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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
193/231

C.182 夢を叶えた帰り道

 




 弦国管弦楽部の退場をもって、エントリーした全二十校の演奏はつつがなく終了した。

 十九時八分。各校代表生徒二名が集められ、ホールの舞台で表彰式が行われた。




 弦巻学園国分寺高校管弦楽部の結果は──ゴールド金賞。

 授与されうる三段階の賞のうち、もっとも優れた賞である。

 それはおそらくきっと、独奏者(ソリスト)の見せつけた圧倒的な技量と、それに寄り添う伴奏の高度な調和、音作りの繊細さが、高く評価されたがゆえの結果だったに違いない。金賞を獲得したのは全二十校中、わずか六校。どこのコンクールにも顔を出した経験がなく、完全な挑戦者(チャレンジャー)として出場しながら、弦国は上位三分の一に食い込む大戦果を挙げたのだ。まさに矢巾の言ったところの“奇跡”、快挙と呼んでも差し支えのない結末であった。

 しかしながら弦国は、全国大会(グランドコンテスト)への出場権を獲得することまでは叶わなかった。

 全国大会(グランドコンテスト)への出場を果たしたのは、慶興義塾高等部管弦楽部、大崎女学苑高校吹奏楽部、都立武蔵野西高校吹奏楽部、都立麻布十番高校管弦楽部の四校。いずれも数十人単位の巨大楽団を率い、卓越的な演奏技術と迫力に満ちた音色をフェアリーホールの壁いっぱいに叩きつけていった学校だった。いつか矢巾の指摘していた通り、弦国の選んだ〈クラリネット協奏曲〉は曲としては素晴らしくとも、演奏の技巧を見せつけるには(いささ)か大人しすぎたのかもしれない。

 いずれにせよ、審査の過程や評価の理由は公表されない。すべては里緒たち出場者の勝手な予想にすぎなかった。

 トロフィーを受け取りに出向いたのは菊乃と洸だった。彼女たち二人が代表者を名乗ることに、誰の口からも異論は上がらなかった。


 ──『おめでとう』


 授与に当たった実行委員長の優しい言葉に、菊乃は瞳を潤ませ、唇を歪めていた。金色のトロフィーを握りしめ、誇らしげに笑った舞台上の二人に、管弦楽部は客席から精一杯の拍手を捧げた。里緒も、花音も、紅良も、夢中で手を打った。手のひらの痛みがこれほど心地よかったのは初めてだった。


 “きっと誰にも負けない輝きを舞台の上で放てると思います”。


 演奏前の菊乃の鼓舞を裏付けるように、舞台の照明を浴びたトロフィーは黄金の輝きを放っていた。




 九月二十三日。

 ひと夏を賭けた弦国管弦楽部の挑戦は、華々しい音の(きら)めきをホールに散らせ、終わりを告げた。








「──みんな揃ってるね! 忘れ物のチェックはした?」

「さっき八代と三原がやってくれてました」

「あの子たちイマイチ信用ならないからな……。ごめん岩倉、手が空いてたら見てきてくれない?」

「ちょっと! それどういう意味っすか部長!」

「俺らの真面目な仕事ぶりを舐めないでほしいんですけど! なぁ?」

「真面目な仕事ぶり、ね……。合宿開く時に二人が出してくれた教室使用申請書、実は記入漏れだらけで突き返されたから私が修正させてもらってたんだけど、そんなこと二人は知らないか」

