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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
195/231

C.184 クラリオンの息吹

 





「──クラリネットの名前の由来って知ってる?」




『プリズム楽器』の看板をくぐって外に出たところで、花音が突然、そんなことを言い出した。

 里緒と紅良は顔を見合わせた。答えが分からなかったのではなくて、花音がそんな話題を切り出してきた理由が分からなかったのだった。


「……ちなみに私は知ってる」


 里緒にだけ届く声で紅良がつぶやいた。里緒も、うなずいた。むかし瑠璃に教わったことがある。けれどもそれを正直に暴露すると花音の不興を買いそうなので、二人そろって知らないふりを決め込むことにした。


clarinet(クラリネット)ってね、clarion(クラリオン)っていう金管楽器から派生した名前なんだってよ」


『プリズム楽器』のロゴの印字されたビニール袋を高く掲げ、花音は胸を張った。

 袋の中身は新品のリードだ。今日は十月十一日、金曜日。明日から二日間、弦国は待ちに待った文化祭の期間に突入する。本番を前にして『リード調達したい!』と花音が言い出したので、里緒と紅良は彼女の買い出しに付き合っているのだった。


「クラリネットの元になったのはフランスのシャリュモーっていう民族楽器だけど、実際に楽器を作ってみたら高い音がすっごく綺麗に出て、それが金管楽器のクラリオンみたいだったから、『小さなクラリオン』って意味のクラリネットって名前になったんだって!」

「クラリオンって何だか知ってるの?」


 紅良が遮って尋ねた。「もちろん」と花音は鼻息を荒くした。


「ビューグルっていう別名のある軍隊用の信号ラッパのことでしょ。すべての金管楽器の原形みたいなやつ」


 今の質問で紅良が答えを知っている風を匂わせたことに、鈍い花音はまったく気づかなかったらしい。ともあれ、クラリネットの名前の由来は、花音の説明で(おおむ)ね的を射ていた。

 駅前の道は混んでいる。人波を避けて駅ビルを目指しながら、クラリオン、と里緒はつぶやいた。

 雄牛の角で作った角笛をルーツに持つ金管楽器・クラリオンは、管楽器としては最も原始的な構造を持ち、クラリネットそっくりの柔らかで優しい音色が特徴だ。語源はラテン語の『トランペット(clario)』、『明るく澄んでいる(clarus)』、『明らかにする(claro)』など。英語の“clear(クリア)”などと同じ語幹を持つ、どことなく華やかな響きを帯びた言葉である。現在でも用いられる派生語として、高々と響き渡る爽やかな声を意味する“clarion(クラリオン) voice(ヴォイス)”という英単語がある。

 クラリネットの音域は四段階に分類され、それぞれ高い方から『アルティッシモ音域』『クラリオン音域』『ブリッジ音域』『シャリュモー音域』と呼ばれる。クラリオンと名付けられた音域は全音域の中でも比較的高く、明るく華やかで、もっとも美しい音域とされている。ラッパという呼び名の方が普及している日本では『クラリオン』の語は日常的にはほとんど用いられない。けれども、その意味するところは今もなお、クラリネット奏者たちの間で音域名として脈々と受け継がれているのだ。


「ほら、管弦楽部(うち)、文化祭で中学生向けの体験演奏会やるでしょ? 聞かれたこと何でも答えられるようにしとこーって思って、いろいろ調べてたの」


 先をゆく花音が鼻を鳴らした。こういう意外なところで花音は勤勉というか、マメだと思う。感心を込めた眼差しで前を行く花音の背中を追いかけながら、ふと、思い立った疑問を里緒は口にした。


「なんでそれを私たちに?」


 すると花音の頬は不意に赤くなった。


「んー、なんかね。……聞いてほしくなったっていうか」


 はにかんだ彼女は地面へ視線を落とし、道端に転がっていた小石を爪先に引っかけた。小石からは四方八方に影が伸びている。街明かり、街路灯、行き交う車。それら全てが光源となり、音源となって、代わり番こに里緒たちの姿を明るく照らし出す。


「クラリネットは明るい音が自慢の楽器なんだなーっていうのが、名前の由来を知るとはっきりするじゃない? 自分で調べてて語源を見つけた時、私、なんかちょっと嬉しくなっちゃって」

