投げかけられる視線が、ふと、(まろ)やかになった。


「……嬉しかったんですよね。甲子園の西東京大会に出て、たくさんの人たちの声援を目の当たりにしたとき。ああ、うちらはこれだけの人たちの熱い期待を受けているんだって思って。管弦楽部なんかコンクールとか文化祭の練習もあっただろうに、わざわざうちらのために時間を割いて応援演奏の練習してくれてたって言うし……。ありがたくて涙が出そうでしたよ、あのとき」


 とっさに言葉を返さなかった京士郎の代わりに、頬杖をついた富田林が「そうだね」と微笑する。莉華は伸びをひとつして、下ろした荷の余韻を味わうように肩を回してから、不敵に瞳を歪めた。


「来年は何がなんでも甲子園に行きますよ。うちらを支えてくれた人たちみんな、関西まで連れていってみせます」


 あまりの心根の強さに京士郎は息を飲んでいた。

 それこそ“一心同体”ではないが、莉華の口にした決意は野球部の全員が共有しているものなのかもしれない。西東京大会の決勝で敗北を喫した時、試合中に倒れて応援演奏の中断を招いた里緒のことを、野球部の部員たちは誰一人として責めようとしなかった。そればかりか、彼らは純粋に管弦楽部の努力に感謝し、里緒たちのためにもと来年の雪辱を誓ってくれた。

 甲子園出場を逃した痛みに耐えながら他者をいたわるなど、並大抵の精神力で為せることではない。莉華の語った前向きな決意と、そうした野球部の“強さ”は、同じところに根を張っている気がする。


「……それなら、僕ら管弦楽部は今のうちから、最大限の応援演奏を保証しておかないとな」


 お返しの決心を口にしてみたら、「本当ですか!」と莉華の顔つきが明るくなった。

 自信を持って、京士郎はうなずき返した。それは管弦楽部の実力に対する自信であり、努力に対する自信でもあり、自分が指導担当の顧問を務めることに対する自信でもあると思った。


「言うようになりましたね、須磨先生」


 ニヤニヤと富田林が口を歪める。自分でも変貌っぷりに驚かされ、「確かに」と頭を掻くと、またも視界の外で金属バットの打撃音が炸裂した。

 次の大会で野球部が大戦果を挙げられるよう、管弦楽部も応援演奏に精を出す。それだって立派な管弦楽部の活動理由だ。努力の動機は外部から与えられるものであってもいい。


「須磨先生はちょっとくらい自信家でいた方がよさそうですな。何せ腕────」


 にこやかに口を挟んだ天童の台詞は、不意に『ゴン!』という重たい衝突音で乱暴に途切れた。

 京士郎は天童を振り向いた。頭を抱え、天童はうずくまる。足元に転がっているのは硬式の白球だ。

 飛んできたファウルボールが命中したのだ。


「うわ、副校長!? しっかりしてください!」

「落ち着いて! 脳震盪を起こしてるかもしれません、まずは回復体位に!」


 目を剥いた富田林が駆け寄り、崩れ落ちた天童の身体を対馬の指示で起こす。足音を響かせながら弦国の野球部員たちが駆け寄ってきた。莉華は「どうしよう! どうしようっ」と慌てるばかりで戦力になっていない。

 ともかく保健室に運ぶのが先決だった。


「須磨先生、保健室から担架を持ってきてください! 入り口の近くに置いてあったと思います」


 的確に指示を投げる対馬に従い、京士郎は駆け出した。おろおろと立ちすくむ都立立国の部員たちの姿が視界をよぎって、嫌でも京士郎の背筋を伸ばさせた。

 おそらくは軽い脳震盪に過ぎないだろう。けれども万が一にも大事になっては困るので、今は全力を挙げて天童を救わねばならない。


「担架、持ってきました!」


 保健室から発掘した担架を抱え、京士郎はグラウンドに飛び出した。

 ここでは誰もが本気で生きている。土煙の向こうに一瞬ばかり見えた親善試合の得点板は、莉華の宣言通り、弦国が大差で勝敗を決する寸前のスコアで止まっていた。








188話のゲストは須磨京士郎、天童俊也、富田林健二、対馬桜子、小倉莉華の5名でした!


▶▶▶次回 『E.189 ピクニック』

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