「すいません調子乗ってました」

「土下座すんの早ぇよ!」

「合宿かー、やったなぁ。まだ昨日のことみたい」

「事務の先生が困惑してたのが懐かしいな。君らがあんまり変な時期に申請書を出したもんで、『日付間違ってませんか?』って僕のところに確認に来られたよ」

「そりゃそうっすよ、だって試験終了の翌日スタートとか常識的に考えられないっしょ……」

「今にして思うとずいぶん強引な開催でしたよね、合宿(あれ)。部長らしくない決断だなって思ってました」

「ちなみに俺たちも松戸と同感でしたよ」

「まぁね。高松のこともあったし、あんまり形振(なりふ)り構ってはいられないと思ってたから。……私たちもさ、焦ってたんだよ。あの頃」

「へぇ……。部長でも焦ることってあるんすね」

「当たり前でしょ。後輩(あなたたち)の前で見せないだけ」

「気持ちは分かるが僕みたいにはならないでくれよ。一人で気負いすぎるとろくなことがない」

「そうですね。須磨先生のようにはならないようにします」

「うわ、辛辣!」

「目付きがキツい!」

「部長って絶対(サド)っすよ。大学に上がる前に自覚した方がいいですよ」

「なんでもいいけど本庄と藤枝までSに目覚めさせないでもらえるかな。八代は(マゾ)属性が強すぎ」




 ──他愛のない会話に耳を傾けているうちに、客席の見回りを済ませた三年の岩倉が引き返してきた。忘れ物はなかったという。

 これでようやく撤退できる。足元に置いていたケースの取っ手を引き上げ、里緒は背筋を伸ばした。


「よーし! 立川駅まで移動するよ!」


 菊乃の号令で、管弦楽部はぞろぞろと移動を開始した。チェロやファゴットはすでに春日家の車に積み込み、弦国へ移送中である。あとは部員全員で校舎に戻り、解散するだけ。

 スマホには大祐からのメッセージが届いていた。簡単なねぎらいの言葉とともに、立川駅での待ち合わせ時刻が記載されていた。今夜の夕餉はコンクールの終了を祝う会でもあり、里緒の誕生日を祝う会でもある。それがなければ危うく誕生日のことを忘れてしまいそうだ。そのくらい、質量ともに中身の濃い一日を過ごした。


「打ち上げとかっていつやるのかなぁ」


 両手を頭の後ろに組みながらのんびりとつぶやいた花音が、里緒と目を合わせた途端、息を噴いた。


「里緒ちゃんの目、真っ赤!」

「そんな、頑張って顔洗ったのに……」


 里緒は小さくなった。演奏終了後、ホール玄関前で写真撮影をするというので、慌ててトイレにこもって必死に顔を洗ったのだ。しかし冷静に考えると、あれだけ激しく号泣したのだから、ちょっとやそっとの洗顔ではどうにかなるはずもない。私なんか写してくれなくてもよかったのにな──。羞恥心の混じった嘆息が口をつく。


「電車乗ったらびっくりされちゃうかもね。あいつら何やってきたんだ! って」


 花音は朗らかに笑った。よく見ると、その目もしっかり充血の余韻を引いていたが、花音の名誉を(おもんぱか)って里緒は無言を貫くことにした。

 ホールの館内を抜け、ガラス張りの自動ドアをくぐって外に出ると、サンサンロードはすでに夜闇の支配下に落ちようとしているところだった。濃紺と紫の入り交じった空が、立川の街の上空を埋め尽くしている。気の抜けきった顔の緋菜が「お腹空いたなぁ」などとぼやいた。彼女がここまで脱力しているのを目にしたのは初めてかもしれない。

 クラリネットのケースを胸に押し付け、里緒は空を見上げた。

 空は隅々まで晴れ渡って、遥か高みまで美しい。西の方角にはオレンジの絵の具がほのかに溶け、目を閉じれば夜の匂いがうっすらと薫る。平和という言葉は、この芳しい匂いを嗅ぐことのできる日々を言うのだろう。何となく、そう思った。

 フェアリーホールのビルには煌々と灯りが(とも)り、立ち去る里緒たちの背中を穏やかに照らしている。


(……楽しかったな)


 独り言ちて、ケースの表面を撫でた。

 この胸に踊る感慨を“楽しかった”と表現するのが果たして正解なのか、里緒には分からない。演奏が楽しかったのは確かだ。しかし、それだけではない。独奏者(ソリスト)の役割を全うできたことへの安堵も、十四人の仲間たちと最高の音楽を紡ぐことができた達成感も、瑠璃と言葉を交わし、抱きしめられた幸福も、すべては肋骨の内側でごちゃ混ぜのマーブルになり、ぽかぽかと熱を放ちながら燃えている。それを無理に一言で表そうと思ったら、里緒には“楽しかった”という言葉にすべてを包含する以上の発想は思い付かなかったのだった。