「なんで?」

「だってクラリネットは、私のことも、里緒ちゃんのことも、西元のことも明るくした楽器だし」

「は…………」


 隣で口ごもった紅良の顔が、たちまち花音と瓜二つの桃色に染まった。里緒も無自覚に同じ顔をしていたかもしれない。

 かかとを回した花音は振り返って、「ねっ」と小さく笑った。花音の無邪気な言葉選びは時おり殺人的な力を持つと里緒は思った。


「私、別に明るくなんてなってないでしょ」


 うつむきがちに紅良が(うな)った。「なったよ」と花音は言い張った。


「嫌そうな顔したって、何だかんだ私の買い物に付き合ってくれてるもん。(はな)からツーンって跳ね除けたりしない。西元、すっごく丸くなったと思うよ」

「……高松さんもそう思う?」


 花音の評がよほど気に入らなかったのか、紅良は話の矛先を強引に里緒へ振り向けてきた。里緒は喉に言葉を詰まらせた。そんな、急に言われたって。


「私も……青柳さんと同感かも」


 おそるおそる答えてみたら、いよいよ進退極まったように紅良は視線を地面へ逃がした。

 明るくなったというよりも、開放的になったのだと里緒は思う。里緒や花音に心を許し、精神的なゆとりを手に入れた結果、間接的に人当たりがよくなり、もどかしい他者とのコミュニケーションに励むのを(いと)わなくなった。端から見れば、その変化は“明るくなった”と形容されるものでもある。

 他でもない里緒自身が、きっと紅良と同じような変化をたどっている。


「高松さんがそう言うんなら……そうなのかな」


 嘆息を地面に落とし、紅良は弱気な声でつぶやく。聞き捨てならないとばかりに花音が叫んだ。


「花音様の評をバカにしたな!?」

「信用ならないのよ。花音は他人のこと軽率に褒めるから」

「むー! それ美徳だもん! 西元がいちいち人を見下しすぎなんだよ!」

「見下してなんかない。()()してるだけ」

()()の間違いだと思うけどなっ」


 今しがたまでの融和ムードを強引に押しやり、二人の間には青白い火花が飛び散り始めている。こういうところは()()()()()()今も変わらないが、いいかげん変わってもらわねば困る部分でもある。やめようよ、ここ街中だよ──。おろおろと周囲を気にして、里緒は仲裁に入ろうとした。

 だが、少し考えて、やめた。

 この二人なら、放っておいても鎮火する。

 たとえ頭に血が上っていようとも、花音と紅良は脊髄の奥で互いをきちんと尊重しているのだ。そうと知ってさえいれば、舞い散る火花も怖くはない。

 案の定、


「罵倒だけ? 出任せも大概にしてほしいんだけど。私だって花音のこと何度も褒めてきたでしょ」

「そんなの覚えてないもーん」

「それじゃ耳かっぽじって聞いてなさい。いい、花音は年相応に元気だし、明朗だし、バカに見えて意外と頭も回ってるし、物腰がいいからみんなに愛されてる。……ほら、褒めた」


 自発的に花音への称賛を口にしておきながら、言い終えた途端に紅良は顔を赤く染め、そっぽを向いてしまった。

 花音の反応も似たり寄ったりだった。もじもじと身体を揺らし、彼女はうなだれた。


「あ、えと、うん……。ありがとう……」


 里緒ひとりを街の真ん中に置き去りにして、二人の友人はそれぞれの羞恥と昂揚の海に沈んでゆく。会社帰りのスーツ集団が、物珍しげな目つきをしながら隣をすれ違った。すっかり痴話喧嘩の狭間に取り残された里緒は、不安が杞憂に終わったことへの安堵を呆れの溜め息に混ぜ、思いきり吐き出した。

 意地っ張りな花音も花音だし、花音の褒め言葉を聞き入れない紅良も紅良だと思う。


(褒められたって悪いことなんかないのにな)


 一昔前の自分にも聞かせるつもりで(とな)えてみると、妙な客観の視点を身につけた自分のことがやけに可笑しくなった。いったい何様のつもりだろう。三人の誰よりも称賛を恐れ、怯えて逃げ回っていたのは、里緒だというのに。


「ふふ」


 こらえられず、里緒は噴き出した。笑い始めると滑稽さが加速度的に増大して、そのまま腕を抱えて静かに笑った。挙句の果てに涙まで滲み始めた。

 気まずげに紅良と花音が振り返った。


「……里緒ちゃん、めっちゃ笑ってる」

「花音のせいよ」

「えー? 西元のせいでしょ」

「ご、ごめんなさい……。ふふ……ふっ……」


 涙をこらえながら里緒は頭を下げたが、笑いながら謝ったところで説得力の欠片もなかったことだろう。がん、と膝にクラリネットのケースがぶつかり、戒めの痛みが(すね)に広がった。

 ──ああ、そうか。

 私もちゃんと明るくなっているんだ。

 そう気づいた瞬間、可笑しさを乗り越えて爆発的に膨らんだ嬉しさが、足元から里緒を飲み込んだ。




 クラリネットは“明澄”の楽器だ。その(ベル)が放つ、太陽のように輝かしい音は、高く、美しく、凛と響き渡ってどこまでも届く。

 だからといって他の楽器が劣後することはない。ピアノにはピアノの、トランペットにはトランペットの、ドラムにはドラムの存在理由があり、価値がある。与えられた場所で精一杯に音を奏で、ほんの一時でも輝くことができれば、それこそがその楽器にとっての幸福と言えるのだ。

