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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム
192/231

C.181 贈る言葉

 




 拍手の鳴り止んだ客席では、間もなく観客の退場が始まった。

 三々五々、席を立った客たちが、二十組に及んだ高校生たちの名演の感想を語り合いながら去ってゆく。いつまでも座り込んでいると退席の邪魔になる。そうと分かっていても、大祐は沈み込んだ座席からなかなか腰を上げることができなかった。


「……すげぇな」


 ようやく口を開いた亮一が、途方に暮れたような声を発した。


「本当に高校一年かよ、あの子。しかも指揮者抜きだってのに……」


 大祐は力の入らない首を振った。目の端に浮かんでいた涙が、うなずいた拍子に跳ね、足元の闇に消えた。

 我が娘の活躍だというのが信じられないほどの見事な演奏だった。それは決して、親バカのなせる評価ではないと思う。スタンディングオベーションの出るような有り様だったのだから、きっと多くの客は同じ感想を抱いているはずだ。

 視界の彼方に舞台が浮かんでいた。すでに舞台上から弦国の生徒は消え、ステージ係のスタッフによって座席や譜面台の撤去が行われている。里緒の立っていた場所には、何もない。指揮者のみならず、座席も、譜面台さえもない状況下で、里緒はあれだけの独奏(ソロ)を吹ききったのである。その凄まじい事実を、大祐はまざまざと思い知らされた。


(よくやったよ、里緒)


 大祐は胸のなかに向かって唱えた。

 演奏を終え、泣きながら一礼を披露する里緒の姿に、毎晩のように河原で自主練習に励んでいた背中が思い出されて、張りのない胸は締め付けられるようだった。──よく頑張った。立派だった。ここまでの演奏を成し遂げるとは思ってもいなかった。

 本人と再会するのは夜になる。顔を見たら駆け寄って、思いっきり褒めてやろうと思った。褒めるだけではとても足りない気もするのだけれど、こういうとき、何をしたら里緒が喜んでくれるのか、あいにく大祐には何も分からない。分からないなりに、大祐なりのやり方で里緒への愛情を思いきり伝えてやろうと思った。


「娘さんと合流するまで時間あるでしょう?」

「ちょっとそのへんで一杯ひっかけて行かんか」


 立ち上がったホルンパートの成田と水戸が、起立を急かすように声を投げ掛けてくる。各々(おのおの)、語りたいことが積み上がっているのだろう。「明日は平日っすよ」と亮一が茶々を入れて、同僚たちの顰蹙(ひんしゅく)を一斉に食らった。


「たまには悪くないですかね」


 大祐は首をすくめて笑った。普段ならば敬遠するところなのだが、珍しく提案に乗る気になったのも、きっと里緒たちの演奏が胸に呼び起こしていった前向きな感情の賜物に違いない。

 大祐の賛同を得るや、さっそく同僚たちは店選びの検討を始めた。忘れ物の有無を確認する程度の意識で、大祐はあたり一帯に視線を配った。

 ──そのとき不意に、見覚えのある顔が視界の隅に引っかかった。続々と立ち去りつつある観客の波の向こうに、新聞記者の紬の姿がある。


(来てたのか、あの人)


 驚くと同時に、紬もこちらを振り向いた。目と目が合った瞬間、彼女の蒼白な頬にほのかな色が染みわたったのを、大祐は確かに目にした。

 これといって用件があるわけではない。ただ、なんとなく顔も合わせた方がいいような気がして、席を立った大祐は亮一に「先行っててくれ」と促した。彼が戸惑い気味にうなずくのを待ち、足を踏み出した。紬も同行者に同じことをしていたようだ。


