C.183 新世界の日常
何事もない日常が戻ってきた。
弦巻学園国分寺高校の文化祭はコンクールの約半月後、十月中旬に行われる。管弦楽部は講堂のステージに出演するほか、音楽室で単独コンサートも催すことになっていて、そのスケジュールはなかなかに忙しい。人が集まらないので当初は開催の危ぶまれていた中学生向け体験演奏会も、応援演奏やコンクール参戦で思いがけず管弦楽部の知名度と株が上がったために、急きょ実施される運びとなった。
コンクールの終結からほとんど間を置くことなく、ふたたび練習の日々が幕を開けた。
曲目は、『立川音楽まつり』で披露した〈天地人〉、応援演奏で披露した曲のメドレー、コンクールで披露した〈クラリネット協奏曲〉、それから新たなレパートリーが数曲。ここで演奏した曲の一部は、地区ごとの高校の音楽部が集まって行う演奏会・地区音の場でも披露されるので、文化祭は言わば予行演習のための舞台でもあった。
菊乃の気合いの入り方は尋常ではなかった。コンクールを通じて体力も気力も限界まで消耗したはずなのに、数日も経つと彼女は見違えるように回復を見せ、あの“滝川節”をすっかり取り戻した。
──『大館くん、今のとこ全然ハモってなかったの分かった? ちゃんと純正律に沿えてないと今みたいに音が気持ち悪くなっちゃうよ、注意して!』
──『恵はなんで空腹になったとたんに音が弱くなるかなぁ。“荘重に”って指示出てるんだからヴィオラの出番でしょー? もっと前出て!』
──『徳利先輩と川西くん、ここパーカスの音すごく大きいんで、もうちょっと控えめにできませんか? ペットの次の入りがミスる原因になってると思います!』
──『先生、三十三番でFFかかるとこの流れ方、あたしどうしても納得いかないんですけど! 練習番号Cからもう一回やらせてください!』
さすがは菊乃、コンクールを経ても強権的な姿勢は従前のままである。おかげで練習の合間に一年生で集まって愚痴を語り合う習慣までも復活した。変わったのはせいぜい、そこに里緒の姿が混じるようになったことくらいだ。里緒自身は愚痴を垂れる気はなかったのだけれど、酷な練習に悲鳴を上げることのできる場所は確保しておきたかったのだった。
「どうしてあんなに熱意あるんだろ……」
花音がぼやくと、その後ろでクラリネットをいじくりながら美琴が嘆息した。
「ま、あの子はあれが生き甲斐みたいなとこあるから」
傍迷惑な生き甲斐だ、と一年生は一斉に騒いだ。美琴は苦笑して、口々の愚痴を受け流した。
「でも確実に演奏技術は向上してるでしょ、あれのおかげで」
「それはそうなんですけどーっ」
「大目に見てあげて。文化祭は雪辱戦なんだよ。あの子にとっても、私たちにとっても」
いやに物騒な響きの言葉選びをする。「どういう意味ですか」と舞香が尋ねると、美琴は伏し目がちに事情を話してくれた。遡ること一年前、文化祭の舞台に立った管弦楽部の演奏は他校の生徒にいたく貶され、しかもショックのあまり最後の一曲の演奏は失敗し、菊乃たちは悔し涙に暮れたのだという。
途中で話に混じってきた佳子や佐和が、「あの時は本当にやばかった」と目を細めて述懐した。
「下手くそ扱いされるのがあんなにキツいだなんて思ってもみなかったよね」
「“聴く価値ない”とまで言われたからさ。あの出来事がなかったら、きっと菊乃もコンクール目指そうなんて言い出さなかったんじゃないかな」
コンクールへの出場は、菊乃たち二年生にとっても過去を乗り越える挑戦だったのだ。素直な納得を覚えた里緒の横から、「どこの生徒だったんですか」と花音が訊いた。芸文附属と聞かされた彼女の顔はたちどころに般若と化した。
「やっぱあの芸文附属ぜったい許せない! 私、文化祭の練習頑張る!」
単純なものである。
案外、一年後の花音は菊乃のような熱血指導者に化けている可能性もあるのではないか。ひそかに戦慄を覚えつつ、その中にいささかの期待感も混ぜ込みながら、里緒は美琴ともども熱り立った花音をなだめに回った。怒りでエネルギーを充填した花音は猛然と練習に取り組み始め、挙げ句には当の菊乃にさえ「急にどうしたの?」と困惑されていた。
