C.180 再会
里緒は、真っ暗な世界の片隅に、たったひとりで立ち尽くしていた。
身体が動かない。
指も、腕も、唇から剥がしたクラリネットを握る姿勢のまま凍り付いている。演奏の余韻はとうの昔に耳を流れ去っていた。
ここはいったい、どこなのだろう。
何も見えない。
何も聴こえない。
あらゆる感覚が衰え、知覚する力を失っている。
(私…………)
里緒は心に問いかけた。
(演奏、上手くできたかな。失敗しなかったかな)
いくら問いかけても答えはなかった。途方に暮れ、目だけを動かして、わずかな視界の畔をどうにか見回した。いきなりコンサートホールから意識が飛び、こんな暗闇の中へ連れ込まれたというのに、うろたえる気持ちは不思議と起こらなかった。
一世一代の役目を終えたクラリネットは、金色の煌めきをキイいっぱいに帯びながら、里緒の胸の前で静かな眠りについている。ほどよく首と指にかかる長さ九十センチの木製管の重みが、心地よくて、懐かしい。もはや演奏開始前の緊張が嘘のようだった。
(……楽しかったな)
キイの凹凸を指の腹に感じながら、里緒はまぶたを閉じた。甘ったるくて優しい感情が胸に踊り、弾けて、散った。
楽しい演奏だったと思う。
それは決して愉快だったという意味ではない。ただ純粋に、快かったのだ。
指先で描いた思い通りの音が、背後から飛んできた伴奏の音色と融けるように重なって、見えない客席の彼方へ膨らみ、広がってゆく。その快感は、里緒の貧しい語彙ではとても言葉に置き換えることのできないものだった。もしも同じ楽しさを管弦楽部の仲間たちが感じてくれていたなら、どんなにか嬉しいだろう。そうすれば里緒は菊乃に胸を張って、『約束を果たしました』と報告できるのに。
けれども悲しいかな、こういう陶酔の大半が自己満足に由来していることを、里緒は知っている。
(やっぱり、今回も自己満足かな)
情けなく笑ってみたら、なんだかむやみに切なくなって、里緒は深呼吸に励もうとした。
その息が、唐突に詰まった。
前方に人影が見えた。
「誰…………」
叫んだ里緒の目に、人影は徐々に明確な輪郭を伴って映り始めた。肩までの長さに揃えられた、静かな艶のある黒髪。里緒よりもわずかに高い身長。新緑あふれる季節のコーディネートを思わせる、やや薄い生地のシャツ。生前に愛用していた、ゆとりのある白のマキシスカート。最後にその格好を目にしたのは去年の五月だったか。
もはや、名前を問うて確認する必要はなかった。
『里緒』
闇の底から現れた彼女は、里緒の正面に立って微笑みを浮かべた。軋む音を上げて瞳孔が開ききるのを感じながら、里緒は呻くように名前を呼んだ。
「お母さん……」
高松瑠璃、その人だった。
荒くなった息を押さえつける晴れ姿の娘に向かって、瑠璃は一歩、そっと歩み寄る。さては、ここは天国か。里緒は命を落としたのか。疑りを深めた里緒だったが、しかしすぐに違うと思い至った。
そんなわけがない。
だって、ここにクラリネットがある。
身体の感覚は明瞭に残っている。
そうでなければ明晰夢の類なのだろうか。
混乱する里緒にそっと手を伸ばし、また一歩、瑠璃は歩み寄ってきた。相変わらず里緒は微塵も動くことができなかった。
『大きくなったね』
瑠璃の声は静かで、隅々まで明るかった。
『ほら、背丈もこんなに私に近くなって。あの長かったクラが小さく見えちゃうくらい』
紛れもなく、本人の声だった。本当にお母さんなんだ──。里緒は半泣きの目で瑠璃を見上げ、唇を震わせた。
せっかく再会したというのに、話したいことは山のようにあるはずなのに、無秩序に感情の濁流が胸の中を暴れ回るばかりで少しも声にならない。