「神林さん」


 人ごみをかき分け、紬の名を呼ぶ。小さな男の子を引き連れた彼女は、うなじを掻きながら大祐の前に立った。


「……すみません。つい、来てしまって」

「どうして謝るんです」

「いえ、その、里緒さんに不用意に近づいてはいけないと思っていたものですから……」


 そういえば紬と初めて対面した日、そんな約束をさせた気もする。唇を噛む紬を前にして、大祐はやけに心がおおらかになるのを覚えた。紬は神経質になりすぎだ。大祐は何も、そこまで厳重に里緒との接触を禁じたわけではない。

 それに少しばかり、嬉しかったのだ。


「うちの子のこと、本当に気をかけてくれていたんですね」


 自然と浮かんだ微笑みを向けたら、紬の目元は一気に赤くなった。「はい」と口の中で言葉を持て余し、彼女は地面に目を落としてしまう。一つ、二つ、透き通った滴がカーペットに染みを作るのを、息子とおぼしい男の子が不安げに見上げている。

 大祐がそうであるように、紬も大切な我が子を守る親なのだ。だから、大祐の届けようとした感謝の思いを紬はきっと理解できるだろうし、してくれるだろう。……こうして一定の親近感をもって紬と接することができるようになったことに、大祐は我が身の大きな進歩を感じていた。


「……里緒さん、すごかったです」


 喘ぐように紬が言葉を発した。


「あんなに立派になっていたんですね。私と会わなかった三か月の間に、あんなに格好いい独奏者(ソリスト)になっていたんですね。ちっとも知らなかった……」

「私も知りませんでしたよ」


 大祐は苦笑した。知っていたら、ここまでの衝撃を受けることもなかっただろう。もっとも里緒の成長を目の当たりにした事実は変わらないので、いずれにせよ少しくらいは泣いていたかもしれない。


「あの子、中学でいじめに遭う前から引っ込み思案だったんですよ。これだけのコンクールで独奏(ソロ)を担当するなんて、あの頃の里緒だったら絶対にありえなかった。こうして勇気を出せる子になってくれたことが、親としては一番、嬉しいです」

「その気持ち、すっごく分かります」


 うなずいた紬が我が子の手を取った。「ねー、この人だれ?」と彼はあどけない声で尋ね返す。


「息子さんですか。お話に聞いていた」

「拓斗って言います。この子も今年の夏、こども園の発表会でシンバルの独奏(ソロ)を引き受けたんです」

「すごいじゃないですか。競争率も高いだろうに」

「『格好いいところをママに見せたい』といって立候補してくれたんだと、後になって園の先生から聞かされました」


 振り返った紬の瞳が、片付けの終わったホールの舞台に注がれる。舞台の景色に彼女が何を重ねているのか、察しの悪い大祐にも何となく理解できた。


「里緒さんが拓斗と同じ気持ちで舞台に立っていたのか、私には分からないですけど……」


 言葉を切った紬は、目の端に滲んだ涙を人差し指ですくって、笑った。


「それでも、里緒さんの輝く姿を間近に見られて、私は幸せです。嬉しいです。これ以上ないくらい」


 何の血縁関係もないというのに、大祐には時々、紬が実の娘のごとく里緒を溺愛しているように見える瞬間がある。彼女が里緒に注ぐ想いは紛れもなく本物なのだと、その一瞬、潤む紬の瞳を前にして大祐は実感した。実父の自分が愛情の量で負けている気さえするほどに。

 そんなのは悔しい。

 十六年間、片時も目を離さずに育ててきたのは、この自分なのだ。

 でも、これほどに愛される娘を持ったことに、隠しきれない誇らしさを覚えている自分もいる。


(あの弱かった里緒が、楽団の先頭に立って数千人の観客を魅了するまでに成長した……なんて、瑠璃が聞いたらどんな顔をするかな)


 二度と見られない妻の笑顔を中空へ思い描き、大祐は吐息を漏らした。十数年も連れ添ったのだ、示す反応は容易に想像できる。それでもやっぱり答えを確かめられないのは寂しい。この寂寥感とは今後も一生涯、付き合い続けることになるのだろう。