東京都高等学校文化祭の主催する二つのイベント『地区音』と『中音』を乗り越え、現三年生が部長代を退くのは来年一月。代替わりまでの日々は短くはないが、長くもない。
管弦楽部の疾走に区切りがつくのは、もう少し先のことになりそうだった。
大祐の起こした裁判は、九月二十九日に初の口頭弁論を迎えた。
刑事裁判でいうところの“公判”、つまり当事者が法廷に出てきて意見を述べる手続を、民事裁判では口頭弁論と呼ぶ。第一回の口頭弁論で行われるのは、原告による訴状の陳述、そして被告による答弁書の陳述だけ。一般的な裁判のイメージとして語られる当事者への尋問は、この段階ではまだ行われないのだ。
大祐が『来る必要はない』と言ってくれたので、里緒は第一回口頭弁論を見に行かなかった。日帰りで仙台地方裁判所に赴いた大祐の報告によれば、次の口頭弁論は一ヶ月近くも先とのこと。少なくとも判決まで半年近くは要する見込みだという。
「たぶん判決が出るより先に、教委が設置した第三者委員会の最終報告書が上がってくるだろう。そこで里緒へのいじめが認定されれば、向こうは言い逃れできなくなる。そうでなくても証拠は揃っているから、この裁判には勝ったも同然だ」
くたびれたように肩を回す大祐の声色は、頬に滲む疲労感に反して少しばかり明るかった。里緒も珍しく、釣られて心が軽くなるのを覚えた。
別に、謝ってほしいだなんて思わない。余計なことはしてくれなくていいから、せめて里緒や大祐のことは放っておいてほしい──。以前の余力を欠いていた里緒ならば、きっとそんな具合に彼らとの交流を拒みたがったことだろう。けれどもいざ裁判が開廷してみると、先方の顔を拝んでみたいという歪んだ欲が仄かに膨らんで、自分でも驚かされた。揺るぎのない味方を手に入れたおかげで、いくらか強気の立ち位置に立てるようになったのだろうか。
だが、記憶に刻まれたトラウマの痛みを克服した今でも、当時のことはあまり積極的に思い出したくはない。同級生の名前なんて見たくないし、進んで新聞やテレビを見たいとも思えない。
「私もいつか、法廷に呼び出されたりするのかな」
ちょっぴり不安になってつぶやくと、大祐は優しく首を振って否定した。
「そうはならないように立ち回るつもりだ。弁護士の先生とも、その方針で相談してる」
それならいいのだけれど。
ほっと息をついた時、不意に顔を曇らせた大祐が「そうだ」と切り出した。
「里緒、その……。父さんの家族に会ってみるつもりはあるか」
里緒はいっとき、何を提案されているのか理解できなかった。数秒かけて、それが祖父母のことだと気づかされた。ずいぶん急な話題転換だ。
大祐は頭を掻いた。
「実はな、父さん、色々あって実家からは勘当されてるんだ……。そしたら今日、唐突に向こうからメールを送ってきた。どこで名前を嗅ぎ付けたのか知らんが、孫娘の顔を見る気になったらしい」
あまりにも藪から棒な話に、「へぇ……」と里緒は他人事のような相槌を打つばかりだった。祖父母に会ったことがないのはそういうわけかと思った。それにしても勘当だなんて穏やかではない。
勘当の原因を大祐は話してはくれなかった。けれども不穏な予感を里緒が高めるよりも早く、きっぱり「里緒は悪くない」と断言してくれた。こういう場面できちんと断言できる人は立派だと、優柔不断な里緒はとみに思う。
「お父さんに任せるよ」
少し考えて、そう答えた。
たとえ彼らが里緒の味方でなかったとしても、大祐が里緒を守ってくれる。今の大祐には安心して身を預けられると、自信を持って里緒は答えられた。
「そうか」
大祐は肩の荷が下りたような返事をこぼして、そっと、笑った。それからどういう議論が交わされたのかを里緒は知らないが、結局、数日後に里緒と大祐は大祐の実家へ向かうことが決まった。
大祐の実家は岡山県岡山市北区にある。東京駅から東海道新幹線に乗り換え、里緒と大祐は七百キロ先の現地を目指した。