「自信、ついた?」


 隣へ並んだ紅良が、何気ない風に尋ねてきた。「自信?」と問い返すと、紅良は里緒に(なら)って空に視線を振り上げ、歌うように唱えた。


「取り組んだものを成功させられる自信。()()高松さんにはなかったものでしょ」


 ()しくもここはちょうど三ヶ月前、『立川音楽まつり』で里緒が失敗を喫した場所でもある。

 ビル群の谷間を抜けるサンサンロードの夜景に、もう、あの日のトラウマが重なることはない。里緒は確信をもって、首を振った。


「自信を持てたのかは分からないけど……。怖がることはなくなったよ」

「そっか。よかった」


 紅良は目を伏せた。持ち上がった口の端に、彼女の心境は強くにじんでいた。

 この数ヵ月をかけ、里緒の恐れるものはずいぶんと減った。むかしは友達や部活仲間、先生、果ては家族の大祐さえ、情けない畏怖の対象だったものだ。けれども今は、彼らに触れている時間が快くて仕方ない。花音や紅良や、大好きな人たちの傍らにいるだけで、里緒の小さな胸はこんなにも確かな温もりを持つ。こんな調子で生きてゆけば、いつか自信を持って、自分を誇って、欠けているすべてを補える日も来るだろうか。

 紅良の横顔に夢中で目を細めていたら、突然、足先が地面に引っ掛かった。


「うわ!?」


 つんのめった里緒は叫んだ。しまった、つまづいた! ──慌てて両手でバランスを取ろうとしたが、不器用な身体は言うことを聞かず、そのまま地面に思いっきり膝をついた。じんと染みた痛みが冷たくて、漏れる呻き声を()き止められない。


「くぅ……っ」

「うわわ、大丈夫?」


 先を歩いていた花音たちが振り返った。立ち止まった紅良が「前見てないから……」と呆れ気味に台詞を重ねた。

 情けないやら恥ずかしいやらで、里緒は曖昧に笑った。左手の先にぶら下がったクラリネットのケースが、地面すれすれの高さで不安定に揺れている。危ない、また落として傷付けるところだった。二〇〇〇万円の貴重な楽器を粗雑に扱ったら怒られる。西成にも、瑠璃にも、シュタードラーにも。

 駆け寄ってきた花音と紅良が、里緒に向かって手を差し伸べた。

 入学式の日、そっくりの光景を目の当たりにしたのを、柔らかそうな手のひらに里緒は思い返した。

 あのとき紅良はハンカチを、花音は絆創膏を差し出してくれた。もしもそれが今度のように二人の手だったとして、あの頃のままの里緒だったら、きっと今も差し伸べられた手を警戒して、握り返すことなどできなかった。

 けれども今はためらいなく、この手を取れる。

 そっとクラリネットのケースを地面に下ろし、二人の手を握り返した。「よいしょっ」と花音が力を入れ、里緒は二人のもとに立ち上がった。カバンから出したハンカチを膝に宛がうと、骨に響く痛みも少しは和らいで、鳴りを潜めた。


「早く早く!」

「遅れるよっ」


 二人の向こうで舞香や緋菜たちが急かす。うなずいて無事を示した里緒は、ふたたびケースを握り、カバンを肩にかけ、歩き出した。視線を交わして微笑んだ花音と紅良が、その後ろに続いた。


(もう、怖くない)


 誰の姿もない虚空に向かって、里緒は声を振り絞った。嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。


(もう怖いものなんてない。怖いものに巡り会っても、何度だって立ち向かえるんだ。私自身の強さと、私の周りにいてくれる人たちの力を借りて)


 その強さと力が燃え続ける限り、里緒は生きてゆける。この広い世界に息吹を響かせ、どこまでも歩いてゆける。

 誕生日という節目を迎え、大好きだった生母に背中を押されて、里緒は生まれ変わったのだ。


 モノレールの巨体が頭上を乗り越えてゆく。視線を上げ、耳を澄ませば、無数の音が街を彩っていた。管弦楽部の仲間たちの話し声、笑い声、テンポのよい靴音。行き交う人々の吐息。自動車やバスの走行音。吹き渡るビル風の歌。──そして、他でもない里緒自身の胸が打つ、力強い脈拍の叫び。

 あふれ返った世界中の音は、十六年を生きて夢を叶えた少女の身体を包み込み、いつまでも絶え間なく、惜しげなく、祝福していた。








「また、里緒ちゃんの歌、ここへ聴きにきてもいいかな」


▶▶▶次回 『C.183 新世界の日常』

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