すべて見通しているかのように、瑠璃は首を傾ける。そうして、伸ばした手のひらを、そっと里緒の頭に宛がった。
じんと痛みが染みた。──否、それは痛みではなくて、痛いほどの強さを持った温もりだった。息が止まり、全身が強張るのを里緒は覚えた。さもなくば膨張する温もりに耐えきれる気がしなかった。
「お母さん」
縛っていた口がほどけて、声が漏れた。
「私、その……」
ずっと、ずっと、瑠璃のことを誤解していた。瑠璃は里緒を見捨てたのでもなく、自分を苦しめた里緒を恨んでいたのでもなかった。ただ、真摯な愛を捧げ続けてくれていたのだ。自殺したのは他でもない、里緒や大祐を苦しみから解き放つためだった。西成満に真実を聞かされるまで、そんなこととは露ほどにも知らなかった。
『分かってるよ。もう、何も言わないで。里緒は何も言わなくていい』
頭を撫でながら、瑠璃は優しく言い聞かせた。その長い睫毛が一瞬ばかり瞳を隠し、微かに震えるのを、里緒は確かに目の当たりにした。
『この一年半、里緒とお父さんのこと、ずっと見てたよ。二人が悩んでいたのも、苦しんでいたのも、みんな見てきた。こんなことならもっと多くを書き残していくべきだったなって、今、ちょっぴり後悔してるところなの』
「そんなっ……」
『お母さんはね、二人に幸せになってほしかった』
瑠璃は言い切った。澄み渡った瑠璃の声が身体中に浸透して、里緒は刻一刻と痛みを覚えた。
『お父さんも、里緒も、お母さんのことを幸せにしてくれた人だった。だからね、二人にもお母さんに負けないくらい、幸せな日々を生きていってほしかった。一年半前のあの日、私は死ぬことでしか二人を幸せにしてあげられないと思った。そう信じて実行したはずだったのに、結果的には里緒のことも、お父さんのことも追い詰めてしまって……、すごく申し訳ない気持ちでいる。苦しんでほしくなんてなかったの。本当だよ』
とんでもない、それは里緒が弱かったせいだ。大祐も自分のことを『弱かった』と嘆いていた。お母さんは悪くない──。首を振って否定したかったが、身体を縛られたままの里緒にはそれさえもままならなかった。
『だけど、今は心配してない。里緒はもう大丈夫だから』
瑠璃は声のトーンを上げ、やんわりと里緒の叫びを否定した。
『里緒は今、過去の失敗や苦しい記憶と向き合って、闘って、打ち克とうとしてる。たとえそれで負けて、泣いて、倒されたとしても、今の里緒はたくさんの味方がいるでしょう。力を借りて立ち上がれば、また何度だってやり直せる。それができる今の里緒は、強い。誰にも劣らないくらい強くなったんだ』
里緒は反論できなくなった。失敗や挫折の記憶に挑もうとしているのも、仲間がいるのも、この身をもって知る紛れもない事実だった。
高度な社会性生物である人間は、たとえ望んだとしても、ひとりでは生きてゆけない。だから、誰かの胸に顔を埋めて泣いても、誰かの手を借りて起き上がっても、それは何も恥ずかしいことではない。“強い”という言葉は、必ずしも“一人で何にでも立ち向かえる”ことを意味しないのである。
だとすれば、里緒は瑠璃の言う通り、強くなれたのだろうか。
瑠璃が命を懸けて護っただけの価値のある娘になれたのだろうか。
『よく頑張ったね』
答える代わりに微笑んだ瑠璃は、里緒の身体に腕を回し、抱き締めた。
あの痛みに似た温もりが全身に広がった。今にも箍が外れ、熱膨張した身体が内側から弾けるのではないかという恐怖にも似た予感に囚われながら、里緒は不意に泣き出しかけた。