車窓に映る大祐の表情は恐ろしく堅かった。里緒も里緒で、念のために口元をマスクでおおって変装しながら、背もたれにうずくまるようにして外を眺めていた。歓迎されなかったらどうしよう──なんて、目まぐるしい勢いで飛ぶ景色の中に懸念を重ねた。信頼できる大祐の隣にいようとも、やっぱり不安なものは不安なのだった。
ところが、里緒と大祐を岡山駅で待ち受けていたのは、予想外とも言えるほどの厚待遇だった。
「遠くからよく来たね。大変だったでしょう」
西口タクシー乗り場前の待ち合わせ場所におっかなびっくり現れた二人を、祖父母は顔を綻ばせながら出迎えた。祖父は荷物を持ってくれたし、祖母は温かな飲み物を持たせてくれた。見せかけの猫撫で声などではなく、身の振り方にまで行き届いた心配りに、里緒も大祐もすっかり拍子抜けしてしまった。
祖父が雅影、祖母が織枝。二人とも六十代で、やはり十六歳の少女の祖父母にしては若々しい。
そのまま車に乗り、実家まで向かった。初めて目にする岡山の高松家は屋根瓦の葺かれた大きな一軒家だった。家の周りには生け垣が築かれ、木々の植わる大きな庭まで備わっている。広い居間に通され、緊張に身を固めていると、祖父母はパステルカラーの可愛らしいジュースを出してくれた。ぞっとするほど甘くて美味だった。特産の桃を使ったものなのだと聞かされた。
「十六になったのよね。大きいねぇ」
「淑やかだし器量よしじゃないか。立派な子に育てたもんだ」
大祐の面前で自分を褒めそやされるたび、いたずらに羞恥心ばかりが燃え上がって、里緒は「ありがとうございます……」と肩を小さくした。残念ながら里緒には淑やかな自覚も器量よしな自覚もない。おまけに同じ血の通った親族だというのに、緊張と警戒心のせいか、ちっとも敬語を外して会話できなかった。
大祐は三人兄妹の一番上だったそうで、里緒には叔父や叔母もいるのだという。いつかは親族で集まれる日が来るといいわね──。楽しげに語る祖母の笑顔は透き通っていて、疑ってかかっていた里緒の方が申し訳なさに駆られるほどだった。
その晩、夕食をとると、祖父は大祐を連れて飲みに出掛けた。里緒は広い家の中で、心を開ききれない祖母と二人きりになった。
「突然呼ばれてびっくりしたでしょう」
テレビをつけ、ソファに里緒を座らせた祖母は、隣に腰かけて和やかに切り出した。ただでさえ臆病だというのに、大祐がいなくなると心細さがいや増しになって、里緒はソファの上で身体を丸めた。
「……びっくりは、しました」
「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけどね。いつかは大祐と里緒ちゃんにも向き合わなければいけない日が来るとは思っていたんだけど、気づいたらこうして十六年も経ってしまって」
「あの、お父さんは勘当されてるって言ってたんですけど、それはその……どうして?」
ずっと尋ねたかったことを口にするや、祖母は脇腹を突かれたように表情を歪めた。
やはり、ここに高松家の運命を左右した肝がある。直感的に里緒は確信を深めた。
「勘当、ね……。そうよね、そう受け取られても仕方なかったんだろうな。実際は着信拒否も何もしてなかったのだけど」
湯飲みを握り、静かに祖母はつぶやいた。白髪の乗った顔には、声にも表情にもにじむことのない闇色の憂いが陰を映していた。
ショックを受けかねない話であるのを断った上で、祖母は大祐と瑠璃の結婚、そして里緒の出生の経緯を話してくれた。二人はいわゆる“できちゃった婚”であり、その結果として産まれたのが里緒だった。当然、両家の同意など得られるわけもなく、大祐と瑠璃は親族から孤立した──というのだ。
両親がむやみに若いわけと、祖父母がいないことになっていたわけを、里緒はいっぺんに理解した。
「あの時は混乱した勢いで大祐のことを遠ざけてしまってね。もう二度と我が家に踏み込むな、くらいのことは口走ってしまった気がする。……でもね、正直、ずっと悩んでいたのよ。あのとき私たちがすべきだったのは、もっとあの子の話に耳を傾けることだったんじゃないのかと思って」