 過去を乗り越えるという夢を成し遂げた里緒の人生は、コンクールの成功という敷居を越え、新たな領域に踏み出そうとしている。里緒という人間の価値は、まだ里緒自身にも分からない。けれども、こうして幸福な感情に浸る瞬間を着実に重ねてゆけば、いつかはその先に里緒自身の望む理想の自分像が見えてくるのかもしれない。紙縒(こよ)りのごとく頼りない希望だが、ほんのわずかにでも希望が見えるのなら、今の里緒は胸を張って明日を生きられる。


(どんな私になるんだろう。どんな私になれるのかな)


 声に出さずに語りかければ、世界は柔らかに微笑んで、彼ら自身の音を聴かせてくれる。風の音。波の音。地響き。雷鳴。鳥のさえずり。人々の雑踏。話し声。街頭のテレビの宣伝音声。自動車の警笛。電車の走行音──。いつの日か、かけがえのない自分だけの音を見つけ、里緒もその混沌の中へ飛び込んでゆく。世界を作る一員になって、唯一無二の自分の存在意義を高らかに奏でるのだろう。

 たぶん、それが、生きるということ。

 息をするということ。

 次の十六年が終わりを迎えた時、大人になった里緒はその境地にたどり着いているだろうか。




「──うわ、もう七時なっちゃう」


 スマホの画面を覗き込んだ花音が泡を食った。言われて時計を見ると、時刻は六時五十八分を指している。


「八時から見たいテレビあるのに!」

「録画してないの?」

「忘れてたんだよぅ。どうしよ、電話して録画頼もっかな」

「今から帰れば間に合うでしょ。もう遅いし、帰ろう。明日から忙しくなるよ」


 応じた紅良が足を早めた。川をなす都会の人垣を、二人はメダカよろしくすいすいと泳いでゆく。特に苦もなく、その背中を追いかけて歩きながら、里緒は夜空に目をやった。

 あの空の向こうに、里緒の帰る場所がある。

 迎えるべき明日が、遥か水平線の彼方で里緒を待っている。


(私、頑張る)


 (とな)えて、クラリネットのケースとカバンを握りしめる。名実ともに里緒の象徴となった金色のバセットクラリネットは、ケースの中でからんと鳴って、軽やかに返事をしてくれた。


(どんなに迷ったって、苦しんだって、もう二度と生きることを諦めたりしないよ。これから先、何度でも胸を張って『生きててよかった』って言ってみせる。……だから、どうか)


 里緒の訴えかける声に耳を澄ませてくれているかのように、東京の空はしめやかに静まり返っていた。ケースを抱きしめる腕に重みがにじんだ。

 力を込め、息を吐いて、吸って、里緒は叫んだ。





(見守っていてください。私の生きる姿を)





 明澄(クラリオン)の息吹は風に乗り、音を立て、遥かな空の高みを渡ってゆく。


 いずこやも知れぬその行方を、里緒は目を閉じて、いつまでも追いかけ続けた。












……これにて『クラリオンの息吹』本編は完結です。

全184話もの長編作品を最後まで愛読いただき、ありがとうございました!



ここから先には以下の内容が続きます。


① 続編(全17話)

  ……本編と連続した時間軸で進む、本編のその先の物語。作中の主要キャラクターほぼ全員が、全17話のどこかに必ず登場します。間近に迫った文化祭はどうなる? 里緒と紬はふたたび仲良くなれたのか? 管弦楽部の時期部長を担うのはいったい誰? しっかり笑えて感動できる、『クラリオンの息吹』の世界観を最後まで味わい尽くせる正統派の続編です!


② 番外編(全5話)

  ……読者の皆様から「こんな短編が見たい!」というネタを募集し、特別に書き下ろした短編作品を、合計5本収録します。こちらは本編の時間軸とは無関係です。本編や続編では見られないようなとんでもない展開が待ち受けているかも!?


③ おまけ編(全13回)

  ……「これを読めば『クラリオンの息吹』をもっと楽しめる!」という内容を取り揃えた紹介・解説コーナーです。登場人物や登場用語の紹介のほか、作中の出来事を時系列順に並べた年表、作中に登場した楽曲の解説、関連する小説や漫画の紹介、小ネタ解説、作中のいろいろをネタにしたランキング、そして本作に寄せられたFA(ファンアート)類の一覧ページなど、盛りだくさんの内容をご用意!



約半年にわたった『クラリオンの息吹』の連載は、まもなく終了となります。

最後までお楽しみいただけたら嬉しいです。



▶▶▶次回 『E.185 文化祭』

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