──ああ。
長い間、忘れていた。
大切な人に抱き締められるのは、こんなにも暖かくて、切なくて、愛しいことだった。
過去の記憶がフィルムのように里緒と瑠璃を取り巻き、ぐるぐると走馬灯を成してゆく。友達も作れなくて寂しかった小学生の頃、いじめと瑠璃の自殺で苦しみ続けた中学生の頃、そして高校生として過ごした直近の半年間。思えば、泣いて、嘆いて、流されてばかりの十六年だった。それも今はすべて過去のものとなって、温もった里緒の肌にそっと触れては、ぱちんと夢が覚めるようにして消えてゆく。
悲痛な過去の呪縛は失われ、あとにはただ、瑠璃だけが残されて。
『ありがとう』
抱きしめながら、瑠璃は繰り返し、自らにも言い聞かせるように言葉を唱え続けた。
『生まれてきてくれてありがとう。大きくなってくれて、ありがとう。十六年間、私たちの娘として生きてくれて、本当に……ありがとう』
クラリネットもろとも腕に抱かれたまま、里緒は黙って、瑠璃の折り重ねる言葉に耳を傾けた。抵抗を許さないほどの莫大な温もりに包まれて、思考回路も唇も完膚なきまでに痺れていた。
きっと今、自分は嬉しいのだと思う。
しかし同時に、『嬉しい』という言葉だけでは、心のカタチを説明しきれないとも思った。
どう足掻こうとも、すでに瑠璃は生者ではない。生きている人に認められなければ、里緒が現世を生きてゆくこともできない。そして、いつか現世に立ち戻った時、そこに優しく里緒を歓迎する手が広げられている保証は、どこにも見当たらないのだ。
もしかすると演奏をしくじったかもしれない。
客席はブーイングにまみれているかもしれない。
ともに舞台に立った部員たちは、悔しさや無念に唇を歪め、消沈しているかもしれない──。
「お母さんは……私のこと、いつだって心の底から愛してくれた」
目を閉じて、呻いた。喉が熱で縮んでしまって、きちんと届く声にならなかった。
『そうだね』
背中に回していた手を頭に乗せ、瑠璃はうなずく。里緒は必死に言葉を選んで、胸の奥の不安を、恐怖を、訴えかけようと試みた。
「私のこと無条件で愛してくれるのなんて、お母さんとお父さんだけだよ。お母さんはもう、私の隣にはいないし、お父さんのところからもいつかは独り立たなきゃいけない……。私、まだ、大丈夫なんかじゃない。みんなに愛してもらえる自信がないよ」
瑠璃は目を丸くした。
だが、すぐに首を横に流し、何でもないことのように言ってのけた。
『里緒は大丈夫。心配なんて何も要らないよ』
「でもっ……!」
伝わらないもどかしさが高じて、里緒は夢中で叫んだ。すると、瑠璃は里緒の身体から手を離して、一歩ばかり後退した。
全身を包み込んでいた莫大な温もりが瞬く間に宙に溶け、「あっ」と里緒は喘いだ。手を放された瞬間、頽れて死んでしまうのではないかと思った。けれども実際にはそんなことはなくて、やっぱり里緒は瑠璃と二人、どこまでも続く暗闇の中にぽつんと佇んでいた。
『里緒はちゃんと、認められてる』
瑠璃は里緒の目を見つめ返した。潤みの残った瞳が輝いて、優しく、柔らかく、里緒の意識を引き寄せた。
『だけど信じられない気持ちも分かる。せいいっぱい信じたものに裏切られるのが怖い気持ち、お母さんにも痛いくらいに分かる。だからね。少し、お母さんの言う通りにしてほしいの』
「……うん」
『里緒。お母さんの顔、見て』
瑠璃の言葉とあれば従う他はない。言われるがまま、里緒は瑠璃の顔を見た。
瑠璃の背丈は里緒よりもわずかに高い。自然と顎が上がり、見上げる形になった。
『いい、耳を澄ませて。よく聴いていてね』