祖母の口ぶりはどこまでも謙虚だった。時おり、窶れたように溜め息を漏らしつつ、彼女は言葉の節々に悔いを含ませた。
「結局、仲を修復する機会も作れなくて、あの子と我が家は絶縁状態になった。あの子もたくさん悩んだだろうし、苦しかっただろうと思う。瑠璃さんが亡くなっていたって知ったのはつい最近だけど、いたたまれなくて仕方なかった。私たちに手を伸ばす勇気があれば、覚悟があれば、そんな事態にならなくても済んだのかと思ってね……」
むかし、似たような台詞を大祐の口からも聞かされたのを、その萎びた声に里緒は思い返した。
里緒にだって、自分が瑠璃を死なせたのだと悲嘆に暮れた過去がある。実際のところ、一人や二人の行動が変わったところで、瑠璃の死を防げたようには思えない。それでもどうあっても自分に責任転嫁しようとしてしまう悲しい性は、祖母から大祐、そして里緒へと受け継がれた血脈なのだろうか。そう考えると不思議と辻褄が合って、なんだか少し、祖母のことが怖くなくなった。
「今まで向き合う勇気が出なくて、ごめんね。里緒ちゃんは私たちの大切な孫よ。いつでも頼っておいでなさい」
祖母は目尻に涙を浮かべながら、里緒の肩を抱き寄せ、頭を撫でてくれた。初めて体感する祖母の温もりは思った以上に薄かったが、その薄らな温もりの中に、里緒は大好きだった母にも通じる優しい何かを見出した気がした。
じきに、祖父とともに大祐は帰ってきた。その目元がほんのりと赤らんでいるのを認め、飲み屋で何が起きたのかを言外に察した里緒は、ほっと温もった息をつきながら認識を改めた。
(私の思うよりもたくさんの人に、私、ずっと前から想われていたんだな)
やけに大祐のことが愛おしくなって、その晩は大祐と布団をくっつけて眠った。東京と比べると岡山の夜は暖かく、静かで、いくらか眠りが深かったのを覚えている。
文化祭も近付いてくると、管弦楽部の活動はいよいよ多忙になっていった。加えて、迫り来る中間試験に向けて勉強に時間を取られる上、クラス単位の出し物への準備にも励まなければならなくなった。
女子部一年D組が出し物に選んだのは、演劇。しかも女子しかいないクラスでありながら、演目の内容は姫と王子のラブロマンスである。
王子役にはスマートな外見と凛々しい風貌が求められる。白羽の矢が立ったのは、紅良だった。
「なんでこんなことに……」
放課後の時間を割いて練習に取り組みながら、紅良は事あるごとに文句を垂れに垂れていた。姫役に選ばれた翠が「まあまあ」と押し止めようとしていたが、紅良はまったく耳を傾けないばかりか、
「津久井さんは“小さくて可愛いお姫様”だからいいでしょうね」
と、低身長な翠のコンプレックスを的確に抉り返して半泣きに追い込む始末である。そのうち本気で喧嘩でも始めてしまうのではないか──。音響係に任命された里緒は、練習のたびにはらはらする思いで二人のやり取りを眺めさせられた。
舞台転換中には音楽が必要になる。いったい如何なる曲を選んで流せば、あの凸凹で剣呑な王子と姫のシーンを多少なりとも盛り上げられるのだろう。管弦楽部の練習の合間も、行き帰りの電車の中でも、音楽プレーヤーから伸ばしたイヤホンに没頭して悩み続けた。そのうち悩み過ぎて頭が回らなくなったのか、目の前の二人には何を流してもそぐわないのではないかとさえ感じられ始めてしまった。
困り果てた末、緋菜や舞香にアドバイスを求めると、彼女たちはこう返してきた。
「思い浮かべるだけだと上手くいかないよ、そういうのって」
「自分で台本を朗読してみたらイメージ湧きやすいんじゃん?」
もっともな意見だった。次の日の夕方、台本を携えた里緒は多摩川の土手に向かい、クラリネットの練習がてら台本朗読に励むことにした。
心を込めて文章を読むというのは、口で言うほど簡単ではない。──否、それそのものは簡単だ。ただし嫌でも羞じらいが付いて回る。