 退屈を覚え始めた様子の拓斗が「ママー」「行こうよー」といって紬の裾を引っ張っている。困ったように紬が大祐を顧みた。大祐とて、通路の向こうに亮一たちを待たせている身分だ。


「……そろそろ、行きましょうか」


 形ばかりの笑みを繕った大祐が応じて、紬が首を縦に振ろうとした、──その瞬間だった。






 ──『ありがとう』




 不意に耳元へ、女性の声がささやいた。

 それは大祐のよく知っている、しかし今は決して聴くことのできないはずの声だった。

 慌てて、周囲を見回した。

 立て続けに二言目が続いた。




 ──『里緒のこと、これからもよろしくね。……大好きだよ』




 大祐の口は空をくわえて喘いだ。名前を呼びたかったのに、声帯が痺れて言うことを聞かなかった。

 それっきり声が聴こえることはなかった。しばらく待ち続けてから、傍らの座席の背もたれに愕然と寄りかかると、緩んだ目尻に熱いものが込み上げて、拭う間もなく大祐の頬を走り降りていった。

 聴き間違うはずはなかった。

 今の声は、瑠璃だった。

 だらしなく流れた涙を懸命に拭き取り、誤魔化していたら、後ろから紬の不安げな声が飛んできた。


「だ、大丈夫ですか。貧血ですか?」

「……いや」


 大祐は無理やり口角を上げた。


「何でもないですよ」


 何でもないわけがなかったが、今、大祐の身に起きたことは、どう説明しようとも上手く伝えられる自信がなかった。

 紬は眉根を下げた。拓斗も指をくわえながら、大祐の高い背を見上げている。変な心配をかけてはいけないと思い、平然とした顔で通路に出た大祐は、振り返って天井を仰ぎ、深呼吸をひとつ挟んだ。


(……()いてたんだな、瑠璃)


 無数の照明が大祐を照らしている。瑠璃がどこにいて、どうやって大祐を見つけて耳元にささやきかけてきたのか、大祐には分からない。しかし分からなくても十分なのかもしれないと思い直した。瑠璃の伝えようとしてくれた想いは、大祐の耳にきちんと届いた。それで十分なのだから。


 ずっと、謝りたかった。

『ひとりで苦しませて、死なせて、ごめん』と。

 今、瑠璃は幸せなのだろうか。せめてそれだけでも知りたい──。届けたい感情が泡沫のように浮かんできては、どれも形を保てずに弾けて消えていった。それでも最後まで残った願いの欠片を、大祐は静かに拾い上げ、口にした。


(任せろ)


 “愛してるよ”とは言わなかった。きっと瑠璃には伝わっているだろうし、たとえ未来に何が起ころうとも、その想いは決して揺るぎはしないと思えたから。

 いつか里緒が独り立ちする日まで、大切な二人の福音を守り抜いてみせる。もう、声を発することを恐れないし、声に耳を傾けることを恐れない。確かな誓いを捧げた瞬間、たちまち胸に走った鋭い痛みが熱を膨らませ、最後の一滴を大祐の目尻に押し出して、押し流して、やりきれない切なさを跡形もなく吐き出していった。


「──行きましょう」


 気付かれないように涙を払って、振り返って、かけた声は普段よりもいくらか凛々しく響いた気がする。


「はい」


 紬が応じた。何も事情を知らないはずなのに、いつしか彼女の顔にも充足の笑みが満ちていた。

 神林親子の先陣を切って、大祐は通路を歩き始めた。自らの足で力強く立ち上がった娘の音を聴き届け、亡き妻の声を聞き届けることのできた今は、暖かな感情に満たされた身体の中がいっぱいで、少しくらい胸を張っても(ばち)は当たらない気がした。








「もう、怖くない。怖いものに巡り会っても、何度だって立ち向かえるんだ」


▶▶▶次回 『C.182 夢を叶えた帰り道』

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