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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
終楽章 音楽の冗談は別れの前に
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E.186 旧部室棟の怪 【前編】

 




 整頓された机の並びをチェックして、壁や天井にゴミが残っていないかも確認する。つい三時間前、多くの観客で賑わう劇場だった一年D組の教室は、すっかり装飾を剥がれて従前の姿を取り戻した。その気になれば今すぐにでも授業を始められる。


「──ばっちり現状回復できてる。みんな、お疲れ様だったね」


 念入りのチェックを終えた北本芹香は、最後に教室を見回して締めの言葉を結んだ。

 午後六時を過ぎて、窓の外は真っ暗である。居残っていた十数人のクラスメートたちが、一斉に「やっと終わった……」と安堵の声を漏らした。

 十月十三日、文化祭二日目。女子部一年D組の演劇はついに千秋楽を迎え、二日間を通じて大盛況のうちに幕を下ろした。節々に溜まった乳酸をやり過ごしながら進めた片付けも、これでようやく完結。晴れて解散である。


「よっしゃー! 帰るぞ! 誰がなんと言おうとうちは帰る!」

「わたしこれから部活なんだけど……。マジ最悪」

「じゃーねー委員長! じゃなくて、監督!」

「西元さんと翠もお疲れ!」

「格好よかったし可愛かったぞー」


 声の隅々に疲労を滲ませながら家路につくクラスメートたちに、褒められた紅良が「うるさい」と露骨に顔をしかめている。

 今回、男装の王子・アルセーヌ役を引き受けさせられた紅良は、そのルックスや落ち着いた響きの声もあいまって観客に大ウケだった。終演後に回収したアンケートを集計してみたら、なんとヒロインである囚われの姫・カリオストラ役の翠に数倍もの票差をつけ、一番人気の座を勝ち取っていた。集計結果を前にして誰よりも複雑な顔をしていたのが翠だったのは言うまでもない。


「でも本当、引き受けてくれてありがとね。アルセーヌ役は絶対に西元さんが適任だったと思うから」


 いつもの制服姿に戻った紅良のもとへ歩み寄ると、紅良は頬を掻きながら口を歪めた。


「あれだけやれやれって言われたらやりきるしかないじゃない……。無責任に放り出すわけにもいかないでしょ」

「その無責任を許さない性格に救われたんだから、もっと素直に喜んでよ。私も格好よかったと思う」


 達成感のせいか畳み掛けたい気分になって、芹香はメガネ越しに紅良を見上げた。ついでに物証のつもりでアンケートの集計結果も眼前に押し付けると、紅良は「う……」と言い淀み、頬を掻いていた指で口元を隠しながらそっぽを向いた。

 西元紅良という少女には意外に可愛いところがあって、(おだ)てられるのに慣れていないのか、褒められ過ぎるとショートを起こす。本人としては無意識なのだろうが、D組の何でも屋を自負する情報通の芹香にとって、クラスメートの隠し持つ習性など何もかもお見通しだ。未だに見通せていないのは里緒くらいのものだった。

 入学から半年が経った今も、高松里緒という少女の築く牙城は依然として強固だった。いくら関心をもって接しても、なかなか心の門戸を開いてくれない。お化けみたいにするりと手を抜けて、見えないところに身を隠したがる。

 その里緒にちょうど、帰り支度を終えた花音が話しかけていた。


「何してんの里緒ちゃん、帰ろうよ」

「ちょ、ちょっと待って」


 里緒は懸命にカバンの中を漁っているところだった。里緒は音響、花音は大道具の担当で、管弦楽部のコンサートに出演している間は他の子に仕事を代わり、部とクラスの両立を図ってくれていた。


「どうしたの。忘れ物?」


 尋ねると、里緒は青ざめた目を芹香に向けた。


「その……。スマホ、見当たらなくて。カバンの中にはないっぽいんだけど」

「うそ!」


 芹香は呻いた。大変な無くし物だ。

 しかし無くし物といっても、D組の教室内は細部まで忘れ物チェックを済ませている。他に思い当たる場所があるとしたら、里緒が片付けの際に踏み込んだ教室くらいしかない。


「高松さん、さっきどこに片付けに行ってたっけ」

「えっと、私は音響機材の撤収を済ませたあとは大道具の手伝いに行ってたので……」

「じゃ、資材置き場か」


 あごに当てた手をひねると、カバンを抱えて花音の横に来た美怜が「あそこはもう閉められちゃったよ」と教えてくれた。資材物品の管理に使われている教室の鍵は、文化祭期間中は原則、生徒会の運営する実行委員会によって一元管理されている。