土手に腰かけて台本を開くまで、そんなことなど里緒は想像もしていなかった。迎えた朗読の時間は緊張と不安の連続だった。ほんの数行ほど読み進めるたび、恐る恐る周囲を伺って、誰にも聴こえていないのを懸命に確かめた。人が通るたびに朗読は中断させられ、そのたびに長い台詞や場面が途切れてやり直しになった。
(早く帰りたい……)
しまいには必死に身を縮めて、里緒は早口で台本の中身を機械的に口走った。もはや朗読の目的は完全に頭から飛んでいた。
ただ読んでいるだけでも苦痛きわまるというのに、このうえ出演者の紅良や翠は演技までもつけなければならない。今となっては紅良の文句にも納得がいった。こんなの、私には絶対に無理だ──。終いまで読みきった台本を投げ出し、土手に大の字になると、淡く、甘ったるい吐息が里緒の口を漏れ出して、川の方へ流れくだった。
こうして自分の限界を思い知るたび、握り潰されるように心臓が痛む。世の中のすべてを理解し、手に入れることなどできるはずもないのに、こんなことでいちいち傷ついている自分は不遜だと思う。
ともかく疲れた。
なんでもいいから癒しがほしい。大の字のままぼんやりと空に目をやり、浮かぶ雲の中に美味しそうに見える個体を探していた──その時だった。
「あ、お姉ちゃんだ」
聞き覚えのある男の子の声が、耳を打った。
電気ショックを食らった勢いで里緒が起き上がると、そこにいたのは拓斗だった。慣れるほど一緒に遊んだのだ、見間違えるはずがなかった。
里緒は瞳孔が引きつるのをはっきりと感じた。
指をくわえ、彼は土手の上から里緒を見下ろしている。いったいなぜ、ここにいるのだろう。ひとりでやって来たのか。震える声で「拓斗くん……?」と名前を呼んだ瞬間、追いかけるように紬の姿が現れ、いよいよ里緒の肩は痛みながら強張った。
「どこ行くの拓斗、勝手に────」
そこまで口にした紬は、身を起こした里緒と向かい合ったとたん、心臓が止まったような顔で凍り付いた。もしかすると里緒も同じ顔をしていたのかもしれない。鏡がないから、分からない。
三ヶ月も前に突き放したきり、紬とは顔すら合わせていなかった。それもそのはず、市井の一般人の顔をしているが、彼女は里緒や瑠璃の過去を日本中に知らしめた新聞社の記者なのである。
どうしよう──。
一瞬ばかり混乱を覚えた里緒だったが、深呼吸をひとつ挟んで、思い直すことに決めた。
もう、ここにいるのは以前のような打たれ弱い自分ではない。報道や個人特定の嵐も過ぎ去りつつある今、マスコミ関係者だからといって過度に恐れる必要はないのである。
「お久しぶりです、神林さん」
ちょっぴり無理をして微笑んでみた。
紬の表情は徐々に崩れ始めた。一歩、二歩とよろめくように近寄ってきた紬は、「……怖くないの?」と震える声を発した。
「怖くはないです。……たぶん」
「里緒ちゃん!」
叫びざま、駆け寄ってきた紬は里緒を力任せに抱き締めた。泣きそうな表情が視界の片隅を過って、里緒は息を詰まらせた。かと思うと、紬は里緒の身体に腕を回しながら本当に泣き出した。
「ごめんね、ごめんねっ……。里緒ちゃんを傷付けるつもりは少しもなかったのっ。ずっと謝りたかった、話しかけたかった……っ」
一分もの時間をかけて、紬には勝手に雑誌や新聞の記事にしたことを一頻り謝られた。「もういいです」とも「許します」とも言えなくて、里緒は抱きすくめられた半端な姿勢のまま、紬の涙ながらの懺悔を最後まで聞き入れた。
いくら謝られたところで、過ぎたことと忘れるわけにはいかない。里緒も、それから大祐も、未だ終着点の見えないあの事件の当事者だから。
それでも今の里緒には、
「泣かないでください」
そう、声をかけて微笑むだけの余力が、確かに備わっていた。
紬は目を丸く広げ、まばたきを繰り返した。里緒の言葉を上手く咀嚼できなかったらしい。同じく外国語の会話を聴いているような顔で突っ立っていた拓斗に、里緒は声をかけた。
「おいで」
「お姉ちゃん、元気になったの?」
「元気になったよ。心配させちゃったね」
拓斗の頬をつまんで、揉んで、里緒は笑った。三ヶ月のブランクを経た今も、拓斗の可愛らしさは少しも変わっていない。どこまでも無邪気で、素直で、愛らしいほど幼けない。やっぱり里緒は子供が好きなのだろうと思う。