瑠璃は唱えた。
『これが、あなたを受け入れた世界の音だよ』
瞬間、瑠璃の姿は虚空に掻き消えた。同時に金縛りが解けて、里緒は身体の自由を取り戻した。
もはや瑠璃はどこにも見えない。
「お母さん……っ」
一瞬の出来事にわけが分からなくなって、里緒は激しく取り乱しかけた。夢と現実の狭間に広がる虚無へ堕ちて、二度と這い上がれなくなるのではないかとさえ思った。怯えた。
刹那、目の前に広がっていたはずの一面の暗闇が、幕を切って落とされたように崩れ落ち──。
拍手の大爆発が、里緒を飲み込んだ。
そこにはフェアリーホールの光景があった。里緒は舞台の最前列に立ち、二五〇〇人の並ぶ座席から膨れ上がった拍手喝采の爆轟を浴びていた。
八分間の演奏を経て暗闇に慣れた二つの目は、舞台上に立った時には見えていなかった観客たちの顔を、姿を、克明に網膜へ投影していた。彼らは猛然と手を打ち、演奏を終えた里緒たちの努力を祝福していた。コンクールの舞台だというのに、スタンディングオベーションに励む客の姿までもが見当たった。見渡す限りどこまでも詰まった、人、人、人──。遥か彼方の二階席には卓上ライトの小さな光が点々と輝き、審査員席の存在を高らかに主張している。そこに座る人々もまた、にこやかに笑って手を打っていた。
すさまじい音の圧力だった。
いまにも耳が壊れて潰れそうだ。
里緒の身体は震えを帯び始めた。首から下がるクラリネットを胸に抱え、茫然と客席を見上げた。不意に、頬を滴が滑り落ちる感覚が走って、里緒はようやく自分が泣いているのを自覚した。
やっと分かった。
瑠璃が聴かせたかったのはこの音だったのだと。
楽器を吹き、学校に通い、涙をこらえて懸命に生き続けた十六年の集大成を、観客はこれほどの拍手でもって称えてくれている。成し遂げた演奏の素晴らしさを全身で体現してくれている。その事実をこそ、瑠璃は知ってほしかったのだ。
耳が痛い。
胸も痛い。
息を吸っても、吐いても、炸裂した感情は元に戻ってはくれない。
そこに里緒を苦しめる声はない。耳元でささやく悪口や罵倒も、瑠璃の嘆きも、まるで聴こえない。すべては拍手の渦に敢えなく飲まれ、弾かれ、跡形もなく記憶の牢から消し飛んでゆく。
里緒は名実ともに過去を乗り越えてしまった。
(お母さん……っ)
無言で名前を呼んだとたん、堰を切ったように涙があふれた。全身が痙攣にまみれ、もはや立っているのもやっとだったが、その瞬間、独奏者の果たすべき最後の役割を思い出して、里緒は首から提げていたクラリネットを斜めに構えた。
それは、事前に取り決めていた“全員起立”の合図だった。靴や衣擦れの音を響かせ、背後の十四人が一斉に席を立つ。それを待って深々と頭を下げ、一礼した。
弾けた涙の粒が床に落ちて砕け、舞台の床をひたひたと汚してゆく。いよいよ拍手は大きくなった。一秒、二秒、三秒──。長い一礼をようやく終え、ぐしゃぐしゃの顔を里緒が引き上げるまで、高波のような拍手は一瞬たりとも鳴り止むことなく、ホール内の空間を打ちのめして制圧していった。
「っう、……ぅう……っ……!」
公衆の面前だというのも忘れて里緒は泣きじゃくった。それでも最後に残った羞恥心が強く作用して、声を上げて泣くような真似だけは必死に我慢した。抱えたクラリネットのキイに涙の光が破け、音孔から管の内側に滑り込んでゆく。まともに歩くことも叶わなくて、一歩、一歩、踏みしめるように出口へ向かった。
振り返れば、そこには管弦楽部の仲間たちの姿が見当たるはずだった。しかし視界がぼやけて何も見えない。拭いきれない涙を諦め、漏れ出す嗚咽を懸命に噛み殺しながらとぼとぼと歩いていたら、背後から誰かの駆け寄る足音が甲高く響いた。