「本部に行って鍵を借りてこよう。スマホが手元にないのは色んな意味で危ない」


 紅良の静かな提案に、いよいよ里緒は顔の青みを深め始めた。スマホは個人情報の塊だ、不審者に拾われれば犯罪にだって使われる。


「そうだね。探しに行こう」


 放置していたカバンを手繰り寄せて肩にかけると、「私も行く!」と花音が元気よく表明した。紅良も無言で歩み寄ってきた。さらに美怜までもが身を乗り出した。


「あたしも暇だし行こっかなー」

「五人で行くほどの用事じゃないけどね……」

「何言ってんの芹香ちゃん、捜索するんだから人手が多いに越したことないよ!」

「とか言ってずいぶん楽しそうね、花音」

「えへ、バレた?」

「あのあの、なんかみんな巻き込んじゃってごめんなさい……っ」


 情けなく泡を吐く里緒の背中を押して立たせ、芹香たちは無人になったD組の教室を出た。

 廊下にも静寂が戻ってきた。文化祭の喧騒も冷めやらぬ校舎の中には、そこかしこにほこりが立ち、貼り紙の欠片が散らばり、華やかな祝祭と退屈な授業の合間に横たわる黄昏を不気味に演出していた。




 文化祭実行委員会の本部は込み合っていた。文化祭の運営を統括する生徒会のメンバーは、夜遅くまで後始末の仕事から逃れられないらしい。


「おー、どうしたの一年生。用事?」


 顔を覗かせた芹香たちにいち早く気づいた二年生の先輩が、席を立って入り口までやって来た。そして芹香の後ろに隠れる里緒を見るなり、「里緒ちゃんたちだ!」と表情を和らげた。知り合いかと思ったら管弦楽部の先輩らしい。


「里緒ちゃんが資材置き場の部屋にスマホ忘れたみたいで、取りに行きたいんですけど」


 花音が横から説明してくれる。納得の相づちを打った先輩は、すばやく奥へ引っ込んだかと思うと、鍵と懐中電灯を取って引き返してきた。


「暗くて危ないし、わたしも一緒に見に行くよ。電気のない部屋だから懐中電灯も持たないと」

「あ、ありがとうございます……」

「これが仕事だから気にしないで。──あ、管弦楽部以外の子には申し遅れたけど、わたし管弦楽部と生徒会を兼任してる下関佳子って言います」


 頬の痩せを拭い隠し、佳子は気丈に口角を上げた。多忙な団体をふたつも兼ねていることに芹香は恐れ入った。芹香など、クラス委員長の仕事が割と手一杯で、所属している茶道同好会に少しばかり顔を出すのが限界だというのに。

「行こっか」という佳子の号令で、一行は賑わいの途切れない本部の部屋を出発した。

 目指すは東側の校舎に位置する資材置き場。文化祭のときを除けば滅多に立ち入ることのない、生徒たちにとっては校内で最もミステリアスな空間だ。




 弦国の正門は校地の西側にある。校地は(いびつ)な形をしていて、西から順に、講堂や女子部のある一号館、二号館、体育館、男子部のある三号館と四号館、グラウンド、多目的コート、そして部室棟と、各施設が連続的に配置されている。つまり部室棟の集まるエリアは、芹香たちの過ごす教室からもっとも離れた場所にある。

 この部室棟群の中に、老朽化のために新たな建物に取って代わられ、現在では日常利用の禁じられている旧部室棟がある。今は電気も引かれていないので照明がつかず、もっぱら倉庫として文化祭向けの資材を貯め置かれ、普段は警備室に備え付けの鍵で厳重に戸締まりされているそうだ。

 今回、芹香たちが目指しているのは、この遠く離れた資材置き場の旧部室棟だった。

 建ち並ぶ校舎の狭間を抜けてグラウンドの脇をかすめ、人影の乏しい暗闇を探りながら歩いた。佳子の照らす懐中電灯の光の輪が、グラウンド際に雑然と並ぶベンチや簡易サッカーゴールの背後におどろおどろしい影を描き出す。面白そうについて歩く花音や美怜とは対照的に、里緒の顔色は終始べらぼうに悪かった。