「この間のコンクールね、私、こっそり聴きに行ってたの」
拓斗に構ってあげていると、ぽつり、紬がつぶやいた。
「すごく素敵だった。私、なんだか救われたような気持ちになっちゃって……」
「ほ、ほんとですか。よかったです」
「また、里緒ちゃんの歌、ここへ聴きにきてもいいかな」
思いがけない問いを受け止め、一瞬ばかり迷った里緒は視線を逃がしそうになった。わだかまりは依然として完全に解消してはいない。それでも、きちんと前を向いて向き合えば、この恐怖も少しずつ減っていってくれるだろうか。その期待も込みでうなずいた里緒は、傾きかけの陽に照らされた紬の顔に、ようやく安堵の笑みが染み渡ってゆくのを目にした。
欠け続けていた最後のピースがぴったりはまる瞬間を、その笑みのなかに里緒は明確に感じ取った。
コンクールの九月二十三日を境にして、大祐は煙草を吸うのをやめたらしい。夜、駅前のレストランで囲んだ誕生祝いと労いの席で、大祐は会社の管弦楽団に入団したことを報告してから、煙草との決別をきっぱり口にした。
動機を聞いても「煙を吐くよりホルンを吹かなきゃならないしな」などと大祐は煙に巻くばかりだった。だが、決意を述べた大祐の表情が長年の呪いを解いたかのように晴れやかだったので、求めていた答えの在処を里緒は何となく察した。
『里緒の身体にもよくないでしょっ』──。
いつかの瑠璃の口癖が思い出されたのは、ただの偶然ではなかったはずである。
コンクールで演奏したのを機に、美琴はピアノに本格的に再挑戦し始めた。
聞けば、元ピアノ科出身の京士郎に個人的に師事を仰いで、部活終わりの時間に熱心に取り組んでいるらしい。かといってクラリネットを放り出す気もないようで、「二足の草鞋は思ったより楽じゃない」と美琴は時おり自嘲気味にぼやいていた。
同様にヴァイオリン弾きを再開して二足の草鞋を履き始めた佐和と一緒に、“楽じゃない”居残り練習を美琴は今も仲良く続けている。
コンクールの終結から半月近くもの時間が経った頃になって、花音はようやく里緒に自分の生い立ちを話してくれた。
練習のない日曜日、紅良ともども青柳家に呼び出された里緒に、花音は神妙な面持ちで過去を白状した。施設育ちの養子であること、千明や晴信との血縁関係はないこと、『フェアリーホール』で会った少女は昔の知り合いだったこと。あんまりにも花音が悲痛な面持ちをしていたので、たまらなくなって里緒も白状した。
「その、すごく言いにくいんだけど……。実は私、青柳さんの両親から事前にそれ、聞かされてた」
花音は安堵とも当惑ともつかない妙な顔をした。「本当?」「引かない?」「私のこと嫌いにならない?」──などと何度も尋ねられたので、そのたびに首を振って否定した。しまいに花音は瞳を潤ませ、正座した里緒に思いっきり抱き着いてきた。
「里緒ちゃんのそういうところ大好き」
身体の自由を奪われた状態で耳元に囁かれ、里緒は顔を真っ赤に染めながら固まった。愛の言葉は罵倒以上に慣れていないのだ。紅良がやけに大げさなため息を吐いていたのが記憶に残っている。
花音が音楽の道を志したのは、かつて暮らしていた施設で日常的に流されていたクラシックの音楽が、知らず知らずのうちに耳に染み付き、心の支えになっていたからなのだという。外の世界を生きる平凡な家族に憧れ、漠然と音楽に惹かれていた昔の自分と、今の快活な自分。そのどちらが本物の“花音”の人格なのかは、もはや分からない。しかしそんなものは一生分からなくていいと、花音は屈託なく笑っていた。肩の荷を下ろした人間の浮かべる脱力しきった笑顔が、里緒は不思議と好きだった。
それぞれのリズムに従って日々は流れる。
里緒も、里緒を取り巻く幾多の人々も、少しずつ姿を変えながら時計の針を追いかけている。
気付けば入学から半年が経ち、カレンダーの日付は十月になっていた。
「何度でも胸を張って、『生きててよかった』って言ってみせる」
▶▶▶次回 『C.184 クラリオンの息吹』