「──高松!」
潜めた声で叫んだのは美琴だった。ピアノの後片付けをステージ係のスタッフに任せ、追いかけてきてくれたのだ。
駆け寄ったはいいものの、咽び泣く後輩を前にして何をしたらいいのか分からなかったらしく、美琴は恐る恐る里緒の肩に右手を回してきた。歩きやすいように支えてくれようとしたのだろう。触れた場所から伝わった思いやりが熱く、苦しい。今は、その熱さも苦しさも無性に愛しくて、余計に感情が昂って、クラリネットを握りしめた里緒はしゃくり上げた。
「せんぱい」
「うん」
「私っ……。生きてて、よかった……っ……」
自然と心に浮かんだその八文字は、荒波をもつんざく鐘の音のように里緒の胸へ轟き渡って、拭い去ることのできない残響を刻んでいった。
どこかで生きるのを諦めていたら、こんな結末を迎えることもできなかった。
十六年間、生きてきてよかった。
生まれて初めて心の底からそう思えた。
美琴が喉を詰まらせた。唇を噛み、肩を震わせた彼女は、圧し殺した声で「そっか」と里緒の激情を受け止め、それからそっと背中を押してくれた。
舞台袖に続く扉は開放されていた。よろめきながら扉を抜け、薄暗い舞台袖に里緒と美琴がたどり着くと、そこでは不参加組を含む弦国の二十人がコンクール組の帰還を待ち受けていた。
花音を含め、すでに数人が泣き出していた。幽霊のような足取りで近づいてきた花音と、それから紅良に、里緒は思いっきり抱き着いた。倒れ込んでしがみついたという方が適切だったかもしれない。二人の肩に身を預け、泣いて、泣いて、赤ん坊みたいに泣きじゃくった。あふれんばかりの勢いで燃え上がるこの胸の感情は、“泣く”という動作でしか表現できなかったし、発散もできなかった。
里緒ちゃんすごかった、格好よかった──。花音が耳元で泣き喚いた。紅良は何も言わず、里緒の背中に手をやって、そっと穏やかに撫で、八分間の奮闘を労ってくれた。その頬にも温まった涙が流れ出し、里緒の制服の肩に大きな染みを作っていった。
十四人の仲間を逞しく牽引し続けた緊張の糸が、ここにきて切れてしまったのだろう。舞台袖に戻ってくるなり、菊乃は美琴を強引に抱きしめて泣き崩れた。迷惑そうに美琴は顔をしかめていたが、その目にはまだ、里緒を抱き止めた時の充血の痕跡がはっきりと残っていた。傍らに立ち尽くしていた舞香が、感化されたように「ぐすん」と鼻を鳴らして、隣の香織に目尻を拭われていた。唇を丸く曲げ、制服の袖を目に押し付けた緋菜の横には、満足げな笑みを浮かべた小萌が寄り添っていた。宗輔のチェロを放り出させた智秋と郁斗は、不参加組のはずれに立っていたトランペットの丈を呼び寄せ、円陣を組んで仲良く笑い合っていた。弦楽パートの後輩三人の嬉し泣きの面倒見を一手に引き受けさせられた洸は、安堵の吐息を漏らしたホルンの実森と視線を交わし、それから困ったように部長を見て、首を傾げた。
“もうちょっと、ここにいようか”。
赤らんだ眦に無言の台詞を込め、はじめは微笑んだ。里緒の知る限り、それはおよそ数ヶ月来に部長の見せた本物の笑顔だった。
京士郎は表情を見せられないかのようにうつむき、矢巾は涙を指ですくいながら、何度も、何度も、うなずいていた。涙色の霧に染まった舞台袖から声が途絶えることはなく、そこには全力を振り絞った八分間の余韻が滔々と流れ出して、塩味の透けた水溜まりを描いていった。
「……聴いてたんだな、瑠璃」
▶▶▶次回 『C.181 贈る言葉』