「怖いの?」


 一歩前をゆく紅良が振り返り、手を差し伸べた。おっかなびっくり、その手首を里緒が掴む。「優しい」と感心したら、またも紅良はそっぽを向いた。


「普通でしょ」

「普通だとしても優しいよ」

「褒めたって何も出さないよ」

「思ったこと言ってるだけなのに……。前から思ってたけど、西元さんって高松さんの前だと見違えるくらい優しくなるよね。花音をあしらう時なんかバッサリぶった斬るのに」


 芹香は円やかに小首を傾げた。紅良からの応答はなかった。

 今回、D組の演じた演目『カリオストラの城』は、囚われの姫を王子が剣戟で救い出す恋愛ファンタジーだった。主人公の王子はべらぼうに強くて勇ましく、かつ紳士的な人物だ。そして今、頼りない里緒を一歩先でリードする紅良は、まさにその王子の紳士的な優しさを体現している。王子役に紅良を選んだのはそれが理由でもあった。

 青柳花音と西元紅良は、二人揃って里緒の優秀な親衛隊。

 本人たちの前で口に出すことはないが、それがD組女子たちの統一見解だった。


「西元さんは優しいと思うよ」


 里緒が小さな声で同意した。紅良の頬に血が集まって艶やかに色を変えたのが、その一瞬、暗闇の中でもあからさまに分かった。


「さっさと歩こう。遅れ取ってる」


 つっけんどんに急き立てた紅良が、歩く速度を露骨に上げる。「うわわ」と里緒まで早くなった。思いがけずしんがりを任された芹香は、腰の後ろで両手を組んで、晴れ渡った宵闇の空を見上げた。

 澄んだ夜の空気が心地よい安心感を紡ぐ。

 見知った誰かと同じ空間を共有していて感じる、この何ともいえない脱力の心境が、芹香は好きだ。世界が広がるたび、怖いものや理解不能な概念が少しずつ姿を狭めてゆく。これだから誰かや何かを知ることはやめられないし、もっと相手のことを知りたい、仲良くなりたいと願いたくなる。


「そういえば先輩」


 澄んだ空気が美怜の声で濁った。一行の先頭を歩く佳子が「うん?」と尋ね返すと、美怜は声と眉をいっぺんにひそめた。


「陸部の先輩から聞いたんですけど、あれって本当なんですか。旧部室棟には文化祭中だけ怪奇現象が起こる、とかいう噂……」

「えっ何それ! 私知らない」


 すぐさま花音が食い付いた。里緒や紅良にとっても初耳のようだし、そんな噂は芹香も耳に挟んだことがない。しかし「そういう噂があるのは知ってるよ」と、いとも容易(たやす)く佳子は肯定した。


「生徒会でも話題になったことがあるけど、誰も真に受けてはいないと思うな。だって非科学的だし、そういうのって信じれば信じるほど起こりやすくなるものだと思うし」

「それはそうですけど……。でもやっぱ、本当だったら本当だったでわくわくしません? こんな超常現象がマジで起こるなんて! みたいな」

「何の怪奇現象かによるだろうなー、それは」

「ポルターガイストらしいですよ」


 ポルターガイストといえば、原理不明の物理現象全般を意味するオカルト用語である。物が移動したり、火や音が勝手に生じるというものだ。

 よからぬ想像をしたのか「ひ……」と里緒が首をすくめる。やけに面白げな美怜の表情を見て、彼女の悪趣味っぷりに芹香は嘆息した。確信犯らしい。


「そしたら生徒会としては『ちゃんと片付けなさい!』って怒らなくちゃね」


 軽やかに茶化して話を終わらせた佳子は、懐中電灯の照らす先をいささか持ち上げた。

 闇の向こうに古ぼけた建物が浮かんでいる。

 資材運搬で何度か来ているので芹香にも分かった。──ここが、目的地。資材置き場になっている旧部室棟だ。







「誰かいるの!? いるんでしょ!? だったら隠れてないで出てきなよっ!」


▶▶▶次回 『E.187 旧部室棟の怪 【後編】』

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